奪われた青い石

3.

 テーブルに置かれた葡萄酒のゴブレットを手に取り、青珠は物憂げにゴブレットを手の中で揺らす。
紅珠こうじゅが、現れるわ」
 その言葉が何を意味しているのか、一瞬、ユリウスには理解できなかった。
「紅珠? まさか、それは……」
「ええ。赤い石の精霊。四人の珠精霊の一人よ。これには紅珠が関わっているわ」
 青珠は細い指でゴブレットを弄び、中身の揺れる液体を見つめた。
 それに呼応するようにランプの灯が妖しく揺れる。
「精霊の気配は自然そのもの。風の精霊の気配は風。水の精霊の気配は水。けれど、実体を持つ精霊がこの世界に四人だけいるの」
──珠精霊。おまえを含む、四宝珠に宿る精霊たちだね?」
 ユリウスは突然、はっとした。
「もしかして、朱夏の魔女が紅珠なのか? 彼女は赤毛だし、通り名に“朱”が入っている。珠精霊なら、千年を生きていても不思議はない」
「ユーリィ、七歳のときに会った朱夏は精霊だった?」
 冷静に指摘され、彼は口をつぐむ。
「……いや。だったら、気づく」
「そうね。朱夏は精霊ではないわ。紅珠は少年の姿をしているの。それこそ燃えるような赤毛で、この葡萄酒のような色の瞳の、わたしより二つか三つ年下に見える少年」
 青い石の精霊は記憶をたどるように、ゆっくりと言った。
 彼女の視線が暖炉へと向けられ、ユリウスも同じくそこに揺れる赤い炎を見た。
「火を元素とする赤い石・“紅珠”。その石に宿る精霊は、珠精霊の中でも最も強い力を持っているわ」
「四人の珠精霊の力はほぼ同じだと思っていたが」
 ユリウスが眉を上げると、青珠は視線を彼の碧い瞳に戻し、右手の人差し指で空中にダイヤの形を描いてみせた。
「菱形を思い浮かべてみて? その上の角に紅珠、下の角に翠珠、そして左右に黄珠とわたしが位置する。珠精霊はそんな力関係なの」
「紅珠が最強で、翠珠が一番弱いってこと?」
「そうではないわ。紅珠は天、翠珠は地に位置している。黄珠とわたしはその中間。この関係性が四つの石の均衡を保っているの」
「紅珠は天……」
「言い方を変えれば、紅珠の力は正、翠珠の力は負の要素が大きい。持っている力の種類の差ね」
「正の力と、負の力……つまり陰陽?」
「そうよ。紅珠は光、翠珠は闇。黄珠とわたしはその中庸。火の宝珠の精霊が火を用いてメッセージを送ってきたと考えるのが自然ね。火を使えば、わたしに邪魔されることなく、あなたのもとに言葉を届けることができるから」
 コトリ、と青珠がテーブルに置いた葡萄酒のゴブレットを、ユリウスの指が持ち上げ、その鮮やかな濃い赤紫の酒を見つめた。
「……紅珠、か」
「そして赤い石は、おそらく朱夏のもとにある」
「朱夏の魔女が、赤い石のあるじ──
 青珠はうなずいた。
「精霊に近い“気”を感じた。あなたはそう言ったわね。霊体でいる珠精霊の気配は珠精霊同士でも感知することはできない。紅珠が霊体であったのか、実体で動いていたのかは判らないわ。でも、ユーリィにはその気配を感じ取ることができた」
 青い石の精霊の澄んだ青い瞳がまっすぐにユリウスを射た。
「魔女である朱夏が欲しがっているのは、あなたの持つその“力”だと思うの」
──
 朱夏の魔女。
 その名にどうしようもない不安を覚える。
 彼女はいったい何者なのか。
「青珠から見て、紅珠はどんな精霊だ?」
「無邪気で如才ない感じ、かしら。でも、珠精霊はほとんど交流を持つことがなかったし、内面までは解らないわ」
 ユリウスの手にあるゴブレットを眺め、青珠は物思わしげに付け加えた。
「でも、ユーリィ。あなたが朱夏に会いたくないなら、会わなくていい。あなたはわたしが護るわ。青い石の名にかけて」
「……ありがとう、青珠」
 暖炉の炎が揺れている。
 微かに微笑み、ユリウスはゴブレットの葡萄酒を飲み干した。

* * *

 深夜、宿の部屋でユリウスが眠ったことを確認した青珠は、霊体になって夜の町へ出た。
 気になることがある。
 この町の祭神の神殿を訪れ、そこに祀られた神を確かめると、青い石の精霊はわずかに眉をひそめた。
(やっぱり──
 祀られていたのは、火の神・ウゥルカーヌスであった。
(紅珠は、この町を選んでユーリィを待ち伏せていたんだわ)
 あらゆる自然界の精霊を従える珠精霊たちにも、それぞれに核となる元素、相応しい力がある。
 黄珠は風。
 紅珠は火。
 青珠は水。
 翠珠は地。
 たとえば、青珠も火を操ることができるが、火の宝珠の精霊である紅珠の操る火には及ばない。逆に水を操るとなれば、四人の珠精霊の中で青珠の力が最もまさる。
(だから紅珠は、守護神を火の神とするこの町で、何かを仕掛けるつもりなんだわ)
 火神の神殿の参道にふわりと実体を現した青珠は、そこに茂る大樹を屹と見上げた。
「彩羽」
 闇はしんとしている。
「火の神の神殿内にいても、わたし自身が同じ場所に入れば、気配は解るわ。紅珠はどこ?」
 少しの沈黙のあと、くくくっとくぐもった笑い声が響いた。
「全く、珠精霊ってのはどいつもこいつもいけ好かないな」
「紅珠はどこ」
「知らないよ。おまえのあるじを迎えにでも行ってるんだろう」
「あなたは紅珠を待っているの?」
「そうだな。奴にここで待機していろと言われた」
「ユーリィは朱夏のもとへは行かないわ」
 樹上からふっと嘲笑うような吐息がこぼれた。
「おれはおまえを待っていたんだよ、青い石の精霊・青珠。ずっと、ユリウスが一人になるのを待っていた」
 蒼い髪の美しい精霊は唇を噛んだ。
 ユリウスはこの町に入ってから精霊の“気”を感じると言った。
 この町に到着するまで、彩羽は空からユリウスと青い石の精霊を監視していたのだ。
 そして、火の珠精霊に有利な火の神を祭るこの町で、紅珠は罠を張り、自分たちを待ち受けていた。
 ユリウスを捕らえ、朱夏のもとへと連れていくために。
 青珠ははっと宿の方角を振り返った。
「炎の匂い──!」
 夜空には星が瞬き、闇は冷たい。そして、町は静かだ。
「おれには何も匂わないがな。でも、まあ、始まったってことか」
 鳥の羽ばたく音が聞こえた。
「彩羽、待ちなさい!」
 素早く青珠は上空に風の精霊を送ったが、羽ばたく音は、それほど弱まりはしなかった。
「火の神の神殿は奴のテリトリーだ。たとえ珠精霊が操る風でも、奴に護られたおれをここで捕まえることはできないよ」
 彩羽の声が遠ざかる。
 だが、それよりも炎の匂いに胸騒ぎを覚え、青珠は霊体になって、ユリウスが眠る宿へ急いだ。

 わずかな振動を感じる。
 薄闇の中、ふっと眼を覚ましたユリウスは、寝台の枕元の卓子に置かれたコップの水が揺れていることに気づいた。
 青珠が置いていった水だ。
 水が、危険を知らせている。
「……青珠?」
 精霊の名を呼んだ。
 が、彼女にユリウスの声は聞こえないようだ。
「何……が、起きている……?」
 宿の中は森閑としていた。
 コップの水がさざめいている。
 器の中の水だけが、次第に激しく、波を立てる。
「……っ!」
 火の匂い──
 ユリウスは息を呑んで、寝台の上に身を起こした。
 万が一の用心のために寝衣に着替えず、黒衣のまま寝ていた。
 彼は精霊の声に耳を澄ます。
(火……煙の匂い……熱気に押されて、大気の精霊たちが逃げ惑っている)
 火の匂いがじわじわと強くなる。
 そのとき、
「火事だーっ!」
 と叫ぶ人の声が聞こえた。
「!」
 宿の中がにわかに慌ただしくなる。
 大気の精霊を圧倒する火の精霊たちの声が聞こえないことにユリウスは疑念を抱いた。
 その火の勢いが半端ではない。
 瞬く間に充満する煙がユリウスのいる部屋の扉の隙間からも流れ込んできた。
(青珠がいなければ、火の精霊を抑えることは無理だ。とにかく、逃げなければ)
 部屋の木の扉が燃え出した。
 室温がじわじわと上がっていく。
 ちらりと窓を見たユリウスが寝台から降りようとすると、薄暗い室内に、突如、ふわりと降り立つ一人の影があった。
「っ!」
 ──精霊。
 炎を連想させる赤い髪、深みのある葡萄酒色の瞳。
 人間でいうなら十四、五歳に見える、小柄な少年。
 突然、姿を現したその少年は、自分を見つめるユリウスに対し、にっこりと人懐っこい笑顔を作ってみせた。
「地のユリウス。ようやく会えたね」
 尊大な口調であった。
 金縛りにあったような緊張を覚え、ユリウスは大きく眼を見張った。
「紅珠……!」
 赤い石の精霊が今そこにいる。

≪ prev   next ≫ 

2018.11.14.