奪われた青い石
4.
目の前に炎が揺れている。
ユリウスは立ち上がり、呆然と、部屋の中に立つ華奢な少年を見つめた。
「青珠は来ないよ」
火の色の髪を持つ彼・紅珠は、白い膝丈のキトンの上に、優雅な茶色の縁取りのあるクリーム色のクラミュスという古風な出で立ちであった。
「君を捕らえるために、この建物に炎の結界を張った。この結界を越えて精霊を呼ぶことはできない」
「……朱夏の魔女の差し金か?」
「もちろん。約束を破った君が悪いんだ。だから、おれがここまで迎えに来た」
紅珠は悪びれずににこっと笑った。
「この火事が結界なのか?」
「そうだよ」
「なぜ、宿の人たちを巻き込んだ?」
鋭い瞳で赤い髪の精霊を見据えるユリウスに対し、紅珠は無邪気そうに眉を上げた。
「何を気にすることがある? 鳥たちは君の捕縛に失敗し、二羽が死んだ。それなら、青珠を従えた君を捕らえるため、火の珠精霊であるおれが火を使うのが妥当だろう?」
ユリウスは寝台に置いてある剣を意識した。
だが、珠精霊相手にそんなものが何の役に立つだろう。
紅珠から視線をそらさず、ユリウスの手が枕元の卓子に置かれたコップに伸ばされる。
「朱夏の魔女とは約束などしていない。彼女が一方的に決めたことだ。僕が朱夏のもとへ行かなければならない理由はない」
「困ったね」
駄々をこねる子供を見遣るような眼差しで、紅珠は軽く首を傾げて微笑んだ。
「朱夏には君が必要なんだ。どうしても来てもらうよ」
室内の温度が上昇している。
木の扉を焼いた炎はさらに勢いを増し、部屋の中程まで迫っていた。
炎の燃える音以外は何も聞こえず、宿泊客や宿の使用人たち、この建物にいる他の人々の様子は判らない。
なんとか逃げていてくれればとユリウスは祈った。
そこに立つ紅珠の背後を取り囲むように、迫りくる火の進行が止まった。だが、依然、火勢は衰えていない。
「ユリウス、窓から外へ出てくれる? アルタイルが君を運んでくれるよ」
「アルタイルというのはさっき僕を襲った鳥の一羽か?」
「そう。君一人くらい乗せて朱夏の館まで運べる」
「──嫌だ」
低い声で答えたユリウスは、刹那、コップを手に取り、その水を紅珠に向かって鋭く撒いた。だが、
じゅっ──!
水は一瞬にして水蒸気となって砕け散った。
紅珠の口許に不気味な笑みが貼りついた。
「青珠の水か」
胸の前に右手で手刀を作った紅珠のその指先に、ぽっと精霊の火が点っている。
「だが、残念。青珠の水とおれの火の力は互角。相殺されるだけだ」
ユリウスは火の珠精霊をじっと睨め付け、退路を探った。
「仕方ないな。少し意識を失っててもらうよ、ユリウス」
「眠りの結界は僕には効かない」
「だろうね。じゃあ、炎で君専用の眠りの結界を作ろう」
炎の音がひときわ大きく唸り、寝台の横に立つユリウスを囲うように、じわじわと部屋を焼く。
窓枠も壁も赫く火を噴き、焼けつくような熱気が充満する。
眼を開けているのもつらい。
紅珠が一歩前に進んだ。
寝台を背に立っていたユリウスは、後退さろうとして、ふらつき、寝台の上に腰を落とす形となった。逃げ場はない。
後ろ手に剣を掴んだとき、紅珠がすっとユリウスの前に立ち、右手を伸ばした。
「剣など何の役にも……」
ユリウスの額に触れようとした紅珠は、その瞬間、はっとした。
「結界──!」
紅珠の掌から熱気を感じたが、その掌はユリウスに触れることなく空中にとどめられている。
何が起こったのか、とっさに理解できないユリウスだったが、反射的に紅珠の身を拘束しようと、伸ばされた紅珠の腕を掴もうとした。
じゅううっ……!
「つっ!」
熱した鉄に水滴を落としたような音がした。
紅珠の肌は火のように熱く、ユリウスの指に火傷のような鋭い痛みが走った。
だが、視線を落とした指先には傷ひとつない。
「水の結界」
憎々しげに紅珠がつぶやく。
「君自身に結界が張られている。これでは、おれは君に手出しすることはおろか、触れることすらできはしない」
燃え盛る炎の熱風がユリウスの淡い金髪を、紅珠の火のようなやわらかな赤毛を、幻のように照らし、揺らしている。
紅珠に寝台の上に追いつめられた形のユリウスは、大きく眼を見張った。部屋の中は火の海だ。状況からすれば、ユリウスの劣勢は明らかだ。なのに──
(結界?)
ユリウスははっとする。
昨日の夕方、青珠の水を飲んだ。
あの水がユリウスの身体そのものに結界を張っているのだ。
(……青珠──!)
「君は青珠の水の結界に護られている。たとえ、おれがこの町全てを焼き尽くしたとしても、君だけは火傷ひとつ負わずに助かるだろう」
「引き下がるか、紅珠?」
ユリウスは低い声で問うた。
「まさか。今日のところは青珠の勝ちだ。だが、最終的に君が朱夏のもとへ来れば、朱夏の望みは果たされる」
紅珠は、つと後ろへ下がり、右手で手刀を構え、口の中で呪文を唱えながら、ウゥルカーヌス神殿のある方角へ向かって空中に六芒星を描いた。
「予定変更だ」
火の精霊たちが舞う。
勢いを増す熱気に視界がけぶる。
紅珠の操る火の精霊たち、大気の精霊たちが迫る灼熱の気配に、ユリウスは剣を取って身構えようとした。が、立ち上がることができなかった。
あまりの熱に息がつまりそうだ。
「大丈夫。青珠の結界のおかげで君は呼吸ができるし、君の周囲から空気がなくなることもない。火傷もしないよ」
火の精霊たちの熱が、ちりちりと髪を焼く音が聞こえるようだった。
そして、左の耳たぶに鈍い痛みを覚えた。
「ただ、悪いね、ユリウス。君の一番大切なものを預からせてもらうよ」
「──!」
紅珠はユリウスに触れられない。
だが、赤い石の精霊の代わりに、彼の操る火の精霊たちが、ユリウスの肌には触れぬよう、彼のその青い石を象嵌した耳飾りを外そうとしていた。
「何を……!」
愕然と耳元に手をやるユリウスの周囲を、渦巻く炎が威嚇するように取り巻いた。
「動くな、地のユリウス。下手に動くと、この宿屋以外の建物にも累が及ぶよ」
「──」
思考がとまる。
彼らがいるこの宿は激しく火を噴いていることだろう。
しかし、近隣の建物はまだ無事なのか。
紅珠の操る火の精霊たち、大気の精霊たちが、ユリウスの左耳から燻し銀の耳飾りをゆっくり外した。
小さな赫い鬼火のように見える火の精霊たちの群れが、青い石を嵌めた耳飾りを紅珠の手許へと運ぶのを、ユリウスは何もできずに呆然と見つめていた。
耳飾りは赤い髪の少年の掌に乗せられた。
「さあ、君はどうするか」
耳飾りを手にした紅珠はあどけなく笑む。
赤い石の精霊の炎が取り巻く部屋の外で、突然、小さく爆発するような音が連続して轟いた。
「青珠が来たようだな」
紅珠がにやりと笑う。
爆音は次第に大きくなり、外から部屋の窓が粉砕された。
はっとユリウスがそちらを顧みると、微かに炎に照らされた闇の中、外は激しい雨が降っている。
精霊に操られた雨だった。
「青珠──」
「おれの火の結界も、ここまでだ」
耳飾りを手にした紅珠が勝ち誇ったようにユリウスに眼を向けた。
「地のユリウス。また会おう。今度は君のほうから、朱夏の館を訪ねてくることになるね」
「なに……?」
激しい炎が渦を巻く。
「青い石を返してほしかったら、自分で取りにおいでよ。それまで、おれが大切に預かっておく」
「……っ」
壊された窓から、激しい雨風が吹き込んだ。
視界一面、白煙に覆われ、ユリウスは片腕で眼を覆う。凄まじい熱気の中から、急にひどく冷たい驟雨の中に放り込まれたような感覚に、凍える思いで眼を開けたとき、紅珠はもうそこにいなかった。
「ユーリィ!」
聞き慣れた可憐な声に振り返る。
窓側の壁が大きく破壊されていた。
たった今まで紅蓮の炎に包まれていたはずの宿の部屋は、ユリウスの座る寝台以外、真っ黒に焼け焦げ、辺りは靄のような水煙に覆われていた。
「おーい、生存者がいるぞ!」
外には大勢の町の人々が集まっていた。
宿屋から救出された人たちが介抱され、男たちは火消しに奔走している。
火災がおさまると、すぐに雨はやんだ。
びしょ濡れのユリウスのもとに駆け寄った青い石の精霊が、寝台の上に力なくうずくまる彼の身体を抱きしめた。
「よかった、無事で」
「青珠……」
「解っているわ、ユーリィ。何も言わなくていい」
薄れていく意識の中で、ユリウスの脳裏に浮かんだのは、蘇芳の髪を持つ美しい女の妖しげな微笑であった。
青い石の精霊・青珠はここにいる。
しかし、青い石は──?
自分を抱える青珠の細い腕を感じながら、ユリウスはふっと意識を失った。
2018.12.1.