奪われた青い石

5.

 意識が戻ったとき、ユリウスはどこかの部屋に寝かされていた。
 日は高く、部屋の空気は暖かい。
 暖炉には赤々と火が燃えていた。
「青珠……」
「ここにいるわ」
 頭をめぐらせ、ユリウスは青珠の顔を瞳に映す。
 ユリウスの横たわる寝台の傍らに置かれた椅子に青珠は静かに座っていた。ずっとユリウスに付き添っていたようだ。
「火事はどうなった?」
「火は消し止めたわ。紅珠の操る火だったので、少し手間取ったけど、安心して。死者はいない」
「おまえが雨を降らせたんだろう? 町の人たちには……」
 彼を安心させるように、青い石の精霊は力なく横たわるあるじの髪を撫でた。
「わたしは魔道師ということになっているの。わたしが力を使って雨を降らせたことは、皆、承知しているわ」
「名を名乗ったのか?」
「今の世に“青珠”が青い石の正式名称だと知る人間が、どれだけいると思うの? 四宝珠の存在すら伝説だと思っている人間のほうが多いわ。大丈夫。わたしは人間だと思われている」
 ユリウスは小さくため息をつく。
「ここは?」
「別の宿よ。あなたの剣も路銀も、寝台の上にあったから、燃えずにすんだわ」
 ぐったりと一度眼を閉じてから、ユリウスは天井に視線を向けた。
「……火事の原因は僕だ」
「ユーリィ。自分を責めないで。火を放ったのは紅珠だし、町の人々には放火だと説明したわ」
「放火?」
 青珠はうなずく。
「辻褄を合わせないといけないでしょう? あなたが斬ったという鳥たち──人間に変化した彼らの遺体がそのままだったから、彼らが放火し、その後、仲間割れで殺し合ったということにしたの」
「そんな話を、町の人たちは信じたのか? 第一、彼らは夏の格好だった」
「ユーリィ、忘れた? 精霊の言葉は一種の暗示よ」
 哀しそうに青珠は微笑む。
 そんな彼女の表情が、触れたくない事実を思い出させた。
 ──左耳が軽い。
「怪我人は多いけど死者はいないわ。あなたなら人命救助を優先させると、そう思ったから、そうしたの。だから、あなたのもとへ行くのが遅れて──
「いや。僕が紅珠に連れ去られずにすんだのは、おまえが僕に結界を張ってくれていたおかげだ」
 ふと、ユリウスの視線が青珠から逸れた。
「……すまない」
 その声は掠れていた。
「僕が至らないせいで、青い石を紅珠に……」
「解っていると言ったでしょう?」
 その先を、青珠は彼に言わせなかった。
「紅珠がそこまでするとは思わなかった、わたしの落ち度でもあるわ。でも、ユーリィ。心配しないで」
 青珠の口調は静かだ。
 だが、そこにただならぬものを感じ、ユリウスは寝台の上にゆっくりと身を起こした。
 彼はいつもの巡礼の黒衣ではなく、茶色いウールの長袖のチュニカにズボンという、ごく普通の町人の衣服をまとっている。
「青い石を取り戻せば、何もかも元に戻るわ」
「青珠。紅珠の力を僕は目の当たりにした。青い石を取り戻すのはそんなに容易なことではないはずだ」
 青珠に向き合い、ユリウスは足を床に落として寝台に腰掛けた。そんな彼を、青珠は真正面から見つめている。
「おまえには、青い石のある場所が判るね?」
「ええ。判るわ」
「じゃあ、すぐに出発の用意をしよう。紅珠や彩羽に対しても、策を考えなければ」
「駄目よ、ユーリィ」
 青珠の言葉に、ふとユリウスは眼を見張る。
「どうして?」
「何ていうのかしら。紅珠のやり方に違和感を覚えるの。わたしの知っている紅珠とはどこか雰囲気が違う。朱夏の影響かもしれない。あなたは来ないほうがいいわ」
「紅珠の目的は僕だ」
「だからこそ、危険な気がするの」
 ユリウスは身を乗り出し、蒼い髪の娘へと手を伸ばした。
 彼女の膝の上にある小さな白い手を握りしめ、ぽつりとつぶやく。
「手が冷たい」
 室内は暖かいのに。
「青い石が遠くにあるせいよ」
 ユリウスは眉をひそめた。
 彼女は“青い石”の精霊だ。
 石が存在して、初めて彼女の存在に意味が生まれる。
「ねえ、ユーリィ。子供の頃に会った朱夏に、あなたは恐怖を抱いたんでしょう?」
「……」
「あなたの直観力はわたしも知っている。それを無視して、あなたを朱夏のもとへ行かせるわけにはいかないわ」
「だが、危険ならなおさら……!」
「わたしはあなたの使い魔として言っているの」
 そっとユリウスに握られた己の手を引き、青珠はふわりと立ち上がった。
「だから、わたしが行くわ、ユーリィ。紅珠の手から青い石を取り戻す」
「一人では行かせない!」
 続いて立ち上がったユリウスが、素早く青珠の腕を掴んだ。
「僕の前から姿を消すことは許さない」
「その命に背くことが、わたしのあなたへの忠誠だと思ってちょうだい」
 そうして、すっと消えようとして、自らの身が霊体になれないことに気がついた青珠は軽い驚きの表情を浮かべた。
「なぜ、姿が不可視にならないか、不審? でも、僕に常人にはない不思議な力があることは、おまえも知っているよね」
──
「僕の手がおまえを捕らえている限り、おまえは可視の姿のままだよ」
 青い石の精霊の腕を掴むユリウスの手に、我知らず力が入る。石を奪われてしまったことで、この可憐な精霊を失うかもしれない恐怖が彼の心を苛む。
 なんとしても、彼女を一人で行かせることは避けたかった。
「一人で行くな、青珠。おまえは僕を石のあるじに選び、僕を見守ることを誓ったんじゃないのか?」
「確かに、わたしはあなたの持つ宿命を共有することを誓ったわ。どんなことをしても、あなたを護る。でも、あなたの使い魔である前に、わたしは青い石の精霊なの」
 彼を見つめる繊麗な顔が哀しみにゆがんだ。
「青い石──水の宝珠・“青珠”から、長く離れているわけにはいかない。四宝珠から離れてしまった珠精霊は、もはや珠精霊ではないわ。その存在理由が失われてしまう」
 過去にも、これと同じようなことがあった。
 青い石を手放され、その所有者との別離を余儀なくされた。
 それは、青珠にとって、愛する者との別離でもあった。
 しかし、あのときとは状況が違う。
 宝珠の所有者に石を手放す意思はなく、強奪されるという人為的行為で正統な石のあるじのそばから離れなければならなくなったのだ。
 それが青珠には切なかった。
「だから青珠、紅珠を追うなら一緒に……」
 青珠は頑なに首を横に振る。
「朱夏が何者か判らない状態で、あなたを連れてはいけない。わたしは必ず戻ってくるわ、ユーリィ。あなたのもとへ。あなたとの約束、決して破りはしない」
 青珠の腕を掴んだまま、ユリウスは彼女から眼を逸らし、うつむいた。
──不安なんだ、青珠」
 つぶやくように洩らした、ひと言だった。
「いくらおまえが約束しても、朱夏の魔女を前にしては無力だ」
「……」
「おまえの意思とは関係なく──おまえは戻ってこないだろう」
 パチン、と乾いた音がした。
──青珠……?」
 とっさのことに驚いたユリウスが顔を上げると、激しい哀しみの色を湛えた青い瞳が、彼をじっと見つめていた。ユリウスの手が、青珠に叩かれた頬に触れた。
「ユリウス」
 と、青珠は低い声で言った。
「わたしはあなたを愛しているのよ、ユリウス」
「青珠……」
 ユリウスの顔に驚きの色が広がった。力を失った彼の指が、捉えていた青珠の腕から解かれた。
「……愛している。だから、戻ってくるわ」
「だけど──青珠、おまえの心の中には僕の入る隙なんかなかったじゃないか。おまえはずっと──僕に出逢う以前から、あの告死天使のことを……」
 青珠は首を振った。
「確かにロズを──愛していたわ。でも、それはもう過去のこと。今はあなたが全て。あなたはわたし。わたしはあなたなの」
 青珠はそっとユリウスに近寄り、その白皙の頬に両手で触れた。
「珠精霊が宝珠から離れてはいられないように、わたしはまた、あなたから離れては生きられない。だから、きっと戻ってくる。あなたのもとへ」
 青珠の頬に涙がこぼれた。
 蒼みを帯びた陶器のような頬──
 引き寄せられるようにユリウスは身をかがめ、考えるより先に、流れるように自らの唇を青珠の唇に重ね合わせていた。
 冷たい感触。まるで、生命のないもののように──
 彼女は精霊なのだ。
 このまま、自らの腕の中に閉じ込めてしまえたら──ユリウスがそう思ったとき、青珠がそっと顔を離した。
 唇に、切なさだけが残された。
──わたしを信じられるわね、ユーリィ」
「ああ」
 言葉と同時に、ユリウスは彼女を抱きしめていた。
 青珠は、ユリウスにとってもまた、たった一人の存在だった。
「おまえを信じる。おまえは必ず戻ってくる。──僕のところへ」
 ユリウスの腕の中で、青珠はうなずいた。
「紅珠と決着をつけてくる。そして、青い石をあなたの手に戻す」
「青珠」
 青珠は、そっとユリウスの腕からすり抜けた。
「青……」
 儚げな微笑みをユリウスに残し、霊体となった青珠の姿は空間に融けるように消えていった。空気と同化したように。
 いつも、ユリウスのすぐそばに、影のように付き従っていた青珠──
 いま、青珠はそこにいない。
 一人残され、半身を奪われたように、ユリウスは頼りない感覚に襲われた。
 不安。そして、寂寥。孤独。
「青珠……」
 ユリウスの指が、ふと、左の耳たぶに触れた。
 そこにあるはずの、青い石を象嵌した耳飾りを求めて。
 ──青珠を求めて。

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2018.12.10.