盲目の王子
1.
気だるさの中で眼が覚めた。
見馴れない天井が見える。
──だるい。
起き上がることがとてつもなくだるい。
ここはどこだったろう。
「青珠……」
つぶやいてみても、あの鈴を振るような声は返ってこない。
無意識に、左の耳に手が触れた。
「呼んでいる……」
主のつぶやきに、黄色い石の精霊・黄珠が顔を上げた。
「王子」
「ユリウスが、彼の使い魔を呼んでいる」
「……青珠──ですね」
「青珠が見えない。──どうしたことだろう? 彼のそばに青珠の気配がない」
「青珠が……いない?」
蜜蝋の色をした黄珠の瞳が微かに見開かれた。
「青珠はかの者の使い魔。珠精霊が契約を交わした主から離れるなど、考えられません」
「……うん」
王子ユリウスは困ったように、見えない眼で遠くを見るような眼差しをした。
「でも、黒いユリウスのそばに、確かに青珠はいない。彼はその事実に戸惑っているようだ」
「どうなさるおつもりですか」
「いい機会──といってはユリウスに悪いが、その時期が来たのだろう。……黄珠、すぐに出発の仕度を」
「では、王子。かの者のもとへ、向かわれるのですね?」
王子ユリウスはうなずいた。
「──逢ってみたい。私の目を持つ者──美しい、巡礼のユリウス」
* * *
青珠が去った翌朝、ユリウスは町を守護する神の神殿へ足を運んだ。
この町の祭神が火の神・ウゥルカーヌスと知り、赤い石の精霊・紅珠が、わざわざこの町を選んで行動を起こした理由を知った。
火神に護られた土地では、水の珠精霊・青珠にとって分が悪い。
精霊の“気”に気を取られ、神殿への参詣を後回しにしたことが悔やまれた。おそらく紅珠や彩羽は、この神殿を拠点に動いていたのだろう。
改めて、ウゥルカーヌスに祈りを捧げたユリウスは、その足で、旅に必要なものを揃えに町の店を廻った。燃えてしまった外套をはじめ、巡礼の装束や薬草など、こまごました品を調達せねばならない。剣は研師に預けてある。
旅の準備を淡々と行う。
青珠に出逢う前は、こうして一人で巡礼の旅をしていた。
だが、どのように一人で旅をしていたのか、もう思い出せないほどに、青珠の存在は大きかった。
鳥の羽ばたく音がする。
「……っ!」
思わず空を仰いで身構えたが、それはただの鳥であった。
(紅珠は本当にあのまま引くだろうか)
ユリウスの泊まっていた宿屋は全焼した。
その無惨な建物の残骸は痛々しいほどであったが、驚くべきことに、隣接する建物に類焼はなかった。
それは紅珠自身の言葉通りだったが、青珠の降らせた雨のおかげでもある。町の人々は、ユリウスと一緒に旅をしていた蒼い髪の女魔道師が、この火事の被害を最小限にとどめてくれたのだと考えていた。
この広い大陸の、どこへ紅珠は向かったのだろう?
無論、それは朱夏の魔女のいるところだ。
そこに青い石も運ばれ、青珠もそこへ向かっている。
“そこ”とはどこだろう?
ユリウスはウゥルカーヌス神殿内の残留思念を探ってみたが、彼がこの町に入ったときから感じていた、紅珠のものらしい精霊の“気”は微塵も感じられなかった。
また、彩羽や大鷲たちのものと思われる“敵意”、または“悪意”に似た思念の痕跡はあったものの、すでにそれらの思念からはかなりの日数が経過しており、直接の手掛かりにはなり得なかった。
全焼した宿の近くに新しく取った宿に戻り、ユリウスは旅の用意を整えながら考えた。
今、彼は大陸の最南部にいる。
それがどこであれ、人間の足で紅珠に追いつくまでには相当の日数がかかるだろう。
青珠からの連絡を待つのが最も確実だ。
だが──と、ユリウスは眉を曇らせた。
(青珠は精霊の本体である石を紅珠に押さえられている。その状態で紅珠と互角に対峙できるとは思えない)
今さらながらに、彼女を一人で行かせたことが悔やまれた。
それから数日後、ユリウスはその町をあとにした。
青い石の在り処を神託に委ねてみようと思ったのだ。
それには、火の神・ウゥルカーヌスが祭られたこの町の神殿ではなく、水の神・ネプトゥーヌス神殿のほうがいい。近くにネプトゥーヌスを祭神とする町はないかと宿の者に尋ね、教えられたその町へ、ユリウスは向かおうとしている。
ネプトゥーヌスを祭る町は、さらに南の、緋海に面した場所にあるという。
ユリウスは南へと針路をとり、先を急いだ。
冷たい冬の大気の中、空は仄蒼い。
薄い雲が漂う空を旋回する小さな黒い影がある。
それに気づいたユリウスは、わずかに眉をひそめた。
アルタイル──そう呼ばれていた大鷲だと、すぐに判ったからだ。
(紅珠の命で、僕を監視しているのか……?)
あくまでも紅珠の──朱夏の魔女の目的は青珠ではなく、ユリウスだ。
彩羽も近くにいるのだろうか。
用心しながら旅を進めるユリウスだったが、そんな彼の行く手を阻む輩がいた。
寒々しい風景の中、林に沿って続く道に旅人の姿は皆無だ。その冬枯れの林の奥に複数の人の気配を感じて、ユリウスは立ち止まった。
(追い剥ぎか?)
果たして、林の中から現れたのは、武器を手にした数人の髭面の男たちであった。彼らは巡礼の黒衣に身を固めた若者を値踏みするように眺め、馬鹿にしたように、にやにやと笑い合った。
「巡礼の優男か。大して金は持ってねえようだな」
「ま、あるだけ出しな、兄ちゃん。金を渡せば見逃してやるぜ」
「その剣もな。金になりそうだ。剣なんざ持っていても、てめえみたいな奴にゃ、どうせ宝の持ち腐れだろう?」
下卑た嘲笑が沸き起こる。
ユリウスは表情ひとつ変えることなく、盗賊たちを見返した。
「金も剣も渡せない。急ぐんだ。道をあけてくれ」
髭面の、いかにもといった風体の盗賊たちがどっと笑う。
「道をあけてくれ、だとよ」
「兄ちゃん、誰にものを言ってんだ。痛い目を見るぜ?」
ユリウスは相手の人数を数えた。
六人いる。
六人とも、剣や弓矢で武装していた。
「おまえたちが道をあけないのなら、強引に通るまでだ」
すっと右手を剣の柄にかけたユリウスだったが、突然、はっとした。
(殺気──?)
上空だ。
それがアルタイルの気配であることは、上を見ずとも判った。
(奴は僕を殺す気なのか? 朱夏のもとへ連れていくつもりなんじゃ……)
ユリウスが盗賊たちと乱闘になれば、おそらく、アルタイルはその隙をついて上空からユリウスに襲い掛かってくるだろう。それほどはっきりとした殺気をユリウスは感じていた。
二羽の大鷲を斬ったように、アルタイルも斬るべきだろうか。
だが、ユリウスは、逆にアルタイルが紅珠のいるところまで道案内をしてくれるのではないかとも考えていた。
わずかな逡巡の間に、盗賊たちは剣を抜いていた。
「生意気な小僧だな。面倒だ。捕らえて、こいつも売り払おう」
「この美貌だ。きっと、高く売れるぜ」
ユリウス自身も剣の柄を握った。
ただし、意識は頭上に向けている。
目の前の盗賊たちよりも、アルタイルのほうが数段厄介なのは間違いない。
六人の男たちがじりじりと黒衣の若者を取り囲んだ。
「……仕方ないな」
ユリウスは眼を閉じ、神経をアルタイルの動きに集中させた。そして、大気の精霊たち、風の精霊たちを呼び、盗賊たちの動きを読み取ることを命じる。
刃がきらめいた。
「はっ──!」
その一瞬で、ユリウスの前方にいた二人の男が足を斬られ、倒れた。
反転したユリウスは後方にいた男たちに対峙する。
男たちは、何が起こったのか解らないようであった。
あっという間に鮮血が飛び、二人の仲間が深手を負って地に伏し、軟弱そうな黒衣の若者は息も乱していない。
「こっ、この野郎っ!」
(まずい)
上空に鋭い視線を感じる。
(来る──!)
躍りかかってきた盗賊たちの剣を撥ね上げ、かつ、上空の大鷲が急降下してくる気配を察知したユリウスは、残りの盗賊よりもアルタイルの攻撃に備えようと、構えの体勢を取ろうとした。
刹那──
凄まじい疾風が渦巻き、と同時に盗賊たちの苦悶の声が上がった。
「……っ?」
驚いたユリウスが周囲の様子を確認すると、風が駆け抜けたあとは、盗賊たち全員が散らばって地面に倒れていた。
死んでいるのか、気を失っているのか、辺りに血が飛び散っている。
「これは……」
空からの殺気も消えていた。
ふと見遣ると、少し離れた道上に、深緑色の外套をまとった一人の青年が静かにたたずんでいた。
アルタイルに気を取られていたとはいえ、盗賊以外の人間の気配に、たった今まで気づかなかったことにユリウスは愕然とする。
ユリウスと同じくらいの年頃に見える青年は、ゆっくりと彼のほうへ向かって歩いてきた。
「怪我はない?」
心地のいい声でその亜麻色の髪の青年は言った。
「いや、君には愚問だね。でも、あの鳥の動きが気になったから、つい手を出してしまった」
アルタイルのことだろう。
彼が近くまで来て足をとめると、ユリウスははっとした。
青年の翡翠色の瞳が、見えていないことに気づいたからだ。
なのに、彼は危なげのない足取りで歩き、まっすぐに瞳をユリウスのほうへ向けていた。
不意に空間からふわりと現れ出た者がある。
花びらを重ねたような山吹色の羅をまとった、短い金髪の巻き毛の優美な娘だ。
もちろん、人間ではない。
「精霊……」
ユリウスはつぶやいた。
亜麻色の髪の青年が、突然現れた娘のほうを向いて問いかけた。
「黄珠」
「はい」
「この人はどんな様子?」
蜜蝋の色をした瞳で、黄珠は立ちつくすユリウスをじっと見た。
「髪は淡い金髪。眼は深い碧。象牙色の肌に、巡礼の黒衣をまとっています。背丈は王子と同じくらい。月の女神が愛でているのかと思われるほど、美しい若者です」
「──ユリウス」
盲目の青年は、硝子玉のような翡翠色の瞳を黒衣のユリウスに向けた。
「間違いない。君は──黒いユリウスだね?」
2018.12.20.