盲目の王子
5.
東へ行けと、王子ユリウスは言った。
東のどこかは判らない。
カストへ向かった王子と別れ、巡礼のユリウスは、緋海に沿って続く土の道を、ただ東へと向かっていた。
昨日は冬晴れだったが、この日の午後は灰色の雲が目立つ。
雨になるのかもしれない。
(雨──水……)
雨は青珠を思わせた。
彼女に逢いたい。
空を仰いだユリウスは、改めて周囲を見渡した。
辺りは荒寥としている。
広々と寒々しい景色の右手には海沿いに断崖が続き、左手には鬱蒼とした森が見えてきた。
海の音と風の音しか聞こえない。
人里はまだ遠いだろう。
(……)
そして、天空に黒い鳥の影がある。
ユリウスを追う大鷲は、その姿を隠すことなく、悠然と飛翔している。
(アルタイルは、僕をどうしたいのだろうか)
空を仰ぎ、ユリウスは漠然と考えた。
旅は慣れている。
野宿が続いてもいいように、携帯食も用意している。雨でも平気だ。
ただ、この広々とした場所にあっては、アルタイルの動きもユリウスの位置も互いに丸見えだった。
そして雨になれば──
(雨でも、アルタイルは襲ってくるだろうか)
ふと、立ち止まったユリウスは、風の精霊を集め、言の葉を託した。
“我、紅珠の求めに応ず。朱夏の館まで案内を乞う”
言霊を風に乗せて、口笛を吹くように、ふっと上空のアルタイルへと送る。
彼が話せるのかは判らないが、言葉は解するはずだ。
一陣の風が吹き抜けた。
空から戻ってきた風の精霊たちは、否、とユリウスにささやいた。
(案内するつもりはない、か)
地上と天空は遠い。
彼は森へ向かい、空から身を隠すことにした。
森へ入ってしばらくすると、ぽつりぽつりと雨が降ってきた。
そろそろ日も暮れる。
野宿をするために、適当な場所を探した。
雨の音が聴覚を浸す。
少しずつ闇が迫る。
鬱蒼と茂る大樹の下に、黒衣のユリウスは腰を落ち着けた。
疲れている。
簡単に食事をすませ、少し眠ろうと、剣を引き寄せる。
深閑とした森の中では、雨の音以外、何も聞こえない。
それは雨の精霊たちの声だ。
大鷲が近づけば、葉音で気づくだろう。
眠ろう。
ユリウスは疲れていた。──
翌日も、雨は降り続いていた。
薄暗い森の中、単調な道が続く。
アルタイルを警戒するユリウスは、四方の音に耳を澄ませ、木々の間を慎重に歩む。
時刻は午後にさしかかる。そろそろ森を抜けるだろうか。雨を含んだ枝葉に覆われた森は、すでに夕暮れを思わせる暗さだった。
空気が変わった。
そう思った刹那、不意に薄闇が濃さを増し、はっと身構えたユリウスの手が剣の柄に掛かった。
と同時に、目の前の木の枝葉が大きくうねる。
「!」
剣を構えた。
バサッ、バサバサッ──
突然、辺りが大きな闇に支配されたように感じた。
不気味な闇が、大鷲の姿で翼を広げていた。
「雨の精霊たちよ、加勢を──!」
ユリウスは咄嗟に目前の雨を盾にしたが、それをものともせず、その鋭い爪で、アルタイルはユリウスに襲い掛かった。
凄まじい風圧がかかる。
雨と風の精霊の力を借り、雨でアルタイルとの間に水の壁を──結界を作ろうとしたユリウスだが、やはり、青珠のようにはいかない。対するアルタイルはその躯に火の“気”をまとっていた。
その“気”が水を弾き飛ばす。
(紅珠の加護か)
アルタイルの翼は炎の“気”に護られ、雨を寄せ付けないのだ。
凄まじい殺気を放つその羽ばたきが大気を切り裂き、剣を構えたユリウスを威圧する。
彼が剣をふるう前に、アルタイルは彼との間合いを一瞬で詰めた。
「つっ!」
鋭い猛禽の爪がユリウスの左腕に食い込む。
力では敵わない。
ユリウスは剣を持つ右手に意識を向けた。
長剣は彼自身とアルタイルとの間に挟まれて、容易に動かすことはできない。それならばと、柄から手を放し、彼はベルトに装着している短剣を掴んだ。
ユリウスの身体を地に倒そうと、威嚇の声を上げたアルタイルの嘴がユリウスの白い頬を咬み裂いた。
「く……!」
力を込めて右手を上げたユリウスは、爪が食い込む痛みに耐え、一気に大鷲の翼の付け根に短剣を突き刺した。
バサッ──!
鋭い鳴き声を上げ、大鷲がひるんだところを、ユリウスは間髪をいれず蹴り飛ばす。そのまま、相手に体勢を立て直そうとする暇を与えず、心臓を狙って長剣を構え、勢いをつけて投げつけた。
大鷲の胴体にぐさりと剣が突き刺さる。
苦悶の声を上げるアルタイルは、だが、長剣をその身に突き立てたまま、再びユリウスに襲い掛かった。
ユリウスはアルタイルに刺さった長剣の柄を両手で受け止めると、己に向かうアルタイルの力を利用して、大鷲の躯に力を込めて刀身をねじ込んだ。
鮮血はすぐに雨に流された。
ありったけの力で押し合ううちに、均整を失い、後退さるユリウスは、足許の地面が崩れかけていることに気づいた。土は雨を含み、滑りやすい。
いつの間にか、背後は崖になっていた。
「──っ!」
ざざざっ──!
しまった、と思ったときにはもう遅かった。
濡れた土に足を滑らせ、ユリウスは崖から下へ、真っ逆さまに滑り落ちた。
落下に伴う茂みの音が、雨音に混ざり、不気味に響く。そのあとに、残されたアルタイルの呻きが重なった。
雨に打たれて地に横たわる大鷲の呻きは、徐々に人間の声へと変化した。
苦痛にゆがむ顔は、もはや鷲ではない。人間だ。
完全に人の姿に変化したアルタイルは、むせたように咳き込み、大量の血を吐いた。
「相打ちなら、望むところだ……」
掠れた息が洩れる。
ユリウスが崖から転落したことを確認し、ぜいぜいと彼は苦しげに喘いだ。
その身体にはユリウスの剣が刺さったままだ。
肩には短剣が、胸には長剣が。
傷はひどく、まとうキトンは血にまみれている。鷲から人の姿へ戻った事実は、もう彼が助からないことを意味していた。
「おまえが殺したのはおれの兄たちだ……兄の……仇──」
降り続く雨の中、血や泥にまみれ、アルタイルは事切れた。
(っ──!)
黄珠とともに旅路を急いでいた王子ユリウスは、出し抜けに歩をとめると、両手で自らの腕を抱きしめ、その場に片足を折ってうずくまってしまった。
「──王子? どうされました」
「……」
千里眼を持つ王子ユリウスの見えない瞳には、もう一人のユリウスが体験したことがすぐ傍らで見ていたように映った。
「黒いユリウスが──」
ひざまずいたまま恐怖にも似た色を浮かべる王子ユリウスの身体を、黄珠が支え、王子はどうにか立ち上がった。
「かの者が……?」
無表情な黄珠の短い問いかけに、王子ユリウスは自らに言い聞かせるかのように首を横に振った。
「──いや、今から彼のところへ引き返そうにも、どうにかなる距離じゃない。……大丈夫。私たちは、予定通りカストに向かおう。彼には神がついている」
どれだけの時間が経ったのだろう。
いつの間にか、夜の帳が下りていた。
雨はやんでいる。
動けない。
朧な意識が遠のきかけている。
落ちたところは、鬱蒼とした羊歯の茂みであった。
「──つっ……」
ユリウスはその場に倒れたまま、そろそろと天を仰いだ。
この、あまりにも無力な情けない姿をも、神はどこからか見ておいでなのだろうか。
青珠も、王子ユリウスも、今、彼のそばにはいない。
肌を、心臓を、突き刺すような孤独感に浸されているようだ。
夜の闇が徐々にその濃さを増していく。
夜空に広がる星々が、次第に鮮麗になってゆく。
その無数の小さな光を眼に映しながら、ユリウスは地面に仰向けに寝転がった。──身を起こす力はない。
「青珠……おまえもどこかで、この星々を見ているのだろうか……」
全身がきしむように痛む。
「う……」
寒くはない。
至る所に負った傷のせいなのか、そこはかとない疲労感のせいなのか、全身が鉛のように重かった。
ユリウスは、薄い膜を通したような微かな意識でさえ、何かに吸い込まれるように消えゆくのを肌で感じた。
ただ、眠りたかった。
今は何も考えたくはなかった。
──眼を、閉じた。
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2019.4.2.