盲目の王子

4.

「王子」
 宿のユリウス王子の部屋の扉をノックして、巡礼のユリウスと黄色い石の精霊・黄珠はその扉を開けた。
 王子は静かに椅子に座したまま、テーブルに広げられた羊皮紙の地図の一点に人差し指を置いていた。微かな疲労の色がうかがえる。
「黄珠か」
「王子、結界を解きます」
 精霊たちの声の聞こえないユリウス王子の世界は真っ暗だった。
 自ら指し示している地図の場所さえ判らない。
「ここはどこだろう?」
「ユリウス王子、僕の眼を使ってくれ」
「ありがとう、黒いユリウス」
 巡礼のユリウスが王子の横に立つと同時に、王子は自らの眼を閉じた。
 王子の視界に巡礼のユリウスの眼に映ったものが浮かび上がる。
 テーブルの上に広げられた地図と、ある地点を示す王子自身の人差し指。
「……カストの近く、か」
 カスト市は大陸を巡るアプア街道上に位置する、ドルトー共和国の一都市だった。
「方士はそこにいるのか。レキアテルからアプア街道を南下してきたんだろうけど、彼女はどうやって王子のいる場所を捜すんだ?」
「占星術だろう。方士は星を読む」
「大したものだな」
 王子は少し考え、口を開いた。
「東だ」
「え?」
「青い石の軌跡も感じた。奪われた場所から東へ向かって移動している」
 はっとしたユリウスの瞳が大きく見開かれた。
「青い石の在り処も判ったのか?」
 眼を閉じたまま、王子は首を横に振る。
「君の残留思念がわずかに青い石に残っていた。それを感じただけだ。ただ、東へ移動しているとしか判らない」
「そうか──
 沈黙したユリウスの腕を、王子の手が掴んだ。
「東へ行け、ユリウス」
「王子……」
「ディディルがカスト近辺まで来ているなら、私はディディルに会いに行く。私の千里眼を通し、ディディルを依巫にして託宣を行えば、かなりの確率で青い石のある場所を特定できると思う」
 ユリウスは小さく息を呑んだ。
 青い石のある場所。──朱夏の魔女の館。
 それが明確に判るかもしれない。
「どちらにせよ、ディディルとは連絡を取らなければならない。ここからカストなら、メディオラより遥かに近い。黄珠を使いに出し、ディディルにカストで私を待っていてもらおう」
「王子がカストへ……」
 今、二人がいる位置から見て、カストはおよそ北東の方角にあたる。
「それが一番いい。カストで託宣を行い、その結果を君に知らせよう。私は君の居場所を把握できる。黄珠を使いに出すよ」
 ユリウス王子は眼を開けていた。
 黒いユリウスの視界ではなく、大気の精霊たちの声を聞いているのだろう。彼は見えぬ眼を正確にユリウスのほうへ向けていた。
「君は東へ行け。とにかく、青い石があると思われるほうへ近づいておくんだ。すぐ行動がとれるように」
──ああ、解った」
 王子の言葉にユリウスはうなずいた。
 うなずき返した王子が、ふと小さく吐息を洩らす。
「ただ、あの鳥の動きが気がかりだね」
「アルタイルか」
「あれはただの鳥ではないのだろう? はっきりと解る殺意を君に抱いていた。今は黄珠がいるから私たちに近寄れないが、黄珠が君から離れたら、何をするか判らない」
「……」
 アルタイルが巡礼のユリウスを追っているのは、紅珠の命ではないようだ。
 あるいは、仲間を殺された復讐をしようとしているのか。
 大鷲の姿から人間の姿に戻った二体の亡骸──その影がユリウスの瞳に翳りを落とす。
「僕は自らの運命を神の御手に委ねている。アルタイルがどう出ようと、僕は僕のすべきことをするだけだ」
「全ては神の御心のまま──君ならそう言うだろうね、黒いユリウス」
「僕は……巡礼者だから。傭兵をやめ、巡礼を始めるときに、僕の生命は神に委ねた」
 斜めにうつむくユリウスの金色の髪がさらりと流れ、物憂げな様子が彼の美しさを引き立てた。
 ユリウス王子の指が手許に広げられた地図の上をなぞる。
「全てを神の御手に委ねるのもいいが、でも、ユリウス。運命はひとつと決まってはいないかもしれないよ」
「え?」
「運命は神に与えられたもの。だが、私は自分の手でそれを切り開きたい」
 大陸の地図に瞳を向ける王子の横顔を、ユリウスはじっと見つめた。
 王子に迷いはない。
 彼は心地好い声で穏やかに続けた。
「私は王宮の中で育ったが、決してか弱い存在ではないと思っている。王宮は得てして戦場よりも策謀が渦巻いている場所だからね。人を殺めたこともある」
「王子が……?」
「もちろん、直接ではないよ。この眼だから。だが、幾度か暗殺されそうになったとき、黄珠に命じて下手人を殺させた。何人もね」
──
 ユリウス王子の翡翠色の瞳は澄んでいる。
 何ものをも映さないその瞳は、この世のあらゆる汚濁を浄化する光を帯びて見え、黒いユリウスは王子ユリウスの懐の深さを感じた。
「王子。僕は君が僕を知っているほど、君を知らない。でも、君は平気で人を殺められる人間ではないと思う。僕を襲った盗賊たちを黄珠に殺させなかった」
「ああ、それは君のためだよ」
 王子はあっさりと言って、微笑んだ。
「巡礼の君は無益な殺生を嫌っているだろう? だから、殺さないよう、黄珠に命じた」
 きっと、それだけではないはずだ。
 ユリウスの目には、王子は限りなく無垢に見えた。
 現世うつしよの何者であれ、王子の心を穢すことはできないだろう。そう、巡礼のユリウスは思った。
「千里眼を持っていても、私は無力だ。黄珠がいなければ、今、生きてすらいなかった。だから後悔はしない。人の死こそ、神の定めだと思うしかない」
 母の自死。
 その母の形見の黄色い石。
 存在を疎まれる盲目の王子の、黄珠は盾であり、剣であるのだ。
 精神的にも、物理的にも。
 王子はテーブルの上の地図をまるめ、ペンと紙を用意するように黄珠に命じた。ディディルへの手紙を書くためだ。
「……王子。君はまっすぐ前を見ている。でも僕は、まだ過去を清算しきれていない」
「いいじゃないか、それでも。君は答えを出そうと巡礼しているのだから」
 ユリウス王子は椅子から立ち上がり、傍らの黒いユリウスのほうへ顔を向けて、穏やかに微笑んでみせた。
「私とて、君の過去に何があったのか具体的には知らない。君の姿が見えるようになったのも、君が巡礼の旅を始めてからだ」
「ユリウス王子……」
「青い石を捜そう。全てはそれからだ」


 二人のユリウスは別行動をとることにした。
 王子ユリウスはアプア街道に出て、カストを目的地として北東へ進み、巡礼のユリウスは緋海沿いに東へと針路を向ける。
 その日のうちに、王子は方士・ディディルへの手紙を書き上げ、黄色い石の精霊に託した。
 ユリウスと王子が旅の準備をしているうちに、方士へ手紙を届けた黄珠が戻ってきた。
 夕刻だ。
「ディディル殿はカストにて王子を待つとのことです」
「精霊の来訪にさぞ驚いたことだろう。私からの使いだと、ディディルは信じてくれたか?」
「書面の王子の筆跡を見て、すぐに承知なさいました」
「様子はどうだった?」
「やはり王子を捜しておられました。心痛はおありでしょうが、お元気そうでした。アウリイ様が護衛を二人つけられたようです」
「ありがとう、黄珠。ご苦労だった」
 出発は明朝と決まった。
 今宵は充分に休息をとり、早朝に出立する。

 出発の朝、冷たい冬の大気の中、旅装に身を固めた二人は、精霊を伴って、ネプトゥーヌス神殿を訪れた。
 旅の無事を祈願する。
 顔を上げたユリウス王子の、サークレットに嵌め込まれた黄色い石が、朝日を浴びて光を撥ねた。
「黒いユリウス。敬虔な巫女の子である君には神がついている。ネプトゥーヌス神の御加護を」
「どうかお気をつけて、ユリウス殿」
「ありがとう。王子も気をつけて。黄珠、王子を頼む」
 二人は固く握手を交わした。
「君を友だと思っていいね?」
「ああ」
 ユリウスが艶冶に表情を緩めると、王子もふわりと微笑んだ。
「私の初めての友人だ」
 人間の醜い部分や猜疑心の塊に囲まれて育った王子だが、人を信じる心を忘れたわけではない。
 むしろ王子の無垢な心はそういうものに飢えていた。
 人との繋がりが欲しかった。
 初めての友を得た王子は、心から嬉しげに見えた。
「くれぐれも、アルタイルの動きに注意してくれ。青い石の在り処が判ったら、できるだけ早く、黄珠を君のもとへ行かせる」
「解った」
 途中で馬を調達すると王子は言い、二人のユリウスはトリスの町を出て、それぞれの目的のため、別々の旅路を急いだ。
 大陸暦一〇二〇年二月のことであった。

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2019.2.4.