亡命の姫君

1.

 夜の帳が、大地を深い闇の色に包み込んでいる。
 闇は森閑としていた。
 時折、気味の悪い鳥の啼く声が、不気味に闇の中に響き渡るだけ──あとは、何かの物音ひとつしない。
 時刻は午前零時をとっくに廻っていた。
 ふと、遠くに小さな光が見えた。
 ──見間違いだろうか。
 しかし、それは確かに少しずつ大きくなり──こちらへ近づいてくるようである。
 それは、旅の一行の灯すランタンの光だった。
 わずかな光を頼りに、その旅人たちは深夜の道を急いでいた。
──姫様。もう少しでございます。もう少しで、ナザの村に到着するはず。いま少しの辛抱でございますぞ」
 ランタンを手にした先頭の男が、姫様、と言った。
 身分ある人の、お忍びの旅なのか。
 一行は全部で五名。うち、被布かつぎをかぶった三人が女性であった。
「姫様はお疲れじゃ。道に迷うてこんな真っ暗になってしもうて、この責任をどう取るのです」
 疲れきった女の声に先頭の男が叱咤され、気まずい沈黙が一瞬、その場を支配したが、すぐに凛としたあでやかな声が、闇を裂くように響いた。
「わたくしは平気です。初めての他国の道です。迷うのも仕方のないこと。誰のせいでもない。タキス、予定が遅れたことなど、わたくしは気にしていません」
 タキスと呼ばれた先頭の男が、声の主に黙って頭を下げた。
「ですが、姫様──
「ニナ、そなたの苛立ちも解りますが、皆、わたくしのために一生懸命つくしてくれているのです。疲れているのは、タキスとて同じでしょう?」
 主人の言葉に、不承不承ながら乳母のニナは口を閉じた。
 と、そのとき。
「あら……?」
 三人目の女性が、不意に訝しげな声を上げた。
「どうしたのです、シルフィーゼ?」
「闇が、動きましたわ?」
「どこ、どこです」
「あの辺り──左の茂みのほうです」
──
 一行に緊張が走った。
「獣か?」
「人間では……?」
 強張った表情で、顔を見合わせるシルフィーゼとタキス。
「そんな馬鹿な。わたしたち以外にこのような夜中にこんな裏道を通る者なんて──
 真夜中に裏道を通る人間がどのような輩かを想像して、乳母のニナは身も凍る思いでシルフィーゼの指差す方向を見つめた。
「ニナ殿。姫様とともにさがっていてください。──ネルヴァ、来い」
 タキスはランタンをシルフィーゼに渡し、一行の最後尾を守っていた若い男を連れて、シルフィーゼが指した茂みのほうへ足早に向かった。
「何がいるのかしら」
 微かに震えを帯びた声で、姫君がシルフィーゼにささやいた。
 気丈を装ってはいるが、そこはまだ年若い娘のこと。
 深夜の闇が怖くないはずはない。
 そんな闇に潜んでいるものが何であれ──人間であろうが獣であろうが──恐ろしかった。
 目立つ旅になってはならない。しかし、護衛が二名というのは、果たして妥当な数だったのか。
 姫君はそっと唇を噛んだ。

 姫君の従者・タキスとネルヴァもまた、どこまでも黒一色の闇が恐ろしくないわけではなかった。
 二人きりで姫君の護衛を任された剣の手練れとはいえ、そこはやはり、普通の人間だ。未知のものへの恐怖は少なからずある。
──誰だ。誰か、そこにいるのか?」
 タキスが低く誰何した。
 しかし、闇はひっそりと静まったままだ。二人は息を殺して待った。
「……何もいませんね、タキス殿」
「うむ……シルフィーゼの見間違いか? しかし、用心に越したことはない」
 なおも二人は眼を凝らした。──獣か、人か。
 大気がゆっくりと揺らめいた。
──! タキス殿、何かいます。黒いものが……!」
 若いネルヴァのかすれたささやきに、タキスは無言でうなずいた。──冷や汗が、じっとりとこめかみを伝う。
「何者だ! 姿を見せ、名を名乗れ……!」
 剣を抜き、構えて、二人は闇の中に一歩踏み出した。──と。
 どさり
 何かが地面に落ちる重い音がした。
「……?」
 顔を見合わせ、二人が恐る恐る音のしたほうへ行ってみると、そこには黒衣に身を包んだ人間が一人、倒れていた。
──人だ!」
「おい、何者だ。しっかりしろ!」

 二人に様子を見に行かせたものの、女三人で真っ暗な夜道に取り残された恐ろしさに身を震わせながら、姫君と乳母はしっかりと抱き合って待っていた。
 侍女のシルフィーゼだけが、二人の消えていった方向をまばたきもせずにじっと見つめている。
「タキス殿とネルヴァ殿が戻ってきましたわ」
 ランタンを高く掲げ、闇を透かし見るようにしていたシルフィーゼが叫んだ。
「おお──二人とも無事ですか」
「何もなかったのでしょうか……」
「何か背負っているようです」
 ほどなく姫君のもとへたどり着いた二人の従者は、背負ってきた黒衣の人間を地面におろし、横たえさせた。
「シルフィーゼが見た影は、この者でしょう。ひどい傷を負っています」
「まあ」
「この傷で、あちらから歩いてきたんですな。我々の目の前で意識を失って倒れてしまいましたが、姫様、どうなさいますか」
 姫君は横たわる黒衣の人物の傍らに膝をつき、被布を取った。鳶色の豊かな巻き毛が流れ落ち、小さな白い顔が闇に浮き上がった。
「シルフィーゼ、灯りをこちらによせて」
 シルフィーゼは、ランタンを力なく横たわる黒衣の人物の顔を照らすように掲げた。黒一色の装束に、黒い布を髪に巻いている。手荷物などは持っていなかった。
 姫君のすぐ後ろでニナが恐ろしそうにつぶやいた。
「死んでいるのでしょうか?」
「待って、ニナ。今、動いたわ」
 その者の衣裳は、あちこちが破れ、擦り切れ、血と泥にまみれていた。その様相は、余程のことがあったのだろうと推測される。
 そして、その人物は、まだ若かった。
「何者でしょう?」
「この装束からして、巡礼者のようですね。わたくしたちの敵ではありません。巡礼の者を──それも、このように傷を負った人を、このままにはできません。一緒に連れていって、わたくしたちで介抱しましょう」
 言いながら、姫君が巡礼の黒い頭布を取り、顔にかかった髪を整えようとしたとき、気を失っていた若者が低く呻いた。
「う……」
 血や泥に汚れていたが、美しい顔立ちの若者であった。──そう、名はユリウス。
「巡礼の方、聞こえますか? もう大丈夫です」
 姫君は、若者の額や頬についた血や泥を素手でぬぐい、励ますような口調で言った。若者がうっすらと眼を開け、また閉じた。
 ユリウスの眼に映ったのは、鳶色の髪と、闇にぼんやり浮かび上がった仄白い顔──それだけだった。
「気を確かに。わたくしはクレイテと申す者。怪しい者ではありません」
「クレ……イテ……?」
 掠れたささやきが返ってきた。
「そう、クレイテです」
 一瞬だけ見えた、若者の瞳は濃い碧色だった。
 宝玉のようなその深みのある色が、クレイテ姫の心に強い印象を刻み付けた。

* * *

 静かだ。
 そして、明るい──
 意識を取り戻したとき、ぼんやりと視界に映ったのは、心配そうにこちらを見ている青い色の瞳だった。
──せい……じゅ……?」
 だが、青珠ではなかった。
 亜麻色の髪を後ろに編んだ十七、八の娘が、心配げな面持ちでじっとユリウスのそばに付き添っている。
 自分を見つめる青い瞳を、虚ろな眼でユリウスは眺め返した。
「……青い瞳だ」
 青珠と同じ。
 ユリウスはゆっくりと身を起こし、その瞳の持ち主に焦点を合わせた。
 ──ここはどこだ……?
 ──この娘は……?
 何も考えることはできなかった。
 青い瞳をただ凝視するだけだ。
 娘は、微かに頬を紅潮させ、緊張の面持ちでじっとユリウスを見つめている。
「奇麗な眼だ……とても澄んでいる」
 娘の顔がみるみる真っ赤になった。
「あ、あの──あたし、シルフィーゼです」
「シルフィー……ゼ?」
「はい、シルフから取った名です。あたしが生まれた日は、とても風が強かったので、シルフの恵みがあるようにと、両親が──
 シルフ──風の精か。
「シルフィーゼ……美しい名だ……」
 娘は嬉しそうに微笑んだ。
「あの、あなたは……?」
「……」
 まだ全身に力が入らないユリウスは、無言で身を寝台に沈めた。
 ぼんやりと沈黙してしまったユリウスを、傍らに座るシルフィーゼが心配そうに見つめている。
「あの──?」
「ユリウス」
「……あ」
「僕の名はユリウス」
──ユリウス──さま……」
 シルフィーゼの瞳がわずかばかり輝いた。
 そんな娘の様子を眺めながら、ユリウスは状況を把握しようと、朦朧とした脳を必死に働かそうと努力した。
 彼は巡礼の黒衣ではなく、生成り色の衣を着ていた。
 あちこちに負った傷には、きちんと手当てが施されている。
 血や泥で汚れていた顔や手足はきれいに拭われ、美しい髪がさらさらと額にかかっていた。
 ──ここはどこだろう?
 宿屋の一室のようだ。
 ゆっくりと室内を見廻し、ユリウスはもう一度、娘の青い眼を見た。
「ここはどこだ……?」
──あ、すみません。勝手にお連れして……ここはナザの村外れの宿屋です」
「なぜ、僕はここにいる? それに君はいったい──
「あたし、クレイテ様の侍女ですの」
 クレイテ……?
 あのとき、意識を失った自分を助けてくれた、あの鳶色の髪をした人が、確かそんな名前だった。
「そうか。僕を助けてくれたんだね?」
 ユリウスは再びゆっくりと身を起こそうとしたが、突然、激しい眩暈に襲われ、固く眼を閉じた。
「無理なさらないで」
 しばらく頭を押さえていたユリウスだが、やがて、おもむろに顔を上げると、なおも自分を不安げに見つめる娘のほうへ片手を伸ばした。
 そして、娘の薔薇色の頬に触れ、そっと撫でた。
「……ありがとう……」
 抜け殻のようなユリウスの、その物憂げな仕草が一瞬にして娘を魅了した。

next ≫ 

2005.1.18.