亡命の姫君
2.
シルフィーゼによると、ここはナザという名の村だという。
パノルイ市までそう遠くない、小さな村だと。
パノルイ──それは、アプア街道上に位置する、カヌア侯国の一都市の名だ。
「パノルイの近くか……」
東へ行けと、王子ユリウスは言った。
だが、東へ行こうとも、どこまで進めばよいのだろうか──
「気がつきましたか」
部屋の扉が開かれ、艶やかな声がユリウスの思考を中断した。
「姫様」
シルフィーゼがさっと立ち上がり、姫──クレイテに、椅子を譲った。
「そなたは丸一日眠っていました。気分は如何ですか」
豊かな鳶色の巻き毛、黒い大きな瞳、蕾のような紅い唇。陽の光の下で見るクレイテ姫は、深紅の薔薇を思わせるような美女であった。
「……ありがとう。おかげで命拾いしました。あなた方に感謝します」
「そなたの名は?」
「ユリウス」
「……ユリウス」
その名を深く味わうように口の中で唱え、クレイテはじっと目の前の美しい若者の蒼白い顔を見つめた。
「まだ、お顔の色がすぐれませんね。立ち入ったことを訊くようですが、そなたはあの傷で、どこへ行こうとしていたのですか?」
「……」
「言いたくなければよいのです。実は、わたくしたちの旅にも事情があり、本日中にはこの村を発たねばなりません。ですが、まだ傷の癒えていないそなた一人を残していくのは気がかりです。如何でしょう? もし行く当てがないのなら、わたくしたちとともに行きませんか」
ユリウスは気だるげにクレイテを一瞥した。
「……どこへ?」
「サマルーク公国です」
サマルーク公国は、大陸の南東部、緋海に面した東の国だ。
そのとき、宿屋の前の往来で、突然、大きな物音が沸き起こった。
はっとしたシルフィーゼが素早く部屋を出ていったかと思うと、三十秒もしないうちに戻ってきて、クレイテにささやいた。
「“六花”の密偵のようですわ。今、タキス殿とネルヴァ殿が応対していますが、姫様はできるだけ早く、この場から去られたほうがよいかと。すぐにニナ様とこの宿から逃れてくださいませ。荷は、あたしがまとめて、すぐにあとを追いますから……!」
クレイテの顔がさっと蒼ざめた。
「彼らはここにいるのがわたくしだということを知って、来たのでしょうか?」
「それは判りません。とにかく、姫様がここにおられては危のうございます」
何が起こっているのかよく呑み込めないユリウスの目の前で、慌ただしく事態は展開した。
不意に、ばたん! と扉が乱暴に開けられた。
部屋に入ってきたのは兵士ではないが、剣を帯びた若い男だった。男は、真っ直ぐに鳶色の巻き毛の娘を見据えて言った。
「アルデリア王国の第一王女・クレイテ殿下とお見受けする。“六花”の名のもと、殿下を保護いたすため、ここに参りました」
「六花……? 六花同盟が、なぜ──?」
ユリウスは、ここ・カヌア侯国もまた、六花同盟の加盟国であったことを思い出し、眉をひそめた。そして、アルデリアは“六花”の同盟国ではない。
ユリウスは寝台から降り、怯えるクレイテ姫と対峙する男に話しかけた。
「この方は同盟の保護を必要としていない」
「なに……?」
「他人の部屋に無断で押し入る無礼者の言葉に従う義理はない。失せろ」
ユリウスの口調は穏やかだったが、美しい碧色の瞳にきらめく苛烈な光に──その美しさに、クレイテとシルフィーゼは息を呑み、はらはらしながらユリウスと侵入者を見比べた。
「仕方ない。こうなれば、クレイテ殿下、力ずくでも従っていただきますぞ」
男がすらりと剣を抜く。二人の若い娘は震えあがった。
「ユリウス様……!」
「大丈夫だ、シルフィーゼ。姫を早く外へ!」
シルフィーゼは、はっと我に返ると、姫君の手を取り、男の脇をすり抜け、廊下に飛び出していった。
「愚かな。宿の外には、我が仲間がいる」
男は嘲笑し、ユリウス目掛けて剣を振り下ろした。と、とっさにユリウスは、傍らに置いてあった鉄製の燭台で刀身を受けた。
「くっ──!」
受けただけでなく、燭台は相手の剣を弾き飛ばしていた。
「くそ!」
天井に刺さった剣を慌てて抜こうとした男より早く、ユリウスの手が剣を奪った。
「う……」
「形勢逆転だな」
あれだけの怪我を負っていて、なぜこうまで俊敏な動きが可能なのか、自分でも不思議ではあったが、とにかくユリウスの腕はいささかも鈍ってはいない。
たった一日で回復したのか。
「きゃああっ!」
外から複数の悲鳴が聞こえた。
ユリウスは、侵入者の頭部を剣の柄で殴って気絶させ、裂いたシーツでしっかりとその手足を縛ってから、剣を持ったまま外へ出た。
「姫! シルフィーゼ!」
宿屋の玄関先のささやかな広場──そこには四人の男が、クレイテ姫の従者二人と、剣を抜いて対峙していた。
タキスが左肩を負傷している。
見廻すと、建物の陰に、恐怖に立ちすくんだまま動けずにいるシルフィーゼたち三人の姿が目に入った。
シルフィーゼとクレイテ姫、そして、姫の乳母・ニナである。
宿の使用人が数名、息をひそめて遠巻きに見守る中、敵の一人が鋭く斬り込んできた。それを受けるネルヴァ。
ただ茫然と立ち尽くしている三人の女に向かって、ユリウスは叫んだ。
「何をしている! シルフィーゼ、逃げるんだ!」
姫君も乳母も恐慌状態に陥る寸前である。
混乱する意識の中、シルフィーゼは必死にユリウスの言葉を理解しようと、そして行動に移すべく、夢中でニナの腕を掴んだ。
「ニナ様。姫様をお連れして、できるだけ早く、次の目的地であるウィラーデに向かってください。あとのことはあたしが何とかします」
「し──しかし、姫様とわたしだけで、どうやって逃げればよいのじゃ。護衛もなく、姫様と二人だけで行くわけにはまいらぬ」
「ですが、ニナ様。今、そのように躊躇している時間はありません──」
敵と激しく剣を交えている姫君の護衛たちは善戦していたが、四対二である。次第に数に押され、負傷しているタキスがよろめき、敵の刃を身体に受けた。
「ぐあっ……!」
女たちはびくっと身体を震わせた。
タキスが倒れた。──あの腕の立つ男が……!
「駄目です、もう駄目です! ここで“六花”に捕らえられてしまうわ!」
泣き叫び出しそうなクレイテの狂騒にユリウスは小さく舌打ちし、剣を構え、敵の前に身を躍らせた。
「護衛は連れていけ! ここは僕が食い止める。捕らえられたくなければ、自分の足でできるだけ遠くへ逃げろ!」
ネルヴァは大した傷は受けていなかった。
彼はユリウスに「かたじけない」と叫ぶと、素早くクレイテのもとに駆け寄り、半ば強引に女たちを連れて、宿屋の裏手の森の中に走り去っていった。
「くそっ……!」
「姫を追え!」
なおもクレイテたちを追おうとする男たちの前にユリウスが立ちふさがった。
「おまえたちの相手は僕だ」
「青二才が余計な真似を──!」
男たちの憤怒がユリウスに向けられた。
相手は四人。
だが、それで動じるユリウスではない。
「はーっ」
ユリウスは、相手の剣の勢いを逸らし、攻撃を受け流すことがうまかった。そうして、敵の急所に確実に致命傷を与えていく。
「すご……い」
遠巻きに見物していた人々から感嘆のざわめきが洩れた。
ものの数分の間に、ユリウスは全ての敵の息の根を完全に止めていた。
「……何でこんなことになるんだ」
はからずとも四人もの人間の生命を絶つ結果になってしまったことに、今さらながら忸怩たる思いで立ち尽くすユリウスの背後で、人の気配が動いた。
はっと振り向くユリウスの眼に映ったのは、怖怖、こちらへ歩いてくる亜麻色の髪の娘の姿であった。
「シルフィーゼ……! 逃げなかったのか」
シルフィーゼは蒼い顔をしていたが、しっかりとうなずいた。
「関係のないあなただけに事を押し付けるわけにはまいりません。それに、タキス殿も放ってはおけませんわ」
そう言って、シルフィーゼは地に倒れ伏したタキスのそばへ寄り、膝をついた。ユリウスもそれに続く。
「大丈夫のようだ。すぐに手当てをしよう」
重傷ではあったものの、タキスの生命に別状はなかった。
シルフィーゼは宿の主人に充分な金を──口止め料を含めて──渡し、遺体の埋葬と騒ぎの後始末を鄭重に頼んだ。──“六花”が関わっての騒ぎであることは、彼女は微塵も口にしなかった。
あくまでも、賊に襲われたという内容で押し通した。
「姫様方を追わなくては」
ユリウスと二人だけになったとき、ようやく、シルフィーゼは緊張が解けたようにその場の床に座り込み、吐息とともにつぶやいた。
ここは、ユリウスが襲われた部屋である。
寝台には今も、ユリウスが気絶させた“六花”の密偵が縛られたまま倒れている。
「クレイテがアルデリアの王女だというのは本当か」
気が抜けたように座り込んでいるシルフィーゼに、ユリウスは淡々と尋ねた。
娘は躊躇った。
「本当のことを。僕はすでに巻き込まれている」
「──はい。本当です」
観念したように答えるシルフィーゼ。
「六花同盟に追われているのか?」
「ええ。でも、“六花”に追われていると知られるわけにはまいりません。この国も六花同盟の加盟国ですから」
「なぜ、王女が単身で敵国を旅している?」
「……亡命のためですわ」
小さな声でシルフィーゼは言った。
2005.1.24.