亡命の姫君
3.
太陽は天頂に差し掛かっている。
ユリウスとシルフィーゼは先を急いだ。
宿に残された荷をまとめ、重傷のタキスの看病を宿の者に頼み、ウィラーデという町に向かっているはずのクレイテたちを追った。
その町で、サマルークからの迎えの者と合流する予定だという。
返り血を浴びたユリウスは、気絶させた男の衣と外套を奪い、着替えてきた。その男の処遇については、意識を取り戻したタキスに委ねた。
「重要なのは“六花”に亡命するのではなく、サマルークに、ということです」
道中、シルフィーゼがユリウスに姫君の事情をかいつまんで説明する。
「サマルーク公家とアルデリア王家は縁戚関係にあります。アルデリア王の姉君──クレイテ様の伯母君にあたる方がサマルーク公妃なのです。その伯母君を頼ってクレイテ様はサマルークに行かれるわけですが、亡命といっても、それは表向きだけ」
真冬の静かな田舎道を、二人はナザで調達してきた馬に荷をのせて曳き、急ぎ足で歩いた。シルフィーゼの静かな独白を、ユリウスは黙って聞いている。
「我がアルデリアと六花同盟は、極めて緊迫した状態にあるのです」
二年前──大陸暦一〇一八年の冬。二月。
西のタナトニア、東のレキアテルの二つの大国に対して対等の立場を維持するため、六つの国が、白い都の太守・冬将軍を盟主にかかげて同盟を結んでいる。
オスリア王国。
カヌア侯国。
サマルーク公国。
ドルトー共和国。
都市国家・レアテ市国。
都市国家・白い都。
──これらの国が、“六花同盟”の加盟国である。
その後、六花同盟はアルデリアにも加盟を迫ったが、盟主である冬将軍を、アルデリア国王は今ひとつ信用することができなかった。
加盟すれば、アルデリアは冬将軍の手に落ちることになる。──そう考えた王は、加盟を断り、六花同盟の動静を密かに観察した。そして、サマルーク公国の内部で、同盟に対し、意見の対立があることを知ったのだ。
サマルーク公国は、レキアテル王国に隣接している。
サマルークは六花同盟が発足された当初からの加盟国であったが、最近、公国内において、同盟を離れ、大国レキアテルと手を結ぶべきだという声が多く上がってきているというのだ。
この、反同盟勢力を使えまいか。
うまくいけば、“六花”を内部から分裂させることができるのではないか──
アルデリア王国は小さな国だ。
六花同盟や他の国との全面戦争は避けねばならない。
アルデリア王は、サマルーク側から“六花”の動きを探り、なおかつサマルークの反同盟勢力を刺激し、サマルーク公国そのものを“六花”に対する間諜に仕立て上げようと考えたのだ。
それには、公国の中枢に近づける者を潜入させる必要がある。王は、身内を公国に亡命させ、サマルークと“六花”、その二つの動きを同時に掴もうと考えた。
そして、第一王女であるクレイテにその任が与えられたのだ。
「でも、向こうは向こうで密偵を放ち、こちらの動きを探っていました」
用心して、かなり鄙辺の道を選んできたのですけれど……と、シルフィーゼは疲れたようにため息をついた。
アルデリアの第一王女の身柄を押さえること──アルデリアに対し、六花同盟にとってこれ以上の人質はない。
「姫様がサマルークに保護される前に捕らえる。それには、今が絶好の機会というわけなのです」
「それじゃあ、冬将軍も放ってはおくまい」
しかし。
「クレイテ姫にそんな役は荷が重いんじゃないか?」
シルフィーゼは反射的に微笑んだ。
「必要なのは姫様の身分です。実質的な仕事は、タキス殿とネルヴァ殿が行います」
「サマルークにとどまって、姫の身に危険はないのか?」
「サマルークの公妃様はクレイテ様を我が子のように可愛がっておいでです。それ故、姫様に白羽の矢が立ったのです」
「……なるほどね」
アルデリア国王にとっては、実の姉も娘も駒のひとつに過ぎないのだろうか。
ユリウスは、ふと今は無き故郷を想った。
景色は冬枯れ。単調な土の道が続く。
この道は、カヌア侯国のパノルイ市からドルトー共和国のカスト市へ続くアプア街道の外側──南を通っている。そのさらに南には緋海が広がる。この道から海岸まで、そう遠くはないはずだ。
疲労をおもてに表さず、ただ黙々と歩く亜麻色の髪の娘の様子を、ユリウスはちらと見遣った。
「……もう一頭、馬を調達すればよかったな」
「まあ、あたしなら平気です。姫様が徒歩なのに、あたしが馬に乗るわけにはいきませんわ」
生真面目に言うシルフィーゼの様子に、ユリウスは思わず微笑んだ。
「君はいくつ?」
「十七です」
「姫様は?」
「十八ですわ」
「君は、ずいぶん気丈なんだね」
シルフィーゼは屈託なく笑った。
「両親は早くに死にました。気丈でなければ生きてこれなかったんですもの」
クレイテと一緒にいたときには姫のあでやかさに打ち消されがちであったが、シルフィーゼには野に咲く花のような可憐さがあった。薔薇の華やかさはないが、楚々とした美しさを秘めていた。
ユリウスには、クレイテの持つ華やかな美より、シルフィーゼの可憐な美しさのほうが好ましいと感じられた。
「それにしても、ユリウス様、もう怪我のほうは大丈夫なんですの?」
「あ……ああ」
丸一日、自分は眠っていたと言っていたクレイテの言葉を思い出し、ユリウスははっとした。
「もしかして、君たちは僕の回復を待って、出発を遅らせたの?」
「姫様が、あなたの意識が戻るまで付き添っていたいと仰せられて。でも、もともと遅れていたんですもの。気になさらないで」
大陸最南部であるこの辺りの気候は真冬にしては暖かいが、それでも海から吹く風は冷たい。
シルフィーゼは外套の襟元を固く合わせ、前方を見てつぶやいた。
「姫様は、ユリウス様のこと、とても気にかけておいででした」
それから、ぱっとユリウスのほうを振り向いた。
「ユリウス様はどうしてあたしについてきてくださるの? 姫様がサマルークへ一緒に行こうとおっしゃったから?」
「──いや。僕も東へ向かうところだった」
「東……? どちらへ?」
「……」
ユリウスの沈黙を、彼女は彼女なりに解釈したようだ。
「……ねえ、ユリウス様。時々、何もかもが嫌になることがあります」
娘は独り言のようにぽつりとつぶやいた。
彼女の歩調は徐々に遅くなり、──止まってしまった。
ユリウスも曳いていた馬の足を止め、その場に立ち止まると、シルフィーゼが歩き出すのを黙って待った。
彼女は精神的に疲れ切っている。
彼女には休息が必要だ。
「……ユリウス様。もし、あなたがあたしを嫌いでなければ、どこか遠いところ──戦争のない小さな村へ行って、二人で静かに暮らすことはできませんか」
それは、ありったけの勇気を振り絞って口にした言葉だった。
クレイテ姫がユリウスに惹かれていることが、シルフィーゼには痛いほど解った。姫とユリウスが一緒にいるところを想像するのがたまらなくもあった。
姫君と合流すれば、その瞬間から、ユリウスは彼女だけのユリウスではなくなってしまう。
──あなたに少しでも、あたしを好きだという感情があるのなら──
娘は、青い色をしたやさしい瞳で、ひたむきにユリウスを見つめた。
「ねえ、そうしてもいいと言って?」
「……」
可憐な、野の花のようなシルフィーゼ。──彼女といると、確かにユリウスは安らぎを感じることができた。
シルフィーゼを嫌いではない。
むしろ好意を抱いていることを、ユリウスは自覚していた。
しかし、それ以上に、彼女の青い瞳は青珠を、彼女の亜麻色の髪は王子ユリウスを思い出させ、ユリウスを苦しくさせた。
「……駄目だ」
「なぜですの、ユリウス様、なぜですの?」
「そんなことをすれば、僕の大切な人たちを裏切ることになってしまう」
「大切な、ひと──?」
ユリウスの瞳を覗き込むようにして、シルフィーゼは悲愴な面持ちでささやいた。
「それは──女の方ですか……?」
ユリウスはそれには答えなかった。
「それに、もし君がいなくなったら、クレイテ姫はどうなる? 異国の地で、あの人の支えになるのは君だけなんだよ。姫がどれほど悲しむか、考えてごらん」
「姫様にはあたしがいなくても、他に従者も乳母もいます。国にはお父君もお母君もおられます。でも、あたしには? ユリウス様、あなたでなくて、いったい誰があたしのそばにいてくれるというの──?」
「シルフィーゼ、よく聞いて」
ユリウスはシルフィーゼの両肩に手を置き、その青色の眼をじっと見つめて、諭すようにゆっくりと言った。
「今、君と逃げることを選んでしまえば、僕は、この世の何よりも大切なものを失うばかりか、己の定めからも逃げ出すことになってしまう」
「さだめ? ユリウス様の──?」
「そうだ。僕は逃げるのは嫌だ。そして、シルフィーゼ、君にも、己の運命から逃げるような真似はしてほしくない」
「……」
「定めに従い、その中で、精一杯生きるんだ。それは、与えられた情況を受け止め、その上で最善の努力をすること。そうすることで、君は、僕よりも大切な人を見つけることができる」
「あ、あたしには──ユリウス様以上に大切な人なんて……」
苦しそうに眉を寄せてユリウスを見上げるシルフィーゼの眼に、みるみるうちに涙が浮かんできた。切なげに嗚咽をこらえる。
「泣かないで、シルフィーゼ──君が泣くのを見るのはつらい」
愛しさが胸にこみあげる。
ユリウスは儚げな少女を抱き寄せた。──腕にやわらかく力を込めて。
「君は強い娘だ、シルフィーゼ。君のそのひたむきな強さを、僕は愛しく思っている」
「愛しい……?」
シルフィーゼは驚いて涙に濡れた顔を上げた。
「そう。僕は弱い人間だ。だから、君の強さを尊敬している。愛情だといってもいい」
「尊敬は、愛ではないわ」
「いや、僕の君に対するその気持ちは限りなく愛に近い。でも、愛にはいろいろな形があるんだよ」
「いいえ。ユリウス様はあたしを愛していない──ああ、でも、あたしはあなたを愛してしまったんです」
シルフィーゼはその場に泣き崩れた。
ユリウスは手綱を放すと、泣き伏す娘の傍らに膝をつき、その小さな肩にそっと手を置いた。
「シルフィーゼ、君は混乱している。落ち着くんだ」
娘はただしゃくりあげるばかりである。
無性に切なくなって、ユリウスはうずくまる娘を、背後から覆いかぶさるようにして、ただ抱きしめた。
2005.1.28.