亡命の姫君
4.
そのときである。
<──ユリウス殿……ユリウス殿……>
ユリウスははっとした。
この声──精霊のものだ。
「黄珠か?」
突然、身を起こして宙に向かって問いを発したユリウスを、シルフィーゼは驚いて見上げた。
精霊の声は、彼女には聞こえない。
<遅くなって申し訳ありません。王子は無事、ディディル殿と行き会うことができました。そのことを知らせよと、王子に使わされてまいりました>
「黄珠、姿を現してくれ」
黄珠はふわりと空間から舞い降りた。
濃い金髪の短い巻き毛に蜜蝋色の瞳。山吹色の軽羅をまとった優美な姿──
ユリウスは立ち上がって、そこに現れた黄色い石の精霊に向き合った。
「ご無事で何よりです、ユリウス殿」
無表情な黄珠は、軽く会釈をして、ユリウスへの挨拶に代えた。
何もない空中から、突如、うら若い娘が出現した事実にシルフィーゼは言葉もない。ただ呆然と、黄色い石の精霊の姿を見つめていた。
「こ……れは、いったい──?」
「驚かせてすまない。彼女は精霊なんだ。僕の行くべき場所は彼女が知っている。僕は彼女からの連絡を待っていたんだ」
「……」
精霊の姿を見つめ、絶句するシルフィーゼ。
「で、どこへ行けばいい?」
「シウカへ」
と黄珠は短く答えた。
* * *
急いだ甲斐があって、ユリウスとシルフィーゼは、その日のうちにウィラーデの町に到着することができた。
ウィラーデは、緋海に臨む、小さな町であった。
夜はすでに更けていたが、姫君たちの泊まっている宿はすぐに見つけることができた。
「シルフィーゼ、よくぞ無事で……!」
ニナやネルヴァがほっとしたようにシルフィーゼに労いの言葉をかけたとき、クレイテだけは、彼女の背後に立つユリウスの姿を見つめていた。
「来てくれたのですね、ユリウス」
「……成り行きで」
思いの丈を込めたような響きを持つクレイテの言葉に対し、ユリウスの返答は素っ気なかった。
薔薇の花のようなクレイテの美貌も、ユリウスには何の感銘も与えないらしい。
クレイテはユリウスの腕を取り、一同から少し離れた窓辺へ寄った。
そして、小さな両手でユリウスの手を握ると、潤んだ黒い瞳で彼の顔をじっと見つめて言った。
「ユリウス、今、わたくしが無事にこのウィラーデにいるのも、そなたのおかげです。このまま、わたくしに仕えませんか」
「残念ながらそれはできません」
「わたくしはそなたの生命を救ったのですよ?」
「それに対しては、それなりの借りは返したと思っています」
クレイテ姫の表情が少し曇った。
「わたくしが、そなたに傍にいてもらいたいのだと言っても?」
「人の心は強制できるものではありませんよ」
クレイテは、微かに不遜な笑みを浮かべた。
この世に自分の頼みを拒絶するような人間がいようとは全く考えていない──彼女にはそうした、貴人特有の傲慢さがあった。
「でしたら──なぜ、シルフィーゼと一緒にここまでやってきたのです」
その声に含まれた勝ち誇ったような響きが、ユリウスを不快にさせた。
「彼女のひたむきさに心を動かされたからです。あなたのためでは──ない」
「シルフィーゼの……?」
生まれながらの姫君には理解できないようであった。
「あれは一介の侍女に過ぎません。何の力もない、弱い娘です」
小さくため息をついたユリウスは、口許に皮肉っぽい微笑を漂わせ、憐れみを込めた目でクレイテ姫を見た。
「あなたにはシルフィーゼの価値が解っていないようだ。姫、あなたがここまでたどり着けたのも、僕なんかよりシルフィーゼに負うところが大きいと思いませんか」
「何がおっしゃりたいの?」
「言葉通りの意味です。僕はあなたに仕える気はない。それだけです」
これ以上の会話は無用とばかり、ユリウスは自分に割り当てられた部屋へ引き上げるべく、すっとクレイテの前を横切り、その場から退出した。
そんな二人の様子を少し離れた場所からシルフィーゼが、遠慮がちにさりげなく、そっと見守っていた。
翌朝、まだ夜も明けきらぬうちにユリウスは起き出し、身支度を済ませた。
あまり長くこの亡命の一行に関わるべきではないと思った。
長くとどまると、シルフィーゼとの別れがつらくなる。
どこか物悲しい気持ちで宿の外に出ると、まだ朝靄の立ち込める町はひっそりとしていた。──早朝の空気は冷たい。
黒衣ではない。
茶色の外套をしっかりとまとい、美しい金髪は真冬の外気にさらしていた。特に荷もなかったが、剣だけは、帯びていた。
ふと、人の気配がした。
「よう、早いな」
振り向くと、茶色の髪をした快活そうな青年が一人、立っていた。
「あんた、お姫様の護衛じゃなくて、行きずりの旅人だったんだってな。賊を一人で倒したって聞いたぜ。見かけによらず、かなりの腕らしいな」
「あなたは? サマルークから派遣されたという姫君の護衛か?」
青年は大股でユリウスのそばに近づいてきた。
「おれはクリセロス。クリスと呼んでくれ。亡命の姫君のために結成された、お姫様お迎え団のうちの一人さ」
人懐っこいヘイゼルの瞳に不敵な笑みを浮かべ、クリスと名乗る青年はくだけた様子で言った。
ユリウスはうなずいて、
「サマルークの人々は、アルデリア王女の亡命をどう受け止めている?」
クリスはちょっと笑った。
「六花同盟への反対勢力なんかは、アルデリアを味方に引き込むいい機会だと思ってるようだぜ?」
「亡命だろう? だったら、王女はアルデリアと縁を切るつもりでは?」
「あれは戦争になるのを恐れて自国を逃げ出した臆病な女に過ぎない。肉親の情までは断ち切れていないさ」
ユリウスは青年の精悍な顔を探るように見つめた。
「あなたは反同盟派?」
「もちろん。といっても、サマルーク人じゃない。最近、歩兵軍に入隊した雇われ兵さ。もっとも、いつまでサマルークにいるか判らんがな」
「……傭兵なんだね?」
「おう。不安定な職だが、自由なもんさ」
ユリウスは微笑した。
「姫君たちをよろしく頼むよ」
よい旅を、とクリスが手を振った。
ユリウスが歩き出す。
紅珠の──朱夏の手先である大鷲に襲われ、瀕死の怪我を負ったのはつい五日前のことである。
たった五日でここまで怪我が治ったのは、驚くべき回復力であった。もう、痛みもほとんどない。普通の旅ならできるだろう。
シウカまで──
当座の路銀は、“六花”の密偵たちから奪った金がある。
町から出ようとさらに歩を進めたとき、不意によく知る気配が彼を追ってきた。
別れを告げずに来た罪悪感から、重苦しい気持ちで振り返ってみると、そこには冷たい風に亜麻色の髪をなびかせた娘が泣き出しそうにたたずんでいた。
「シウカへ行くのですね」
「シルフィーゼ……」
「そこに、あなたの大切な人がいるのですか?」
ユリウスは無言でシルフィーゼの青い瞳を見つめた。
望めば、この可憐な娘と二人だけの静かな生活が許されていたのだろうか。それは、ユリウスの進む道に用意されていた選択肢だったのだろうか。
しかし──青珠や王子ユリウスを捨てて、自分だけが幸福になれる──? それはできない。
何より青珠が大切だった。
ユリウスはつかつかとシルフィーゼに歩み寄った。努めて、穏やかな微笑を浮かべてみせる。
シルフィーゼは祈るような形に両手の指を組んだまま、じっとユリウスを見つめていた。彼の顔を、彼の姿を、その胸に刻み付けるかのように。
娘のすぐそばで、青年はおもむろに歩みを止め、そっと右手を伸ばした。
伸ばした手をシルフィーゼの頬に添え、身をかがめる。
「いろいろとありがとう」
ユリウスの唇が彼女の頬に触れようとした刹那、シルフィーゼは顔の角度を変え、唇で彼の唇を捕らえた。
彼女の両手が金髪の頭を抱きしめ、白い指が細い髪をまさぐった。
逆らわず、ユリウスも口づけを返す。
長い、別れの口づけのあと、シルフィーゼはまるで初めて見るもののように、ユリウスの顔を探るように見つめた。
青いやさしい瞳が、宝玉のような濃い碧の瞳を覗き込み、そこに何らかの真実を見い出そうとしている。
やがてユリウスは、シルフィーゼから身を引き、ゆっくりと踵を返した。
「さようなら──」
つぶやくようなひと言が、やさしい瞳を濡らした。
彼女が覗き込んだ碧色の瞳は、今にも壊れそうな儚さを秘めていた。
強いのか弱いのか解らない、不思議な人──
ユリウスは全てのしがらみを断ち切ったように、歩き始めている。
一歩、一歩、遠くなる。
もう逢うこともないだろう。
シルフィーゼはたなびく外套の背を負うように、一歩進んだ。
「……ユリウス様」
ユリウスは振り返らなかった。
王子ユリウスと、青珠のもとへ。
それが彼の全てだった。
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2005.1.30.