記憶

1.

 記憶はいつも曖昧だ。
 彼のそれも、例外ではない。
 いつから、なぜ、ここにいるのか、ユリウスの知るところではなかった。
 気がつくと、いつもそばにディリスがいた。
 同じ歳の妹。
 ヘイゼルの瞳が、いつも笑みを湛え、たえずユリウスのあとを追いかけていた。
 庭で。
 森の中で。
 あふれる陽光と少女の笑顔。
 そんな平和な日が永遠に続くものだと思っていた。
 ──そう、あの人に会うまでは。

* * *

「ユリウス様、オミノス様がお呼びですよ」
 庭で書物を読んでいた淡い金髪の華奢な少年が顔をあげた。
 オミノス──この館の老主人である。
「お祖父様が……? でも、ご病気に障りませんか、ミンデさん」
 ミンデは、オミノスの看護をするために特に雇われた小間使いである。
「オミノス様は、あなたにどうしても伝えたいことがおありとか。今すぐ、お会いになりたいそうです」
「あたしも行っていい?」
 ユリウスの傍らで花を編んでいた少女・ディリスが、ミンデの衣の裾を掴んで言った。
「まあ、ディリス様。あなたはいけません。オミノス様は、ユリウス様だけとおっしゃっておいでなのですから」
 ユリウスは書物を置いて立ち上がり、オミノスの寝室へと向かった。

「お祖父様、入ります」
「おお、ユリウスか」
 寝室の窓は窓掛けで覆われ、明るい外の光を遮っていた。
 その洞窟のような薄暗い部屋へ入ると、天蓋付きの寝台の中に、白鬚をはやした、痩せた白髪の老人が横たわっていた。
 しわがれた声が嬉しそうに碧い瞳の美しい少年を迎えた。
「ユリウス、いくつになった?」
「六歳です」
 やさしい眼で、オミノスはうなずいた。
「そこに掛けなさい。……おまえに言っておかねばならぬことがある」
「はい」
 ユリウスは、寝台のそばの椅子に素直に腰を下ろした。
「……ユリウス。わしはもう、そう長くはない」
「何を言われます、そんな──
「事実は事実と受け止めねばな」
 少し躊躇い、ユリウスはわずかに睫毛を伏せた。
 広い寝室には薬湯の匂いが漂っていた。
「ユリウス。母様は好きかね?」
「はい」
「ディリスは?」
「大好き」
 寝台に横たわったまま、オミノスはうなずいた。
「ディリスはおまえの双子の妹じゃな?」
「はい」
「じゃが、全く似ていない。なぜか解るかな?」
「血がつながっていないからです」
 はっきりと答えるユリウスに、オミノスは哀しげな眼をした。
「おまえは賢すぎる。そして、美しすぎる。この先、いろいろなことがおまえの耳に入るであろう」
「いろいろなこと……?」
 誰に告げられたわけでもないが、自分が両親と血がつながっていないことを、ユリウスは薄々気づいていた。だから、いつか本当の親のことを祖父から教えられると思っていた。
 オミノスは天井に目を移し、気だるそうに吐息をついた。
「忘れもせん。おまえが生まれたのは夏至の日じゃった。おまえは父様や母様と血がつながっておらぬ。ディリスともな」
「はい」
 夏至は六月。そして、ディリスの誕生月は八月だった。
 ユリウスは聡明そうな瞳で老人を見つめた。
「あの、僕の本当の父様と母様は……」
「……もう、この世の人ではない」
 オミノスは過去を見つめるような眼差しで天井を見ていた。
 クスティ王国のアスプワという町で、ヤヌス神殿の祭司を務めていたオミノスは、数年前に高齢と体調不良を理由にその任から退いた。そして、今はこの片田舎の小さな館に、一人娘のクローリスと二人の孫とともに住んでいた。
 二人の孫、それがユリウスとディリスである。
 ユリウスの実の母はヤヌス神殿の巫女であった。
 純潔の禁を破ってユリウスを産んだとされる麗しき巫女は、わずか二十歳でヤヌス神への贄となり、残された赤子も燔刑に処されようとしていた。
 その赤子──ユリウスを密かに助け出したオミノスは、ちょうど身重であった自らの一人娘の実子として、その子を匿い育てることを決めたのだ。
 二ヶ月後、オミノスの娘・クローリスは女児を出産した。
 女児の名はディリス。
 そのとき、生まれたのは双子だということにして、ユリウスをディリスの兄とした。
「お祖父様。僕は父様と母様の子供でいてはいけないのですか」
 無垢な瞳で問うユリウスを痛ましげにオミノスは見遣る。
「このままでいられればとわしも思うておる。何も起こらなければ、それでよい。しかし、おまえは実の母様によく似ておる。母様が働いていたアスプワには決して近づかず、田舎で静かに暮らしてほしいというのがわしの願いじゃ」
「アスプワに行っては駄目……? 本当の母様に似てるから……?」
「父様と母様とディリスと、幸せに暮らしなさい。じゃが、大きくなるにつれ、いろいろなことがおまえの耳に入るやもしれぬ。それらを気にしてはいけない。おまえは正しい母のもとに生まれたのじゃから」
「……」
 ユリウスはオミノスの言葉を正しく理解しようと、一生懸命その言葉を聞いていた。
 正しい母?
 それは、彼の母を正しくないと思っている者たちがいるということだ。
 そして、その人たちはアスプワにいる。
 だから波風を立てぬよう、アスプワに近づいてはいけない。
「お祖父様」
 考え考え、ユリウスは口を開いた。
「父様や母様は、僕の生まれが正しくないことを知っているのですか?」
「何を言う、ユリウス!」
 オミノスは眼を剥いた。
 このたった六歳の少年は、今の話でどこまで真実を悟ったのだろう。
 この子は並の子供よりもずっと賢い。
 何も言わなくても、こちらの思惑を悟ってしまうことがよくあった。
 だから、彼の生まれを完全な嘘で誤魔化すことはできなかった。
「血がつながっていないことは大した問題ではない。父様や母様がおまえを愛していること、おまえが家族を大切に思っていることが大事なのじゃ」
 あの薄倖の巫女の忘れ形見を、このように残して逝くのは気がかりであった。
 せめて、ユリウスが十を越えるまでは見届けたかった。
 オミノスの娘婿・アリオンは、クスティ王国の首都で神官をしている。
 老齢で弱っているオミノスの看病のため、クローリスは二人の子供とともにこの片田舎の父の館にとどまっているが、オミノス亡きあとは、彼女は二人の子供をつれ、夫のもとへ戻るだろう。
 辺鄙な田舎に住んでいるときは安全でも、都会に出れば、ユリウスは否応なく人の目を引く存在になろう。
 そして、いずれアリオンが、自分にも妻にも双子の妹にも似ていないユリウスを不審に思うときが来るだろう。
 クローリスは、ユリウスの母親が誰であるかを知らない。無論、その女性が巫女であったことも。
 祭司であった父親と、仕事上の関わりがあった若い女性が赤子を産んで間もなく死亡したと聞かされ、残された赤子を憐れんで、父に言われるまま、自分の子と同様に育てることを承知しただけだ。
 養子ではなく、わざわざ実子のディリスと双子だと偽らなければならなかった理由を彼女は知らず、また、自分の父の言を疑いもしなかった。
 素直でやさしい女性であるクローリスは、オミノスの口止めがなければ、夫に事実を話すだろう。
 数年前の妖霊星が出現した夜のアスプワでの一連の出来事を、娘婿は覚えているだろうかと、オミノスは苦痛とともに考えた。きっと覚えているに違いない。
 あのとき、神への贄にされた巫女にユリウスがそっくりであることに気づくだろうか。
 気づけば、娘夫婦はどうするだろう。
 オミノスは寝台の中でぐったりと眼を閉じた。
「少し疲れたようじゃ。わしは眠るとしよう。……ユリウス、すまんが、ミンデにそう伝えておいてくれんか……」
「はい。おやすみなさい、お祖父様」

 その日から、四日の間眠り続けていたオミノスは、小雨の降る朝に、そのまま静かに息を引き取った。

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2019.4.23.