記憶
2.
顔を洗う手をとめると、桶に汲んだ水に己の顔が映った。
十九歳の己の顔だ。
ユリウスは水面に映るその顔を見つめる。
宿屋での朝。
井戸端で顔を洗うユリウスは、記憶の糸をたぐり、朱夏と出会った日のことを思い出そうと、じっと水面を見つめた。
オミノスの死後、六歳のユリウスは、両親と妹とともにクスティ王国の首都・ツェステリサに移った。
家族四人のツェステリサでの生活は穏やかで、ユリウスとディリス、二人の子供はのびのびと育った。
自分が家族と血のつながりがないことをどう受け止めていけばいいのか、オミノスからはっきり伝えられることはなかったが、きっとこのままでいいのだろうと、そうユリウスは感じていた。
そんな中、彼が最初に不安を覚えたのは、六月に入った頃であっただろうか。
(夏至の日、僕は生まれた──)
そして、ディリスの誕生日は八月だ。
(僕はディリィより早く誕生日を迎える)
母・クローリスはこのことをどう思っているのだろう。
よぎった不安は、ユリウスの心の奥に沈殿した。
なぜか、夏至が来るのが怖かった。
雲ひとつない晴れ渡った青空。
整然とした街並み。広い道。
神官である父・アリオンに届け物をするためにヤヌス神殿を訪れた、その帰り道のことであった。
六月の風が吹く。
「ユリウス」
一瞬だけ、陽射しが翳ったような気がした。
石畳の道を歩く背後から不意に名を呼ばれ、六歳のユリウスは立ち止まった。
六歳──否、今日、七歳になる。
一見、美しい少女のようにも見える華奢な少年は、金髪を揺らせ、声の主を振り返った。
「──!」
思わず言葉を失った。
そこにたたずむ女性の、あまりの美しさゆえに。
その人の周りだけ時間が止まっているかのようだ。
波打つ長い蘇芳の髪、宝石のような琥珀色の瞳、そして陶器のような象牙色の肌──年の頃は判らない。
ユリウスはウェヌス神殿に祀られた女神像を思った。太陽の輝きさえ、この人のまばゆさに色褪せてしまうだろう。
その美しい人は少年を見下ろし、ふっと微笑んだ。
彫像に息が吹き込まれたように。
「わらわは朱夏と呼ばれる者じゃ」
「……」
そして、琥珀の瞳でユリウスを見つめる。
ユリウスは凍りついたように立ちすくんでいた。
「そなたが地のユリウスか」
「地……?」
刹那、戦慄に似た緊張を覚え、ユリウスは小さく聞き返した。
「天と地の御子の伝承について、そなたは何も知らぬのか?」
絹のようになめらかな声に不安を覚え、ユリウスは朱夏と名乗った女性を見据えながらうなずいた。
まだ日は高い。
けれど、ユリウスの周囲だけ、ざわざわと陽射しが翳っていくようだ。
夏なのに、手の先が冷たい。
この凍るような感覚は何だろう。
「……僕を、知っているの?」
街中の往来にいるのに、この場に、この世には、この女性しかいないような錯覚に陥った。
深紅の大輪の花のように、朱夏は再び微笑んだ。
「そなたが生まれる前から知っておる。ずっと、そなたが成長するのを待っていた」
言い知れぬ不安と恐怖にユリウスは慄く。
「あなたは、人間……なの?」
朱夏の瞳の表情が微かに動いたかに見えた。
都会の街中。
人通りもある。
なのに、この恐怖は何だろう?
このたおやかな美しい女性が己に危害を加えると?
「さて。何に見える?」
朱夏はユリウスを見つめ、穏やかに言った。
「……そなたは、まだ朱夏の名を知らぬのじゃな」
そして、淑やかに少年に近づくと、身をかがめて片手を伸ばした。
びくりとしたユリウスの頬に朱夏の冷たい手が触れた。
白魚のような指。
「目醒めよ、ユリウス。──今はまだ時期ではない。一年後の夏至の日に、またそなたを迎えに来ようぞ」
一方的にそう告げて、ユリウスを一瞥すると、彼女は古風な長衣を翻し、踵を返した。
すると、一台の箱馬車が車道をやってきた。
二人の近くに音もなく止まった馬車の扉が独りでに開くと、美しい女はそこに優雅に乗り込んだ。御者の姿は見えなかった。
二頭の馬が影のように馬車を曳く。
「……」
まるで通り悪魔に出くわしたような気分だった。
見送るユリウスは金縛りにあったように動くこともできない。
ただ茫然とするばかりであった。
時間に取り残されたように。
短い白昼夢を見ていたように。
箱馬車が去る。
太陽が照る。
──雑踏が戻ってきた。
水面が揺れた。
(そう、あれからだ。あの夢を見るようになったのは)
桶に汲んだ水を流し、十九歳のユリウスは立ち上がって空を仰いだ。
八月が過ぎ、九月も過ぎた。
朱夏という女性に会ったのは一度だけ。
しかし、彼女は一年後にユリウスを迎えに来ると言った。
再び朱夏に会えば、何かが決定的に変わってしまう気がした。
(──僕自身が)
それが怖かった。
息が苦しい。
「ユーリィ、ユーリィ」
肩を揺すられて、起こされ、眼が覚めた。
「ユーリィ、また夢を見たの?」
「ディリィ……」
愛らしい妹のディリスが、心配そうに寝台に横たわるユリウスの顔を覗き込んでいた。
ここは子供部屋だ。
「もう朝よ。起きる?」
窓からは朝の陽射しが射し込んでいる。まだ早い時間だと思われた。
「今日もうなされてたよ。時々見る星の夢?」
「うん──」
ディリスは心配そうに、ヘイゼルの瞳でじっとユリウスを見つめた。
「ユーリィ、父様に夢占いをしてもらったら?」
「夢占い、か……」
「父様は神官だもの。悪い夢だったとしても、きっと祓ってくれるわ」
それで何かが判るだろうか。
クローリスとディリスが買い物に出かけたある日の午後、ユリウスは自宅の書斎の扉を遠慮がちにノックした。
「ユーリィか?」
父・アリオンの声が答えた。
扉を開けた息子の顔を、アリオンはやさしい眼差しで見遣る。
「母様やディリィと買い物に行かなかったのかい?」
「うん。父様に聞きたいことがあって」
「何だい?」
「夢を見るの」
「ほう。どんな夢だ?」
わずかにユリウスは躊躇った。
部屋に入り扉を閉め、その扉の前に立ったまま、ユリウスはおずおずと椅子に座る父親を見た。
「父様は……ようれぼし、って、知ってる?」
「ようれぼし?」
アリオンは訝しげに眉をひそめる。
「みんなが“ようれぼし”って言っている。その星を夢に見るんだ」
「……」
ユリウスは妖霊星の知識をどこから得たのだろうとアリオンは思った。
学校では、まだそのようなことを教えてはいないはずだ。
「ユーリィ。その星のことをどこで知ったんだい?」
「夢の中に出てきて」
「夢以外で」
美しい少年は困ったようにうつむいた。
「判らない。でも、普通の星じゃないんだ。大きくて、蒼白く尾を引いていて……」
アリオンにとって記憶に新しい妖霊星は、ユリウスとディリスが生まれた年に出現したものだ。妖霊星が現れた約二ヶ月後に、彼の息子と娘、双子の兄妹は生まれた。
記憶をたどるようにアリオンは眉根を寄せた。
当時の彼はオミノスの部下で、アスプワのヤヌス神殿に所属していた。
妖霊星。
その出現とともに赤子を産み、裁判にかけられて、神への贄とされた巫女がいた。
(あれは確か──)
オミノスに仕えていた巫女の一人で、名は──名は覚えていないが、淡い金髪の、それは美しい女だった。
そう、たとえばこのユリウスのように。
出し抜けにアリオンははっとした。
脳裏をよぎった自らの考えに驚き、思わず声を上げそうになって口許を押さえた。
(似ている? ユーリィとあのときの巫女が?)
ありえない。
だが、顔立ちも髪の色も、ユリウスの美しさはまるで──
(まさか……)
信じられない思いで、彼は自慢の息子の顔を見つめた。
あのときの巫女に、ユリウスは驚くほどよく似ている。
2019.6.1.