記憶
3.
アリオンは苦悩した。
妻のクローリスとも何度も話し合った。
クローリスは、ユリウスを実の子だと偽っていたことを泣きながら夫に謝罪した。
ただ、彼女にとって、それがそこまで重大なことだとは思わなかったのだ。
父のオミノスに懇願されるままに赤子を実の子として育てることを誓い、それが神の御意思に適うことだと信じて疑わなかった。そして、ユリウスの出生について、肝心なことはクローリスは何も知らないらしい。
アリオンが腑に落ちないのは、赤子を娘に託したオミノスが、なぜ、娘婿を欺いてまでユリウスを実子とすることにこだわったのかということだ。
アリオンは神官であり、身寄りのない赤子を引き取ってほしいと義父から頼まれれば、特に断る理由はない。血のつながりがなくても、喜んで引き取っただろう。
なぜ、養子ではいけなかったのか?
その理由を考えると、身の毛もよだつ思いがした。
(もしユーリィが、あのときの巫女の子だとしたら……?)
純潔の禁を犯し、身ごもった巫女は、神への贄とされた。
そして、生まれた赤子は邪神の化身として、上層の神官長たちによって、内々に燔刑に処されたと聞いている。
だが、もし、その赤子が死んでいなかったとしたら?
アリオンはごくりと唾を呑み込んだ。
(オミノス様が、その赤子を逃がしていたとしたら……)
たとえ、幽閉されていた嬰児の姿が消えたとしても、民衆を動揺させないため、上層部は赤子の処刑を行ったと発表することもあり得るだろう。
(あのときの赤子は本当に死んだのか、それとも──)
確かめなければならない。
けれど、真実を確かめて、今さらどうしようというのだろう。
神に仕える者として、ユリウスは邪神の子かもしれないと、公儀に訴え出るべきだろうか。
しかし、だとしたら、そもそも、なぜ、オミノスは赤子を助けたのか。
アリオンはオミノスを、人として神官として、心から尊敬していた。正式に下された裁きに背いてまで、何の理由もなしに義父が邪神かもしれない罪人の子を助けるとは到底思えなかった。
そしてユリウスは、この七年間、彼が我が子として慈しんできた少年なのだ。
(誰にも言えない。ユーリィの生命に係わることだ)
この子を罪人の子にすることはできない。
アリオンは沈黙を貫くことを決めた。
クローリスもそれに従った。
ユリウスの本当の両親について知る者はなく、七年前のあの裁判で見た美しい巫女の容貌に、ユリウスがとてもよく似ているということだけが、紛うかたなき事実だった。
そんな両親の激しい困惑は自然とユリウスにも伝わっていた。
妖霊星の夢を見たこと──それは言ってはいけないことだったのだと理解した。
(僕の生まれが正しくないから?)
書物で調べ、多くの場合、妖霊星は凶星とされることも知った。
夢の内容は徐々に具体化していき、一人の巫女が裁判にかけられる様も見た。
悪魔の子を糾弾する人々の声。
次第に膨らむ不吉な思いと両親の苦悩。
そして、はっきりとした恐怖はもうひとつあった。
朱夏と名乗ったあの妖しくも美しい人が、次の夏至の日、迎えに来る──
* * *
扉を閉めたあの日のことが、昨日のことのように脳裏に浮かぶ。
巡礼の黒衣をまとう十九歳のユリウスは、十二年前の自分に想いを馳せた。
自分の存在が両親を苦しませている。
夢に出てくる巫女は裁判にかけられる前に男の子を産んだ。
それが、巫女の罪──
他にどうすることもできなかったのだ。
夢の中の出来事が、実際に過去に起こった出来事であるのは間違いない。
巫女が産んだ男の子が自分なら、そして、朱夏が言っていた「地のユリウス」という言葉がそれを指しているなら、この町にユリウスの居場所はなかった。
そして、
(朱夏から逃げなければ)
今まで育ててもらった感謝の念を置き手紙にしたため、貯めた小遣いを持って、小さな荷を手に、精一杯の決意をした。八歳になる夏至の日が近づいていた。
家族四人で住んでいた館の扉を閉め、もう戻らないつもりで、ユリウスは外へ出た。
以来、血のつながらない両親と妹の消息は判らない。
わずか八歳の少年の、無謀な旅の始まりであった。
ドルトー共和国の都市・カスト。
大陸南部に位置するその街の宿屋の一室に、王子ユリウスはいた。
王子は、彼を捜しに来たレキアテル王国の方士・ディディルと合流し、幼い方士の説得にあたっている。ユリウスの義弟・アウリイがつけたディディルの護衛たちは別室にいる。
黄色い石の精霊・黄珠が壁際の椅子に淑やかに座り、話し合う二人の様子を静かに見守っていた。
「どちらにしても、一度、レキアテルへお戻りください」
幼い方士は必死に訴えた。
双髻に結った髪が少女によく似合って愛らしい。
「陛下もアウリイ様も、どんなにユリウス様のことを案じておられるか……ユリウス様のお気持ちがどうであれ、お手紙ではなく、陛下と直接お話しくださいませ」
「父上は解ってくださっているはずだ。アウリイやそなたには現実を見つめてもらわなければならない。私が王宮にいることは、王家にとってよくないことなのだ」
「でも……!」
ディディルは悔しそうに眉間にしわを寄せた。
「陛下はユリウス様を王太子にとお考えなのでしょう? だったら、ユリウス様がおられてこその王宮ではありませんか。わたしがユリウス様づきの方士となったのは、ゆくゆくはユリウス様が王位に就かれることを意味しているはずです」
王子ユリウスは見えない眼を伏せた。
事はそんなに単純ではない。
「ディディル。そなたはレキアテル王家に仕える者。王の新たな意向に従いなさい」
「ディディルは王家に仕える神官の家系に生まれましたが、わたし個人はユリウス様にお仕えするために第一王子づきの方士に選ばれました。そのお役目を全うするつもりです」
頑固な少女にユリウスは吐息を洩らす。
こうして同じ問答を何時間も繰り返しているのだ。
「──これは、そなたの耳には入れたくないと思っていたが……ディディル、私は人の生命を奪ったことがある」
「えっ?」
それが何を意味しているのか理解できず、ディディルはテーブルを挟んで対座している王子の静かな表情を見つめた。
「私を狙った刺客を何人も殺めてきた。手を下したのは黄珠だが、私が命じたことだ」
壁際に座る優美な娘へとディディルが目を向けると、黄珠は何の感情も感じられない声で短く答えた。
「本当のことです」
「そなたには初耳だろうが、私は何度も暗殺されかけた。黄珠がいなければ、私はすでにこの世の者ではないだろう。王家の王子たちの派閥は、それほど深刻な問題なのだよ」
「……」
ディディルは愕然と眼を見張った。
「王位継承問題だけではない。王の側近たちの中には、凶星のもとに生まれた王子──私を王国を滅ぼす存在だと信じている者たちもいる」
「そんなこと……」
「私が王宮にいれば、徒に問題が大きくなるだけだ。私の居場所は王宮のどこにもないのだよ」
「……」
ディディルはうつむいて唇を噛んだ。
ユリウス王子の生まれや立場が、ユリウス個人の資質とは関係なく、彼に生命の危険をもたらしている。
自分の知らないところで王子の生命が狙われていたという事実が、彼女にはかなりの衝撃であった。
本来、第一王子づきの方士である彼女は、王子の側近として、そういった王子の敵から託宣や占術をもって王子を護ることも職務のひとつである。しかし、王宮内の策謀に真正面から対峙するには、如何せん、十三歳のディディルはあまりにも若い。
己の無力を痛感するしかない。
「今、私には大切な用がある」
と、王子は続けた。
「一刻も早く、友と合流し、精霊の宿る彼の石を捜さなくてはならない」
「……」
「だから、そなたはレキアテルへ帰りなさい」
うつむいて、しばらく考え込んでいたディディルは、蒼ざめた顔を決然と上げた。
「解りました。でも、ディディルにも考える時間をください」
まだ迷いがあるのだろう。考え考え、ゆっくりと彼女は言った。
「ユリウス様がその巡礼のお友達を助ける間、この宿に滞在してユリウス様をお待ちすることを、お許しください」
「……仕方ない。今後のことは、そのとき、もう一度話し合おう」
気まずい沈黙が下りた。
椅子から立ち上がったディディルは、ぎこちなくユリウスに一礼して、部屋を出た。自分の部屋へと戻っていく方士の足音を、ユリウスは茫漠と聞いていた。
空気のように立ち上がった黄色い石の精霊が、窓辺に寄り、視線を南の彼方へと送った。
その方角に、シウカがある。
おそらくそこに、朱夏の魔女の館がある。
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2019.6.6.