朱夏の館

1.

 どれだけの距離を風に乗って流れてきたことだろう。
 移動を続ける青い石の波動を追う青珠が辿り着いたのは、ドルトー共和国の一地方都市・シウカであった。
 そこは、都市の文化や繁栄などというものから全て見放されたような、小さな、寂れた町だった。
(シウカ……青い石の波動はこの近くで移動をやめた。この町のどこかに、紅珠の目的地があるはず……)
 霊体であった青珠はその場に実体を現し、とん、と地面に足をつけた。
 宝珠から離れたままでいる以上、精霊の力を十二分に発揮することはできない。ここまで辿り着くまでに、すでに彼女はかなり力を消耗していた。
「なにも……ない町」
 青珠は辺りを見廻した。
 つぶやく青珠の目に映る風景は、ただ、見渡す限りの瓦礫の山と、荒涼とした不毛の大地。それは、つい近年までの戦争の爪痕を残した都市の姿であった。
 だが、住民は?
 住民は、いるのだろうか──
 そんな廃墟に降り立った美しき青い精霊。
 青珠の姿は、周囲の廃墟の残骸と著しい対照をなし、世界の終焉に救済に舞い降りた天使のように気高く見えた。
 町の中をゆっくりと歩き廻り、人の気配の有無を確かめる。
 ふと、神殿が目についた。
 かつて神殿だったと──思しき建物。
「ユーリィなら、素通りしないわね」
 懐かしいあるじの名を口にしたとき、青珠の白い顔に微かに表情らしきものが動いた。

 神殿の中もまた、廃墟であった。
 瓦礫以外──何もない。
 その瓦礫の陰に空洞らしきものを見つけ、青珠は無表情に近づいた。
 それは、地下への入り口であった。
 彼女をいざなうように、地下へと石の階段が続いている。
「納骨堂……?」
 一段降りるごとに闇がまといつく。
 神殿の中にわずかばかり差し込んでいた陽の光も、地下までは届かない。辺りは無明の闇となった。
 精霊の眼は闇の中でも物の形を捉えるが、光を生み出すことはできない。
 そのまま階段を降り続けた。
 そのとき、突如としてあちこちに蛍のような光が浮かび上がった。
 ぽうっ、と、仄白く発光する無数の光。
 鬼火──
──紅珠!」
 青珠はさっとその場から飛び退き、空中に浮揚した。
 と、いま青珠が立っていた場所から火の手が上がっている。
「くくく……さすがは珠精霊の一人。人間どもとは違うね」
 いつの間に現れたものか、炎の髪を持つ赤い石の精霊・紅珠の姿がそこにある。人間でいうなら十四、五歳の容貌に、小柄で華奢な肢体。尊大な口調。
 ──最強の珠精霊。
「ようこそ、青珠。よく来たね。待っていたよ」
「……!」
 紅珠の放つ鬼火のせいで、朧に周囲の景色が浮かび上がる。
 青珠のいる位置は、まだ階段を半分ほど降りた地点に過ぎなかった。そこからさらに下へと空間は続き、上の神殿の規模からは想像もできないほどの広大な面積に、無数の四角い石が並んでいた。
 そこは墓所であった。
「君を、我が主の館へ案内しよう。そのために君を呼び寄せたのだから」
「あなたの──主ですって?」
 紅珠は、ふんと鼻で嘲笑った。
「もちろん、知っているだろう? 朱夏の魔女だよ」
「やっぱり黒幕は朱夏だったのね?」
 低く詰問する青珠を、小馬鹿にしたように見遣り、紅珠はひときわ大きな墓石の上に降り立った。
「このシウカは朱夏の意思によって文明から取り残された。ここはいわば、朱夏の城を護る城壁なのさ」
「朱夏の城……? 朱夏の居城はシウカの中にあるの?」
「ふふっ。人間てのは浅はかなもんだね。鬼火を見ただけで、二度とこの地に足を踏み入れようともしないんだから」
「……あなたはなぜ召喚に応じたの?」
 象牙色の短衣に包まれた華奢な肢体がふわりと青珠の前に浮揚した。そして、細い人差し指がからかうように青珠の鼻をつついた。
「君は? 青珠。それに知らないのかい、珠精霊は全て召喚された。石は四つとも、この俗世に出廻っているんだよ」
「……!」
翠珠すいじゅも黄珠もそれぞれの石を持つ者に付き従う定めを負った。──君も、そうなんだろう?」
 青い石の精霊の横に廻り、ふざけるように彼女の長い髪をすくった紅珠を、青珠は屹と睨み付けた。
「今のあなたはただの傀儡。朱夏の道具に過ぎない。同じ珠精霊の石を盗むなんて! 精霊の誇りはどこへいったの」
 おや、という眼をして、紅珠は青珠の怒りを受け流した。
「もともと珠精霊の間に結束があったなどとは信じられないね。おれたちは最初から石を持つ者を守る定めにあるんだよ」
「それでも、わたしたちには石を持つ者を選択する権利はあるわ」
 刹那、水の“気”と火の“気”が二人の間の空間でぶつかり合った。
 水は火を消し、火は水を気化する。
──っ!」
 激しい衝撃波が大気を裂く。
 だが、このときは青珠に分が悪すぎた。
 ただでさえ、相手は珠精霊の中でも最強の実力を有する紅珠。
 そして、青珠の核である青い石は紅珠によってどこかに封じられているのだ。
「くっ……!」
 次の瞬間、青珠の意識が失われた。


「お目覚めかい、青珠?」
「……!」
 青珠が意識を取り戻したのは、華やかな色彩に彩られた豪華な一室であった。
 窓からまぶしい光が降り注ぐ。
 中央には天蓋付きの寝台が置かれ、室内の壁は美しいモザイクタイルで幾何学的な模様が描かれている。
 たくさんの絹のクッション。きらめく金細工の繊細な調度品。
 その部屋のビロードの寝椅子に、彼女は寝かされていた。
「ここは──
 その異国的な雰囲気に微かな戸惑いの表情を浮かべる青珠に、紅珠は無邪気な笑顔を向けた。
「朱夏の館だよ、もちろん」
「! 朱夏の……!」
 寝椅子の上に起き上がった青珠は、警戒心を露わに紅珠を睨む。
 対する紅珠の笑みはあどけなくも高慢だ。
「何言ってるんだよ、今さら。君はここを目指してやってきたんじゃないの?」
「……そうね。あなたに招待されたんだったわね」
 窓から差し込む光は真夏の温度を持っていた。
 季節は冬だったことを思い出し、青珠は眉をひそめる。
「“朱夏”……そう、ここは──朱夏の館は今、夏なのね」
「今だけじゃない。ずっとここは夏だよ。夏を閉じ込めてあるんだ」
「どうして?」
 さあ? というように、紅珠は肩をすくめてみせた。
 青珠はしなやかに立ち上がり、窓辺に寄った。
 部屋はかなり高い階にあるようだ。
 斜めに細かい格子の入った窓から見下ろす景色は、広大な庭園だった。棕櫚の木が立ち並び、大きな人工の川が流れ、色とりどりの鳥たちが自由に飛び回っている。
 まるで緑豊かな南国のようだ。
 シウカの廃墟にあった、あの闇に閉ざされた広い地下墓所はどこへ行ったのだろう。
「遥か天上に透明な円蓋が見えるわ。あれは結界? この地の夏は朱夏が作り出した紛い物ね」
「その通り。珠精霊の目を誤魔化せないことは承知しているよ」
 景色に目を向けたまま、青珠は続けて問うた。
「朱夏は……そしてあなたは、いつからここにいるの?」
「ざっと千年?」
 ふざけるような口調で返ってきた言葉に、屹となった青珠が振り返る。
「真面目に答えなさい。あなたは朱夏の正体を知っているの?」
「だから、千年。朱夏は千年以上の時代ときを生きている。魔女だという噂はある意味間違ってはいない」
「朱夏の魔女とは何者?」
「さあ?」
 紅珠はくすくすと笑う。
「探ってごらんよ。ここは朱夏の本拠だ。彼女のことを何か知れるかもしれないよ」
「……」
 ──千年。
 その時間の重みを青珠は思った。
 大陸に沈黙の封印が施されて、千年と少し。
 それ以前の時代は、人間たちは魔族の支配に甘んじ、息をひそめて暮らしていた。
 神代と呼ばれる千年以上ものその昔、大陸は四つの帝国に分かれていた。
 南の金烏帝国。
 東の玉兎帝国。
 西の太白帝国。
 北の天狼帝国。
 各帝国はそれぞれ四人の魔神に治められており、のちに四魔神と呼ばれる魔神たちの長たる地位にいたのが、金烏帝国の朱羽帝・ヴァルクという炎魔神だった。
 神代、赤い石はその朱羽帝・ヴァルクが持つ黄金の王笏に象嵌されていた。
「……もしかして、朱夏の魔女は、ヴァルクから赤い石を受け継いだの?」
 青珠には、それ以外に千年もの間、朱夏の魔女が赤い石を有している事実が腑に落ちなかった。
 千年前、神代と称される時代の最後の皇帝だった四人の魔神たちの力の均衡が崩れ、四大帝国が崩壊したあと、それぞれ四魔神の所有物だった四つの精霊の宿り石は行方が判らなくなった。
 主を失い、いずれかの地で、石に宿る精霊たちは眠りに就いたはずだ。
 新たな持ち主が現れるまで──
「紅珠、答えなさい」
「ふ、紅珠──か。悪いが、その名は捨てた。今のおれの名は朱玉しゅぎょくという」
「! ──名を……封じられているの……」
 愕然と青珠は青い眼を見開いた。
 珠精霊が第三者に名を封じられるとは──
「……珠精霊をそんなに簡単に操るなんて……しかも、名を封じて忠誠を得るなんて……」
 四宝珠の理に反する。
 それは自然界の掟を無理やり捻じ曲げるようなやり方だ。
 ふと、青珠は眼を見張った。
「紅珠──あなた、朱夏の魔女の傀儡魔術にかかっているのね?」
 まっすぐに己を見つめる青い石の精霊の厳然とした視線を、紅珠は瞬きもせず受け止めた。
「あなたは傀儡の術を使おうとして、反対に朱夏の術に落ちてしまった。……そうなのね? わたしは朱玉を名乗る今のあなたを珠精霊とは認めない」
「そこまでにしておきなさい」
 美しい声が二人の珠精霊を振り向かせた。
──朱夏の魔女……!」
 青珠は初めてその姿を目の当たりにして、絶句した。

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2019.10.23.