朱夏の館

2.

 吸い寄せられるように、青珠は朱夏の魔女を見つめていた。まるで魔術にかかったように、その美しい姿から目を離すことができなかった。
 蘇芳の髪と琥珀の瞳、そして、象牙の肌を持つ絶世の美女──ユリウスの記憶にある通りの姿だ。
 ユリウスの記憶のまま──十数年もの刻を経た昔と同じ──
「そなたが青珠か。朱玉と同じく宝珠に宿る精霊の一人。青い石の精霊」
 微かに甘い、艶のある低めの声。
 一見、二十代半ばに見えるが、仮に二十歳と言われても三十と言われても通用しそうである。
「わらわはファティマ。朱夏の魔女と呼ばれているが、わらわの本当の名はファティマという」
「ファティマ……?」
 ゆるやかに波打つ長い蘇芳の髪の間から、大ぶりの耳飾りが揺れるのが見えた。
 月桂樹の葉を模した赤銅の耳飾りだった。
 漆黒の絹のイオニア式キトンをまとい、衣を留めているいくつものフィブラには血のような深紅のルビーが象嵌されている。そのルビーよりもさらに美しく輝く赤が美しい魔女の左腕にあった。
 青珠は、朱夏の魔女──ファティマの左腕にはめられた幅の広い銅の腕輪に象嵌された赤い石を見た。
 青珠の視線に気づいたファティマは、左腕の腕輪の赤い石に視線を落とし、微かに唇に笑みを漂わせた。
「そう、朱玉はわらわの忠実なるしもべ。今回は、わらわの手足となって働いてもろうた」
「わたしはあなたのしもべになどなる気はないわ」
 部屋の入り口から静々と室内に入ってきたファティマは、顔を上げ、青珠を真っ直ぐ見つめ、こともなげに言った。
「そなたをどうこうしようとは思っておらぬ。そなたは天と地の二人のユリウスをここに呼び寄せる道具に過ぎぬ」
 口許に悪魔的な、妖しい微笑が貼りついている。
 ユリウスの美を女神が人にやつしたようなというのであれば、ファティマの存在は美の女神そのものだった。
 ただ気高く麗しい。
「天と地……? 二人のユリウス……?」
 青珠の反応に、ファティマは微かに意外そうな表情をした。
「そなたは何も知らぬのか?」
「……」
 戸惑う青珠の様子を愉しむようにファティマは笑む。精霊である青珠さえも、この美しい女を前にしているだけで威圧されそうな心地がした。
 この魔性の美しさこそが、彼女を“魔女”たらしめている所以だろう。
「まもなく、そなたを追って、巡礼の、地のユリウスがここへ来よう。天のユリウスを伴ってな」
「天の、ユリウス──?」
 ファティマが背後に控えていた少女に片手を差し出すと、銀色の髪をひとつに編んで垂らしている少女は手に持った木の匣を美しい主人に捧げた。
 受け取った匣を開け、ファティマは中身を青珠に示す。
「……!」
「見ての通り、青い石はわらわが預かっておる」
 ──ユリウスの耳飾り。
 優雅な燻し銀の細工に深い瑠璃色の石を嵌め込んだ、美しい耳飾りがそこに収められている。
「返して。……と言っても、無駄でしょうね」
 匣の側面には、たくさんの神代文字が彫り込まれていた。
 刻まれているのは水の宝珠・青い石の力を封印するための呪文である。
「そなたに好き勝手されては困るからな。青い石の魔力は封じさせてもらう。二人のユリウスがこの館に着くまで、そなたはこの部屋でおとなしくしておれ」
 そうして、ファティマは静かに匣を閉じた。
「不自由はさせぬ。“人形”を一人、そなたに付けよう」
 朱夏の魔女の背後にいた二人目の少女がすっと前に進み出て、青珠に対し、軽く膝を曲げてふわりと挨拶をした。
 編んで垂らした銀の髪に薄緑色の瞳。
 少女の容姿は、何から何まで、一人目の少女と同一であった。
「この子を小間使いとして使えばよい。名は……」
「まだ名をいただいておりません、ファティマ様」
 肌の色が紙のように白く、髪は銀、まとう衣も白一色の少女たちには、生命を感じなかった。
 だが、驚くには至らない。
 青珠は“人形”と呼ばれた少女たちの正体をすでに見極めていた。
「では、そなたの名は今日からダフネじゃ。そちらの蒼い髪の青珠という娘がそなたの主人。心して仕えよ」
「かしこまりました」
 何か言いたげな青珠の視線に気づいたファティマは、くすり、と妖艶に微笑んだ。
「“人形”では不服か? この館に人間は住めぬ」
「庭に大勢いるわ」
「あれらは“鳥”。わらわの恋人たちじゃ」
 この館に時間を感じない。
 明らかに、この場所は正常な刻の流れとは全く異なる空間にあるようだ。
 赤い石の精霊と“人形”の少女一人を従え、朱夏の魔女が部屋をあとにすると、青珠は霊体になろうとしてみたが不可能だった。魔力は使えない。遠透視の術も無理だ。
 ダフネが静かに控えている。

 白い大理石の広い自室に戻り、葡萄酒色のビロード張りの安楽椅子に腰を下ろすと、ファティマの紅い唇が弧を描いた。
「十一年前の夏至の日、我が手から逃げ去った地のユリウス──ようやく、この手に」
「占いの通りでしたね、朱夏」
 傍らに立つ紅珠が口を添えると、ファティマは彼のほうを見ず、うなずいた。
「今年は“星が動く”年。占いの通りに天と地の二人の御子は出会い、わらわのもとを訪れようとしている」
「御意」
「それにしても天の御子も一緒とは。命拾いしたな、朱玉」
「朱夏のため、消えることは覚悟の上でした」
 美しい女はアーモンド形の眼をわずかに細めた。
「ようやく……ようやく、わらわの願いが叶う」
 ──千年待った。
 そう彼女は、心の中でつぶやいた。

* * *

 夜は来る。
 ということは、時間がないこの地にも、朝も昼もあるのだろう。
 与えられた部屋で、一人考え込む青い石の精霊のもとを訪れた者がある。
「久しぶりだな。青い石の精霊・青珠」
 部屋に入ってきたのは、一人の若い男だった。
 赤茶色の巻き毛。緑の眼。均整の取れた肢体に彫りの深い整った容貌。
 美丈夫という言葉が似合う男だ。
 明々とランプに照らされた部屋で寝椅子に座っていた青珠は、微かに眉をひそめた。
彩羽さいは
 それはユリウスを襲った鳥の名前ではなかったか。
「また会ったわね」
「囚われた珠精霊の顔を拝んでやろうと思ってね。いい様だな」
「わたしの部屋に来ることをファティマは許可したの?」
 座ったまま青珠が問うと、彩羽は彼女のそばへと大股に近づいてきた。
「今宵はファティマ様には会えん。夜伽のお相手は別の奴だ。ここへ来れば、暇つぶしになるかと思ってな」
「珠精霊は嫌いでしょう? 油断していいの?」
「魔力を封じられた今のおまえは人間の娘と変わらない。精霊は嫌いだが、美しい娘は好きだぜ?」
 身をかがめ、青年は美しい精霊の顎に手を掛け、上向けたその白い顔に己の顔をぐっと近づけた。そして、にやりと笑う。
「退屈してるんなら、遊んでやってもいいが?」
「ダフネ」
「はい、青珠様」
 青珠の呼びかけに、控えの間にいた白い少女がすぐに現れた。
 それを見て、彩羽は大袈裟にため息をつく。
「お人形さんもいるのか。下手なことはできないな」
 肩をすくめた彩羽が娘から手を放すと、青珠は寝椅子の上で優雅に足を組んだ。碧羅の裾から覗く白い踝を彩羽が横目で一瞥する。
「あなたがここへ来たのは、ファティマへの当てつけ?」
「そんなことが当てつけになるならばな」
 青い石の精霊に背を向けて、彩羽は窓辺へ寄った。
 窓の外、夜の闇が支配する庭園は静かだ。
「あなたはファティマを愛しているの?」
 彩羽の肩がぴくりと震えた。それはその問いへの恐れであった。
「それ以外に何ができる? おまえもファティマ様に会っただろう。あの方を愛さずに、この館では生きていけない」
「楽園のように見えて、その実、ここは奈落ね。ここへ連れてこられた人間は、もう元の姿で元の世界には戻れない。ファティマのもとでしか生きられない」
 彩羽はちっと舌打ちをした。
「ファティマ様のコレクションを見たのか?」
「ええ。ファティマの恋人たちでしょう? 窓から見たわ」
「千年をかけて集めた恋人という名のコレクションだ」
 吐き捨てるような彩羽の言葉だったが、青珠は表情を変えることもなく淡々と言った。
「嫉妬? あなたもその一人でしょう? ファティマにとって、恋人はそれ以上でもそれ以下でもないように思えるわ」
 彩羽はかっとなって振り返った。
「だから、精霊ってのはいけ好かないんだ。人の心に土足で入ってきやがる……!」
 自分は違うと、そう大声で怒鳴りたかったが、できなかった。
 いったい、他の者たちと己はどう違うのだろう?
 朱夏の魔女の前では何者も無力だ。
 愛しているのは憎んでいるからだ。
 ただ、人間であることを放棄したくはなかった。ファティマの魅力に溺れ、全面的に屈してしまっては、もう人間ではいられなくなる。
「理性は苦しみね。ファティマに屈服し、刹那の快楽に身を任せてしまえば、ここは“鳥”たちの楽園になるのに」
 激しい表情で彩羽は青珠を睨んだ。
 だが、同時にはっとする。
 この青い石の精霊に、己は手の内をさらしてしまったのか──
 刹那、彩羽は全身がぞっと鳥肌立つのを感じた。
「……身の程は知っているさ」
 透き通った微笑を浮かべる青い石の精霊は、足を組んで寝椅子に腰掛けたまま、微動だにしていない。
 このか弱そうに見える楚々とした娘が、強大な力を秘めていることに改めて気づかされる。嘲笑ってやろうとしたが、青珠は彼自身よりよほど強かだった。
 ファティマが千年を生きる魔女ならば、彼女は四大元素の精霊なのだ。

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2019.11.10.