朱夏の館
3.
東の空が黎明の光に彩られ始めた頃、ファティマの寝室の窓から、大きな白鳥が一羽、外へ羽ばたいていった。
その気配を感じた紅珠は、眼を閉じたまま、光を感じることだけに意識を向けた。
朱夏の館は、白い大理石造りの白亜の宮殿である。
その建物の巨大な純白の丸屋根の上に、赤い石の精霊は危なげもなく寝そべっていた。
中央に大きな方形の建物が、その両隣にそれよりは小さめの長方形の建物が並び、回廊で繋がれている。その建物を四つの尖塔が囲み、宮殿の前方に広大な緑の庭園が広がっていた。
紅珠は千年前を思う。
この宮殿は、かつての金烏帝国の皇帝・ヴァルクの夏の離宮であったのだ。離宮の名を“朱夏の館”といった。
ファティマも朱夏の館も千年の時代を経てここに在る。
だが、誰しも永遠というものを信じているわけではなかった。
だからこそ、天と地の御子が必要なのである。
「……二人の、ユリウス」
朝の光は紛い物だろうか。
通常の世界と同じく、ファティマの支配する常夏の地にも、朝が訪れ、昼が過ぎて、夜が来る。
朝は、鳥たちの目覚めとともに始まるのだった。
朱夏の館に人間はいない。
庭園に戯れる数多の鳥たちと、“人形”と呼ばれる召使いの少女たちがいるのみであった。
青い石の精霊・青珠は、与えられた部屋から抜け出し、階段を降り、一人、回廊を歩いていた。
彼女はいつもの碧羅ではなく、白い麻のドーリア式キトンをまとっていた。
“人形”の少女たちと同じ衣裳である。長い蒼い髪もまた、後頭部に結い上げるのではなく、少女たちと同じようにひとつに編んで背に垂らしていた。
「水の匂い……」
ふと立ち止まり、彼女は顔を上げた。
宮殿の後方に大きな川が流れているようだ。
表の庭園の人工の川の水は、この川の水を引いているのだろう。
「この川……レーテーだわ」
青珠の眉が曇る。
だが、そこにとどまらず、彼女は歩を進めた。
回廊を抜け、別棟へ行くと、そこは外から見るよりも遥かに天井が高い。
広々とした空間は中庭のようにも見え、室内の中央には一本の大きな樹が茂っていた。
「立派な樹」
樹のそばまで行って、青珠は青々と茂る葉を見上げた。
「不思議。この館で、この樹にだけ時間を感じる」
青珠は室内を見廻した。
その細長い広間にはおびただしい数の扉が連なっている。
ゆっくりと足を進め、ひとつひとつの扉を注意深く眺めながら歩いていると、背後から声がかかった。
「青珠!」
赤い石の精霊だ。
霊体から実体になった紅珠が、ふわりとそこに姿を現した。
「何をしているんだ、君は。一応、こっちは幽閉しているつもりなんだよ」
「探れと言ったのはあなたでしょう? それに、少し歩くくらい、ファティマの許容の範疇だと思うわ」
「なぜ?」
「ファティマはダフネに言ったわ。わたしに仕えるようにと。“人形”たちは主人に忠実だけど、知能は低い。わたしが部屋を出たいとダフネに言えば、ダフネはそれに従うとファティマは知っていたはずよ」
「それはそれとして、その格好は何?」
皮肉っぽい紅珠の指摘を受け、青珠は両手を広げて、自らの出で立ちを見下ろしてみた。
「庭園の鳥たちの目を誤魔化そうと。ダフネに頼んだら、彼女たちのと同じ衣を持ってきてくれたわ」
あくまでも彼女は淡々としている。
紅珠は呆れたようにため息を洩らした。
「君の性格を考慮に入れておくべきだったよ。確かに朱夏は気にしないだろうが、おれが禁じる。君はあの部屋から出るな」
「解ったわ」
「この広間の扉も開けるなよ」
「“時間”を閉じ込めた扉なのね」
華奢な少年は尊大な仕草で苦々しげに肩をすくめると、身を翻し、大樹に向かった。
「おれが言うのもなんだが、珠精霊の力は、石の魔力を封じただけでは駄目なんだな」
「ごめんなさい、行くわ」
「青珠」
戻ろうとした青珠が振り向くと、紅珠は彼女に背を向け、樹を見つめたまま言った。
「この樹をどう思う?」
「樹齢は確実に千年以上。興味深いわね。四帝時代からある樹なの?」
四帝時代とは、神代、四人の魔神が大陸を治めていた時代を指す。
「この樹に見覚えは?」
「……さあ。精霊の力を返してくれたら、きっと思い出すわ」
紅珠は炎のような髪をかきあげ、ふっと口角を上げた。
「行けよ、青珠。用があるのは君じゃなく、ユリウスなんだ」
「……」
彼の真意を汲み取ろうと、青珠はじっと彼の背を見つめたが、赤い石の精霊はそこに立ちつくしたまま、振り返ることはなかった。
* * *
朱夏の魔女・ファティマは、自室で鏡に向かっていた。
銀髪を編んだ白い衣の少女が、ファティマの見事な蘇芳色の髪を梳かしている。
「ガラテイア、もうよい」
「はい、ファティマ様」
ガラテイアと呼ばれた少女は、昨日、ファティマが青珠と対面したとき、傍らに控えていた“人形”の少女である。朱夏の館に何人もいる“人形”たちは、皆、同じ容貌、同じ髪や眼の色をしていた。
薄緑の瞳を伏せ、ガラテイアが下がると、ファティマはすっと立ち上がり、さらさらと窓辺へと寄った。ファティマからは薔薇水の香りがした。
窓から見る庭園の景色は、千年前と何も変わらないように見えた。
けれど、記憶はいつも曖昧だ。
あの頃の己は幸福だったのか不幸だったのか。今では夢の中の出来事のようにも思える。
ただひとつ、彼女には十五より前の記憶がなかった。
両親の記憶もない。
育ての親のもとへも、いつから、どのような経緯で引き取られたのかなど、彼女の知るところではなかった。
育ての父は学者だと聞いていた。
その人は独り身で、彼女に育ての母はいない。
父に学問を習い、歌や器楽の手ほどきを受け、教養を身に付けた。
そして、十八歳で、あの宮殿へ連れていかれたのだ。
あの日、彼女は自分の運命について、何も知らずにいた。
「朱玉」
「はい」
ファティマの声とともに、紅珠は瞬時に主の背後に姿を現した。
「天と地の御子はまだ遠いのか?」
「二人は着々とシウカへ近づいています。もう少しお待ちを」
「天地の御子の魂が手に入れば、わらわはすぐにこの呪われた生を終わらせることができようか」
「お望みのままに──」
紅珠はその場に片膝をつき、頭を垂れた。
白い少女たちが静々と動き、色鮮やかな大小の鳥たちが庭園に舞い遊ぶ。
朱夏の館の日常はあでやかな絵画のようであった。
与えられた部屋でぼんやりと物思いにふけっている青珠のため、ダフネがキタラを奏で、徒然をなぐさめてくれた。
青珠は絹のクッションを抱いて、寝椅子にもたれている。
(あの樹そのものに見覚えはない。けれど、あの樹の存在に何らかの意味があるとしたら、ファティマが生まれたのは、千年前の四帝時代に間違いないわ)
千年、そしてそれ以上の昔、四つの帝国を四人の魔神が治めていた頃、四つの精霊の宿り石はそれぞれ四人の魔神の所有物だった。
青い石は、太白帝国の青鱗帝・ヘスカーのものであり──つまり、青い石の精霊である青珠は大陸の西に位置する太白帝国にいた。そして、金烏帝国の朱羽帝・ヴァルクのものであった赤い石に宿る精霊・紅珠は南の金烏帝国にいた。
四人の珠精霊は別々の帝国の皇帝のもとにいたのだ。
石の精霊たちは、他国のことに関与しない。
だが、四大帝国の崩壊の影に、その原因を作った一人の人間の女性がいたことは青珠も覚えていた。
(朱羽帝・ヴァルクの寵姫で、絶世の美女と言われていた……)
ヴァルクはその人間の女に溺れ、政を顧みなくなり、やがて、他の三人の魔神たちとの関係にも亀裂が入る。
人々は女を傾国の美女と噂した。
(名前は知らない。確か、十八で朱羽帝に献上されて……他の皇帝たちとも面識があったはず)
青い石の精霊の主であった青鱗帝とも会っているはずだ。ただ、その女は公の場に出るときはいつもベールで顔を隠していた。
その寵姫がファティマだとしたら……?
(でも、あの傾国は普通の人間だったと聞いている。魔人では……ましてや魔女ではないわ)
四帝時代の帝国の主な民は、魔人と称される、魔力を持つ人々であった。
力を持たぬただの人間は奴隷とされ、過酷な労働や不当な扱いを受けることもしばしばあった。
三十年戦争を経て、四つの帝国が滅亡してのち、大陸に魔族を封じる“沈黙の封印”が施されてはじめて、時代は人間たち中心の社会が作られる“沈黙の時代”となる。
ダフネがかき鳴らすキタラの音色が美しい。
開け放たれた窓から入る夏の風が心地よい。
青珠はふとアウネリア湖で遭遇した湖の主のことを思った。
あのとき、彼女はユリウスと、“沈黙の封印”が解かれた可能性を話し合った。
そして海王神を信仰する町ではトロールを退治した。
(“沈黙の封印”は解かれている。解いたのは、もしかしたら……)
朱夏の魔女──?
絶世の美しさを誇る朱夏の魔女が、千年前の朱羽帝の寵姫だとしたら?
だが、おかしい。
人間の寿命は約百年、魔人もそれと同じくらいだ。魔神と恐れられる者たちでさえ、寿命は五百年前後だった。どうあっても千年は生きられない。
青珠は顔を上げ、窓辺の卓子に飾られた真っ赤な薔薇の花を青い瞳に映した。
(──炎の色)
炎魔神・ヴァルクのもとにいた紅珠なら、あの傾国の美女のことをよく知っているだろう。
2019.11.18.