朱夏の館
4.
<朱夏の館に住む美姫は魔女だ!>
<魔神さえも惑わす女──! 殺せ!>
<元凶である朱夏の館の傾国の魔女を殺せ!>
口々に叫ぶ声が聞こえる。
朱夏の館はファティマのために建てられた夏の離宮。
金烏帝国の朱羽帝に愛された証。
戦争が始まると、朱羽帝はファティマを朱夏の館に置き、厳重に警護した。
大陸が戦火に包まれても、朱夏の館は、朱羽帝の命運が尽きる最後まで平和な楽園だった。
<余を裏切ったのか、ファティマ>
「違います……!」
<おまえは人間どもが余を葬るために寄こした刺客なのか>
「違います、陛下!」
両手を血に染め、震える足で立つファティマは、崩れ、燃える優雅な建物の中、呆然と立ちすくんでいた。
裸足の足の下にも大きな血だまりがある。
まとう衣も血に染まっている。
──どうして──
ファティマの頬を涙が伝った。
どうして、こんなことになってしまったのか。
──お父様、お導きください──
彼女を朱羽帝のもとに残した父は、この戦火の中、どこにいるのか。
いったい何を信じればいいのだろう。
「陛下、誓って、わたしは──!」
「う……」
豪華な天蓋付きの寝台の中でうなされる美しい女を、ともに寝台に横たわっていた若い男が揺り起こした。
「ファティマ様、大丈夫ですか。ファティマ様」
「……あ」
眼を開けたファティマは、視線を巡らせ、不安げに己の顔を覗き込む端整な男の顔を見た。
「彩羽か」
「うなされていましたよ。また、過去の夢ですか」
「そなたには関係ない」
「ファティマ様──」
「じき、夜が明けるな。そなたは行くがよい。わらわはガラテイアを呼ぶ」
女に背を向けられた赤茶色の巻き毛の男は、逞しい裸の躰に寛衣を羽織り、寝台を下りた。
「ファティマ様」
「行け」
つれない声を聞き、男は身を翻し、閉ざされた天蓋の帳の外へ出た。
寝室はまだ薄暗いが、東の空は仄かに白み始めている。
窓を開ける音がした。
バサバサッ──
鳥の羽ばたく音がして、それは次第に遠ざかっていく。
寝台のファティマは気だるげに身を起こした。
彼女は己の手を見つめる。
血塗られていた両手。
白い両手に血の跡はない。
「ガラテイア」
「はい、ファティマ様」
続きの間の扉が開き、すぐに少女の声が応じた。
「沐浴をする。用意はできておるか?」
「はい。できております」
一糸まとわぬ姿で、ファティマは寝台を下りた。
豊かな曲線で形作られた女らしい肢体は官能的だが、それと同時に芸術的で、女神像のように犯しがたい品位がある。その白い肌に彼女はさらりと絹の寛衣をまとった。
銀髪の少女が三人、控えている。
黄金の水差しや高価な香料や石鹸を持って、彼女たちはファティマとともに大理石の浴場に入った。
それは毎朝の儀式のようであった。
たくさんの恋人たちの一人とともに夜を過ごすファティマは、朝になると、決まって念入りに沐浴をした。
ガラテイアを筆頭に三人の少女たちがその手伝いをする。
たっぷりの湯を使い、丹念に全身を洗い清め、拭い、最後には香り高い薔薇水で手足を清めるのだ。──その白い手に染みついているように感じられる血の臭いを消し去るために。
* * *
神代、金烏帝国の朱羽帝・ヴァルクが治めていた大陸南部の地域をヴァルカン地方という。
南の海・緋海に面するヴァルカン地方は温暖な気候の過ごしやすい土地である。
大陸の中央に位置する霊峰群から南の一帯がかつての金烏帝国の領地であり、ここシウカも、やはり金烏帝国の一部だった。
現在のシウカはドルトー共和国の地方都市という位置づけになっているが、まるで時代に取り残されたように、この町だけは人の気配のない廃墟となっている。
晩冬の頃。
そんなシウカの廃墟に黒い人影が立った。
巡礼の黒い衣裳に身を固めた淡い金髪の美しい若者だった。
「ユリウス」
後ろからかけられた声に、黒衣をまとう巡礼のユリウスは振り向いた。
「王子、黄珠。……馬は?」
「向こうの森に放してきた。黄珠の言霊でつないでいるから、私たちを待っていてくれるだろう」
深緑色の外套をまとった亜麻色の髪の青年と、濃い金色の巻き毛の優美な娘が黒衣のユリウスに近づいてきた。年若い方士・ディディルを安全な場所に残し、青い石を追ってきた王子ユリウスと黄色い石の精霊・黄珠である。
「森に流浪の民がいたね」
「ああ。僕は少し話を聞いてきた。この町には亡霊が出るそうだ」
「亡霊?」
王子ユリウスはわずかに首を傾げてみせる。
彼のサークレットの中央に嵌められた黄色い石が、微かに光を撥ねた。
「そういう噂があるらしい。鬼火も見たという。でも、亡霊がいるようには感じないな。この廃墟は、それくらい人に近づかれたくない場所なんだろう」
「なるほど」
「ユリウス王子、神託はこの町の神殿と出たんだね?」
「そう。神殿へ行ってみよう」
二人のユリウスは、廃墟の町の神殿を訪れた。
崩れた神殿は瓦礫だらけの廃殿であったが、辺りを見廻す巡礼のユリウスには、ここが太陽神アポロを祀った神殿であることがすぐに判った。
「ここに青い石が……」
用心深く、探るように神殿の敷地内を歩く。
「黒いユリウス」
ユリウスの背後にいた王子が不意に言った。
「樹のイメージが見えた。この神殿に大きな樹はないだろうか」
「樹? 神木かな」
辺りには枯れた樹木の残骸はあるが、廃殿に大樹は見当たらない。
眼を閉じ、美しい巡礼者は大気の精霊の声に耳を澄ます。
けれど、大樹の存在は感じない。
踵を返しかけたとき、ふと黄珠が口を開いた。
「王子、ユリウス殿。中庭に神木の痕跡を感じます」
「中庭か」
ユリウスは王子を見遣り、王子も小さくうなずいて、神殿の中庭らしき場所に向かった。
広い中庭も無残な廃墟の景色であったが、その中央に、かつてこの神殿の神木だったと思われる樹木の枯れた古い幹が残されていた。
「この木? 月桂樹だ」
月桂樹は太陽神アポロの神木である。
その木は幹の半ばから折れ、枯れた根元が残っているだけだ。しかし、王子は言った。
「大気の精霊が伝えてくる映像では枯れ木だが、それに重なる別のイメージが見える。この木は生きて、どこかで茂っている」
黒いユリウスが地面に膝をついて、片手で枯れた木の幹に触れた。
「この木は完全に死んではいないな」
掌を通して伝わってくるのは、なぜだろう、真夏の青空のイメージだった。
「王子の言う“どこか”に手掛かりがあるんだろうな」
「ユリウス、手掛かりになるかどうか……一瞬、地中に陽光を感じた」
「陽光? この木の下に?」
「地中……地下だ」
──真夏の青空のイメージ。
はっとしてユリウスは立ち上がった。
「ここへ来るまでに、地下への入り口らしき場所を見かけた。地下墓所だろう。きっとそこだ……!」
地下へと続く入り口は、ひっそりと瓦礫の影に口を開けていた。
三人はその場所を探る。石の階段が下へと伸びていた。
「朱夏の住処は壺中の天だ」
地下を覗き込み、独り言のようにユリウスがつぶやいた。
「どういう意味だい? 黒いユリウス」
「空間のひずみを利用して、現実には存在しない偽りの世界を作っているのだと思う」
王子ユリウスはうなずいた。
「この地下墓所が、朱夏の魔女の住処ということだね」
「行こう」
「王子、ユリウス殿。地下は真っ暗です。灯りを探してきましょうか」
黄珠の言葉に、ユリウスはもどかしそうに首を振った。
「いや、時間が惜しい。王子は?」
「私の目はもとより見えない。暗闇でも、いつもの通り、大気の精霊、風の精霊たちの声で周囲の様子は判るよ」
王子は鷹揚に微笑して、黄色い石の精霊に瞳を向けた。
「それより黄珠、朱夏の魔女の本拠へ向かうのだ。そなたは実体を現さないほうがいい」
「はい」
黄珠の姿がすっと消えた。
先に巡礼のユリウスが、続いて王子ユリウスが、二人の青年は、一歩一歩、用心深く地下への階段を下りる。
闇が二人にまといつく。
闇は次第に、濃く深くなっていく。
だが、この闇の先には、まぶしい夏の光が待っていることを、二人のユリウスは無意識に感じ取っているのだった。
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2019.12.4.