ユリウス、二人
1.
廃墟の町・シウカ。
その町のアポロ神殿の地下墓所に、朱夏の魔女の館はある。
そう確信して、巡礼のユリウスと王子ユリウスは、地下墓所へと延びる階段を下りた。
「下は真っ暗だ。ユリウス王子、大丈夫か?」
「ああ。私はもともと眼が見えないからね。太陽のもとであろうと闇であろうと、大差ない」
先に進む巡礼のユリウスに続き、王子ユリウスも注意深く地下への階段を一歩ずつ降りていった。
地下空間は深閑としていて、二人の足音だけが響く。
不気味な空気であった。
「……!」
ぽっと、前方に火が灯る。
仄白い小さな炎が揺れている。
「王子、鬼火だ。解るか?」
「流浪の民が見たという鬼火だね。大気の精霊たちが伝えてくれる。近づく人間たちを威嚇しているんだろう」
ひとつだった鬼火は、ぽっぽっと、数を増やしていき、幻のように地下墓所の底に沈み、揺らめいて見えた。
「精霊の火。つまり、紅珠が僕たちに誘いをかけてるってわけだ」
逸る気持ちに巡礼のユリウスが足早に階段を下りようとしたが、その腕を王子が掴む。
「ユリウス、紅珠の挑発に乗らないほうがいい」
そのとき、突然、二人の足許の石の階段がえぐれるように崩壊し、下から炎が立ち上った。
「っ!」
「王子──!」
巡礼のユリウスが叫んだ。
受け身が取れないであろう盲目の王子の身を案じ、ユリウスは反射的に手を伸ばしたが、湧き上がった炎を蹴散らすように、渦巻く風が二人を包んだ。
「黄珠……!」
黄色い石の精霊の風だ。
世界が反転した。
と同時に、ふっと垂直に落下する感覚に捕らわれた。
疾風に呑まれ、思わず閉じた眼を開いたとき、そこは地下の闇の中ではなく、まぶしい太陽の光の下であった。
風が去るまでの一瞬の出来事にユリウスは呆然とする。
「……!」
そこにあるのは広大な緑の庭園。
まぶしい陽光。青い空。
真夏の大気。
「朱夏の住処──!」
辺りを見廻す黒いユリウスは愕然と眼を見張って振り向いた。
「王子! 怪我はないか」
緑の芝生の上に片膝をついてうずくまっていた王子は、おもむろに顔を上げた。
「……ユリウス、ここは?」
「おそらく、僕たちは朱夏の住む世界に招かれたのだと思う」
うなずいた王子はゆっくりと立ち上がった。
「空気が違う。ここは夏だね。それにユリウス、気づいているか……?」
「何を……?」
と言いかけて、ユリウスははっとした。
「──精霊たちの存在が」
大気に、風に、緑や川に宿っているはずの、精霊たちの気配がない。
盲目の王子ユリウスは、普段、万物に宿る精霊たちの声を聞いて、視界を形成している。その精霊たちがこの世界にはいない。千里眼を持つ彼であるが、ここでは何も見えないのであった。
「ユリウス、この世界はどんなところだい?」
黒いユリウスは王子ユリウスの手を取った。
「広い──広い、緑の庭園だ。遠くに丸屋根の白い宮殿が見えている。あれが朱夏の館だろう」
ユリウスは王子に説明した。
館までまっすぐに伸びた人工の川。その両側に道があり、緑の庭園には棕櫚の木が整然と並んでいる。
「遠くに鳥の声が……」
「ああ。たくさんの鳥がいるようだ」
黄色い石の精霊は沈黙を守っていた。
敵地にあって、実体を現すなという王子の指示を守っているのだ。
ユリウスは王子の手を強く握った。
「王子、僕の眼を使ってくれ。僕の視界なら使えるんだろう? 距離感が掴みにくいかもしれないが」
「ありがとう、黒いユリウス。そうさせてもらう」
王子は一度眼を閉じ、再びゆっくりと開く。
問うように黒いユリウスが王子を見遣ると、王子は翡翠色の瞳でしっかりとうなずいてみせた。
青い空の下、前方に白亜の宮殿が見える。
冬から夏の世界に投げ込まれ、まとう外套を脱いだ二人のユリウスは、宮殿を目指し、広大な庭園を川に沿って進み始めた。
不意に顔を上げたファティマは、さらさらと衣擦れの音をさせ、優雅に窓辺に近寄った。
「朱玉」
彼女の背後に赤い石の精霊がふわりと姿を現した。
「そなた、感じるか?」
「はい。ようやく天地の御子が到着した模様」
「青珠は気づいておろうか?」
「さて。青い石の力は封じていますので、まだ気づいていないのではないかと」
窓の外へ視線を向けたまま、ファティマはうなずいた。
その口許には妖しい微笑が揺れていた。
白亜の宮殿を擁する広大な庭園は緑の木立ちに取り囲まれていた。
歩くごとに、違和感が増す。
それはこの朱夏の世界が自然のものではないせいでもあるのだが──
「王子」
「何だい、ユリウス?」
「僕の眼は使えている?」
「ありがとう。鮮明だよ」
彼の眼に王子が同調していても、ユリウスには何の違和感も負担もなかった。
王子の視界ができるだけ自然であるように、二人は並んで同じ方向へ顔を向けて歩いている。
庭には美しい大小の鳥たちが放たれていた。
「王子はあの鳥たちをどう思う?」
「何か不自然だね」
黒いユリウスが問うと、王子はすぐに答えた。
棕櫚の木々に羽を休める鳥たちは、道を歩く二人のユリウスに無関心であったり、遠くから敵視するような、軽蔑するような眼を向けたりと、その反応は様々だ。
ユリウスの碧い瞳が鳥たちの姿を流れるように映していった。
「王子は僕を襲ったアルタイルを覚えているか?」
「あの大鷲だろう? 覚えているよ。あの鷲は元は人間だったと君は言ったね」
そこで王子ははっとする。
「まさか、この庭園にいる鳥たちは……」
「自然界の精霊たちがいないこの世界で、果たして生き物が普通に生活できるのか疑問だ。この世界の動植物全てに朱夏の術がかけられているのではないかという気がする」
「そして、朱夏の住処は壺中の天だと言ったね。ここでは全てが朱夏の魔女の手の中にあるということか」
長くまっすぐに続いている人工の川が、夏の青空を水面にきらきらと映している。
一歩ずつ、宮殿の入り口に近づいていく。
緑の木々に芝生。色鮮やかな鳥たち。
川を渡る夏の涼風。
そういった美しい景色の中に漂うひどく静かで穏やかな空気が、逆に何か不協和音のように、二人のユリウスの心の内に警鐘を鳴らしていた。
「だが、まやかしの世界にも何らかの“核”があるはずだ」
「核か……」
ふと王子が言った。
「シウカの神殿で見た樹のイメージが気になる。月桂樹の木を私は探そう」
「アポロの神木か」
「ユリウス、君は青い石を探せ。朱夏の魔女が簡単に青い石と一緒に私たちをもとの世界へ帰してくれるとは思えぬ。この世界の核を見極める必要があるだろう」
「王子はそれが月桂樹だと思うんだね?」
「ああ。二手に分かれよう」
「でも、そうしたら君の視界は……」
「大丈夫、黄珠の声に導いてもらう。二人とも正面から乗り込むこともないだろう」
白い宮殿に近づくにつれて、鳥たちの視線が強くなる。
樹上や茂みの陰に羽を休めるそんな鳥たちの中に、ひときわ鮮やかで美しい一羽がいた。
体長は一キュビットほど。真紅の羽に黄色と緑の尾羽、白い頭には小さな鶸色の冠羽があり、嘴の下は鮮やかな青という華やかな色彩の鳥だ。
その鳥は遠くから二人のユリウスの姿をじっと睨めつけていたが、二人の進む方向が分かれると、おもむろに羽ばたき、黒衣をまとった巡礼のユリウスのあとを追った。
2020.1.27.