ユリウス、二人
2.
朱夏の宮殿の正面の扉は初めから少し開いていた。
黒いユリウスは影のように、その大理石の大きな扉の隙間から宮殿内へと身を滑り込ませる。
「──っ!」
刹那、はっとしたユリウスは身を固くした。
(炎──?)
広いホールは一面に火の手が上がり、破壊された大理石が瓦礫の山となり、黒くすすけて散乱している。
くすぶった煙と血の臭い。
まるで戦場だ。
「久しぶりじゃな、地のユリウス」
艶のある女の声が響き渡り、ユリウスは愕然と我に返った。
「……」
大理石の広いホール。
美しい色彩で幾何学的な模様が描かれた滑らかな床、高い円天井を支える幾本もの太い柱。豪華な多灯架。
優美な曲線を描く大きな階段の中ほどにその人は立っていた。
たった今、彼が見た、崩れ落ち、破壊され尽くした宮殿の光景はどこへ行ったのか。
「ようこそ、朱夏の館へ」
波打つ蘇芳の髪の美しい女が嫣然と微笑んでいる。
「朱夏……」
「大きくなったな。すっかり青年じゃの」
「おまえは……なぜ、容姿が変わらない……?」
漆黒のキトンをまとう朱夏の魔女──ファティマは琥珀色の瞳でくすりと妖しく笑った。
「わらわの時間は止まっておるゆえ」
蛇に睨まれた蛙。
ユリウスがファティマから受ける印象は、それに近い。ユリウスをひるませるものは、単純に捕食する側とされる側という本能なのか、それとも、彼女が背負う千年という刻の重みなのか。
ファティマが階段を一段おりると、ユリウスは無意識に一歩下がった。
「そう怯えずともよい」
「──この宮殿は焼け焦げた瓦礫と血の臭いがする」
用心深く絶世の美女の瞳を見据えたまま、ユリウスは低い声で言った。
「朱夏の魔女。おまえは何者だ」
美しい女はわずかに首を傾げ、眉をひそめてみせた。不満を表すように彼女が斜めに下ろしたその腕にはめられた腕輪に輝く赤い石が鋭く光を撥ねる。
「無礼であろう? ユリウス。わらわとの約束を何年も破り、ようやく館に招くことが叶えばその暴言か」
「約束などしていない。ここへ来たのは、青い石を返してもらうためだ」
屹となったユリウスは反射的に剣の柄に手を掛けた。
「青いな、ユリウス。そなたは謂わば敵地におるのじゃぞ? 刃向かうばかりが能ではあるまい」
ユリウスを見据えるファティマの眼差しが艶めかしい笑みに彩られ、彼女の白い指が流れる長い蘇芳の髪を耳にかけると、月桂樹の葉の形の耳飾りが重々しく揺れた。
「それともそなたは囮かえ? 天のユリウスからわらわの目を逸らすため、正面切って一人で乗り込んできたのか?」
「天……? の、ユリ、ウス……?」
その美しい声を耳にしているだけで、じりじりと追い詰められていくようだ。
何が現実か判らなくなる。
「逃げるな、ユリウス。石など返してやるが、そなた自身はわらわがもらう。──来やれ」
華麗に漆黒の絹のキトンの裾を翻し、ユリウスに背を向けて、朱夏の魔女は階段を上り始めた。
それが合図であったかのように、傍らの扉から静々と出てきた白いキトン姿の五人の銀髪の少女たちが、ユリウスの前に並ぶ。
「どうぞ、こちらへ」
一人がユリウスの手を取って、彼を促した。
そのまま一人の少女に手を取られ、残りの四人の少女たちに囲まれて、ユリウスは二階の客間へといざなわれた。
否という選択肢はない。
時が凍結してしまったような感覚に、どうしても抵抗することができなかった。
そして、そんな巡礼のユリウスの様子を扉の隙間からじっと見ていた極彩色の鳥が、翼を広げ、上層の階へと飛び立っていった。
王子ユリウスは、黄色い石の精霊・黄珠の声を頼りに朱夏の館の敷地内を進んでいた。
月桂樹の木。
それが手掛かりだ。
「黄珠、視線を感じる。痛いほどに」
<庭の鳥たちです。この宮殿の監視の目でもあるのでしょう>
黄珠は霊体のままで答えた。
「その鳥たちというのは、やはり?」
<はい、姿を変えられた人間でしょう>
「彼らがいる限り、私の行動も朱夏の魔女に筒抜けだということだね」
<おそらく>
ユリウスが足を向けたのは、宮殿の左の棟に続く回廊だった。
庭園から回廊へ入ろうとしたが、その途端、回廊の近くの木の枝に止まっていた小夜啼鳥が、歌うように鳴き出した。
一羽ではない。
数羽の声が重なって響き渡る。
バサバサッ──!
すると、大きな羽ばたきの音とともに、複数の猛禽とみられる大型の鳥たちが、周りの木々の枝に集まってきた。
鋭い視線が注がれる。
「……これ以上は進むなということらしいな」
ユリウスが足をとめると、回廊の向こうから、静々とこちらへやってくる者たちがあった。
白い衣の銀髪の少女たちである。
少女は三人。
王子の前まで来ると、少女たちは立ち止まった。
ユリウスは口の中でつぶやいた。
「私はいい。勘で何とかなる。黄珠、そなたはこの宮殿の中を探れ」
<はい>
霊体のまま、黄珠は王子から離れた。
彼のサークレットに象嵌されている黄色い石がきらりと光を撥ね、王子だけが捉えていた黄珠の気配がふっと消えた。
白い少女の一人がユリウス王子の前にひざまずく。
「ようこそ、朱夏の館へ。お客様をお迎えにあがりました」
「ご苦労」
「眼がお悪いのですね。わたしにお掴まりください」
「……ありがとう」
王子は逆らわずに、少女が差し出した小さな手を取った。
「ダフネ、キタラを弾くのをやめて」
遠くから聞こえてきた歌うような小鳥の声に気づき、青い石の精霊は与えられた部屋の中で、寝椅子から身を起こした。
キタラを抱える銀髪の少女・ダフネは、静かにその場に控えている。
小鳥の声は決して大きくはない。
だが、精霊である彼女の耳は、はっきりとその鳴き声を捉えていた。
「小夜啼鳥ね。……何かが起こったわ」
青珠はなおも耳を澄ませる。
「まさか、ユーリィが……」
「青珠」
窓辺から若い男の声が聞こえた。
振り返った青珠の瞳に映ったのは、開け放たれた窓枠に止まった、真紅の躯に青、黄色、緑と鮮やかな色彩で身を飾った一キュビットほどの美しい鳥だ。
白い頭に小さな冠羽がある。
「彩羽。どうしてここへ?」
淡々と青珠は問うた。
極彩色の鳥は彩羽であった。
姿は鳥だが、緑の眼は鳥のものではなく、人間のそれである。
「ユリウスが来た」
「!」
「今、ファティマ様と一緒にいる」
「……なぜ、それをわたしに伝えに来たの?」
彩羽はもどかしそうに頭を振った。
そんな鳥の嘴から滑らかに流れるのは人間の男の声だ。
「解らん。だが、おまえたちなら、あるいは──」
彩羽を部屋に招き入れた青珠は、立ち上がって窓を閉めた。
「ダフネ。しばらく、控えの間に下がっていて」
「はい、青珠様」
キタラを持ったダフネが一礼して、その場を去る。
白い少女が扉の向こうに消えるのを確認してから、青珠は彩羽を見た。
「──ファティマを、裏切るの?」
「裏切る?」
そわそわと彩羽は視線を彷徨わせた。
「何をもって裏切るというんだ?」
テーブルの上に乗った美しい鳥の緑の眼が、白い麻のキトンをまとった青い石の精霊を睨めつけた。
「おれは人の姿に戻りたいんだ。ファティマ様への想いなど苦しいだけだ。そんな執着は断ち切ってしまいたい」
「……」
青珠は静かに椅子を引き寄せ、彩羽と対座した。
「おまえも見ただろう。ユリウスを襲った大鷲たちが死んで人間の姿に戻ったのを。この館にいる男たちは、死ななければ人間に戻ることができない。飼い殺しにされ、一生をファティマ様の奴隷として生きるしかない」
「あなたは人の姿でわたしの前に現れたわ」
「外の世界では人間に戻れん。この館でのみ、夜間だけ人間の姿に戻れる。ファティマ様のお相手をしなくちゃならんからな。ファティマ様は人間の男たちの精気を糧とする魔女だ。おれたちはファティマ様のコレクションであり、生き餌なんだ」
彩羽は苛々と躯を揺らし、赤い翼を広げたり閉じたりした。
「自分が人間だという意識を失った者も多い。だが、おれは人間だ。人間に戻りたいと願ったところで、ファティマ様を裏切ることにはならんだろう」
「どうかしら。ただ、ファティマの術はファティマにしか解けないのでは?」
「だから、天と地の御子の力にすがりたいんだ」
青珠はじっと彩羽の白い顔を見つめた。
「天の御子と地の御子がそろうとき、至高の力が生まれるという伝承がある。新たなる永遠の生命を授かれるとな。ファティマ様が欲しがっているのは、天地のユリウスのその力だ」
「天の御子と地の御子……」
彼女は記憶を探った。
それは妖霊星と関連のある言い伝えではなかっただろうか。
「その御子の一人が、わたしの主のユーリィだというのね?」
「ファティマ様がそう確信している。だったら、それは真実だ」
長い睫毛を伏せ、青珠は少し考えていたが、青く澄んだ瞳を極彩色の鳥に向け、静かな口調で言った。
「彩羽。その話を詳しく聞かせてちょうだい」
小夜啼鳥の声はもう聞こえない。
青珠は彩羽の語る伝承に耳を傾けた。
2020.2.14.