ユリウス、二人

3.

 大いなる沈黙の時代を経て、妖霊星の輝きのもと、今宵、天と地の門が開かれん
 天の門より天の御子、遣わされし 地の門より地の御子、遣わされし
 その者たち、人の姿を借りて、この世の大地に生まれいづる

 その伝承は青珠も耳にしたことがある。
 ただ、天と地の門から遣わされた御子という存在と、ユリウスの存在とを関連付けて考えてみたことはなかった。
 石に宿る精霊は、基本的に、守るべき宝珠とその持ち主にしか関心を示さないものだ。世界の動静そのものにはそれほど興味がない。青い石の精霊もまたそうであった。
 その他にも天と地の御子にまつわる伝承はあるのだと彩羽は言った。

 陰と陽と、ふたつの魂魄がそろうとき、至高の魂と力が生まれる
 それは永遠という名の力──
 天の御子と地の御子の魂を得よ
 人ならぬ身に、永遠の生命を授かりたくば──

「永遠という力……」
 ふと青珠がつぶやく。
 それが朱夏の目的ならば、千年を生きているとはいえ、朱夏の魔女は決して不老不死ではないということだ。
 そして、時を同じくして、巡礼のユリウスもまた、朱夏の魔女その人から同じ伝承を聞かされていた。

* * *

 朱夏の館の広い客間は、金や銀、宝石などをふんだんに散りばめた調度品で飾られた豪華な部屋であった。
 夏の避暑の離宮らしく、広間の中央には清らかな水を湛えた大きな水盤があり、その縁には真珠を散りばめた黄金作りの小鳥がとまって、涼しげに口から澄んだ水を噴き出していた。格子窓の外は緑の庭園が臨め、低いテーブルには幾種類もの果物や飲み物が贅沢に並べられている。
 朱夏の魔女・ファティマとテーブルをはさみ、対座するユリウスの表情は硬い。
 たくさんの絹のクッションに埋もれるように低い長椅子にゆったりと腰掛けるファティマは、薄く微笑した。
「果物は口に合わぬか? この館に肉を食す者はおらぬが、鳥肉なら手に入るぞ。庭にたくさんいる」
「あいにく、人間を食する趣味はない」
 からかうようなファティマの言葉にユリウスはそっけなく吐き捨てた。
「それより、青い石はどこだ。僕がここに来れば、約束とやらは果たされたんじゃないのか?」
「そう急かさずとも、時間はある。最後の晩餐を楽しんではどうじゃ?」
「最後?」
 ユリウスは美しく眉をひそめた。
「目的は僕の生命か? 僕を殺して、おまえに何の得があるというんだ」
 ファティマは優雅に葡萄酒のゴブレットを手に取り、品よく口をつけた。
「何を聞いていたのじゃ、ユリウス。必要なのは天の御子と地の御子の魂じゃ。そなたたちの生命ではない」
「天地の御子とか、門とか、そんなものは僕には関係ない」
 そう言ったとき、ふと彼の脳裏に、霊峰群で出会った老魔道師の言葉が浮かんだ。
「……“妖霊星が輝く夜、天の門と地の門はひそやかに口を開ける”」
 碧い眼を伏せ、その言葉をつぶやいたユリウスの顔を、ファティマが琥珀の瞳でじっと凝視している。
 ユリウスはその続きを思い出そうとした。
 いにしえの文献に残された言葉を、禁断の呪文のように唱えていた天狼師という名の老魔道師は、その二つの門から出現した人物を探していると言っていた。
 ファティマが求めるのも、同一の人物なのだろうか。
「妖霊星を覚えておろう?」
 と、ファティマがささやく。
「それはそなたの脳に刻み込まれているはず。この世に誕生して、そなたが最初に見たものじゃ」
「“見た”──?」
 何かぞっとするものを感じ、おうむ返しにユリウスは問うた。
「妖霊星の記憶はある。だが、それはあくまでも夢で見た映像だ」
「いや、ユリウス。そなたはなぜ妖霊星が顕現した夜に生まれたのか解っておるのか? あれはただの箒星ではない。妖霊星こそが“天の門”だとなぜ気づかぬ」
「そうだとしても、僕が見たのは──
「夢だと思い込んでいるだけじゃ。それはそなたがこの世に生を享けたときの記憶。地の門より遣わされた地の御子がこの世で最初に見たもの、それが天の門じゃ」
「……」
 ユリウスは言葉を失った。
 目の前の美しい女性が何を言っているのか理解できなかった。
「わらわも見た。二十年近く前のあの夜、この館の水鏡にも、地上の妖霊星の姿が映し出された。千年前の予言の通りに」
 ファティマが静かにゴブレットをテーブルに戻す。
 しばし訪れた静寂の中で、噴水の水音が涼しげに響いている。
 そして、第三の人物の声がした。
「“千年の後、沈黙の封印は解かれる。封印の解かれた世を正すため、我は天の門から天の御子を、地の門から地の御子をこの世に送り出すだろう。二つの門は目には見えぬ。妖霊星が輝く夜、天の門と地の門はひそやかに口を開けるのだ”」
 やわらかな心地のいい声が、天狼師が口にしたのと同じ文言を誦した。
 声のほうを振り向くと、開かれた扉から入ってきたらしい亜麻色の髪の青年が、銀髪の少女に手を引かれ、テーブルに近づいてくるところだった。彼は眼を閉じている。
「王子」
 巡礼のユリウスは腰を浮かしかけたが、すぐに無駄なことと気づき、また腰を下ろした。
「いにしえの賢者、ラウルスの言葉だ」
 ユリウス王子は白い少女に勧められるままに椅子に、巡礼のユリウスの隣に座った。
「よくここまで来たのう、天の御子──レキアテル王国の王子・ユリウスよ」
 椅子に座ったユリウス王子の瞳が開かれる。
「見えるのかえ?」
「……黒いユリウスの眼を借りて」
「では、わらわの顔も見えておるな? わらわはファティマという。朱夏の魔女とも呼ばれる者じゃ」
「私は名乗らなくても、すでにご存じのようですね」
 表情のない翡翠色の瞳を見て、ファティマはくすりと笑う。
「天の御子がレキアテルの王子であることは知っておった。だが、大国レキアテルの王宮深くにいる王子に接触するのは不可能に近いと思うていた」
 そして、蘇芳の髪の美女は己を険しい目付きで見据える黒いユリウスに視線を移した。
「今年は星が動く年。地の御子が天の御子を連れてきてくれて嬉しく思う」
 微笑し、ファティマはユリウス王子のサークレットに象嵌された黄色い石を見た。
「青い石は地の御子のもとに、黄色い石は天の御子のもとにあったか。なるほど、よくできた話じゃ」
「それではあなたは、文献にある天の御子と地の御子が、私と黒いユリウスだと本気で?」
「もちろんじゃ」
 ユリウス王子の静かな声に、ファティマは揚揚と答えた。
「そなたたちの生まれが非常に似ている点を何と考える? 偶然だと思うてか?」
 しなやかに伸ばした白い指で、銀の皿のナツメヤシをつまみ、唇へと持っていく。
 彼女の挙措は一挙手一投足が洗練されていた。
「ユリウスという名にしてもそうじゃ。“ユリウス”には七月という意味もある。これは想像じゃが、呪われた星のもとに生を享けた子の生まれ月を偽る意図で名付けたのではあるまいか」
「……」
「産まれたのは妖霊星が出現した六月ではない、七月なのだと」
 王子の表情が微かに揺れた。
「そう言えば、王家が発表した私の公式の誕生月は七月だ」
「僕は養父母から八月生まれだと教わっていたが……名前をつけたのは彼らではなく、実の母だ」
 それが事実なのか偶然なのかは判らない。
 ナツメヤシを齧るファティマはどこか官能的であった。
「ユリウス王子。偶然ではないと思うたからこそ、そなたはレキアテルの王宮を出て、地のユリウスを探したのであろう?」
「私が千里眼を持っていることもご存じのようですね」
「その千里眼で、ラウルスの名も知ったのか?」
 ファティマの声は何気なかったが、その問いは刃物のように鋭かった。
「大陸に沈黙の封印を施したとされる賢者の名でしょう? 古い文献に彼の名と言葉が記されている。王宮に閉じ込められていた私には時間がたくさんあった。王宮内の書物を片端から読みました。ラウルスの名も、そこで知ったのです」
 王子の見えない眼はわずかに伏せられている。
 硝子玉のような翡翠色の瞳。その眼は全てを見透かしたように澄み切って見えた。
「朱夏の魔女・ファティマ。この館には月桂樹の木があるでしょう?」
 いきなり核心に踏み込んだ王子の言葉に、朱夏の魔女だけでなく巡礼のユリウスもはっとした。
「月桂樹、だと?」
「王子……?」
 ユリウス王子は穏やかに続けた。
「“ユリウス”が七月なら、“ラウルス”は月桂樹だ。あなたの耳飾りも月桂樹の葉を模したものですね。千年を生きる魔女。千年前の賢者。あなたがラウルスですか?」
──!」
 驚いたユリウスが大きく眼を見張ってファティマを見遣ると、彼女も唖然と王子ユリウスを見つめている。
「……これは驚いた。見かけによらず、大胆なことを考えるな」
「私たちを月桂樹の木のところへ案内してください」
「よかろう。饗宴など不要のようじゃ。だが、王子。天のユリウス。わらわはラウルスではない」
「生前のラウルスを知っているのですか?」
 ファティマの美しい顔がふっとゆがみ、彼女はくすくすと笑い出した。
 それはすぐに哄笑と化し、しばらくの間、あでやかな声が天井の高い広間に響いた。
「もちろんじゃ。ラウルスはわらわの育ての父。千年前、わらわを自分たち人間の一族の平穏と引き換えに、金烏帝国の朱羽帝に献上した男じゃ」
「朱羽帝──
 書物や風聞でしか知り得ない名前に黒いユリウスと王子ユリウスは息を呑んだ。
「ラウルスとは本名ではなかったのかもしれない。魔道師としての名かもしれぬし、数ある仮名のひとつかもしれぬ」
 長椅子の中で足を組み、ファティマは長い髪をかきあげた。
 二人のユリウスは微動だにしない。
「どちらにせよ、わらわを魔神に売った男の名じゃ。わらわに千年も死ねぬ運命を課した張本人。父として敬愛していたラウルスに捨てられ、わらわは魔女になった」
 美しい女の顔がゆがむ。
 彼女は泣いていなかった。
 涙を見せず、声を出さず、心の奥で哭いていた。
「わらわはこの千年の生を終わらせたい。魔神の所有物ではなく、一人の人間としての生が欲しい。天と地の二人のユリウスよ。わらわの望みは“朱夏の魔女”を抹殺し、天と地の御子から新たなる生命を得ることじゃ」
 それは嘆きの言葉ではなく、堂々たる宣言であった。
 ユリウスはただ茫然とファティマを見つめていた。
 この傲慢な魔女の望みは平凡な人生を得ること。
 それでも彼は、彼女が何を言っているのか、彼女がどうしたいのか、霧の中を探るようにまるで解らなかった。

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2020.3.21.