ユリウス、二人
4.
「それで?」
朱夏の魔女の独白を静かな声が遮った。
「不幸な過去の記憶を消し去り、二度目の人生を歩みたいと?」
見えないはずのユリウス王子の翡翠色の瞳が美しい女を映している。
女はふと視線を上げて王子を見た。
「ファティマ。どんなに不幸な人生でも、人間の一生はたった一度きりだ。育ての親に裏切られ、朱羽帝のもとへ行った。それがあなたの人生でしょう」
「違う」
ファティマは悩ましげに首を横に振る。
「ならば、なぜ、わらわは戦争でこの館が焼かれたときに死ななかったのじゃ。なぜ、朱羽帝の血を受けて、魔女になぞ──」
(朱羽帝の血……?)
巡礼のユリウスはその言葉にファティマの苦悩を垣間見た気がした。
それらを振り切るようにファティマは大きく首を振って、アーモンド形の眼を一度閉じた。
「朱玉、あれを運ばせよ」
<御意>
火の珠精霊の返答は二人のユリウスには聞こえただろうか。
わずかに眼を伏せている王子ユリウスのサークレットの額の石が、外からの陽光を受け、太陽のように光を弾く。
「ファティマ。新たな生命というものがどのようなものか、私には──たぶん、黒いユリウスにも──判らぬ。それはあなたが思うようなものではないかもしれない」
「生命なら……人としての生命を授かれるなら、それがどんな形でも構わぬ」
「その美貌を失っても?」
「人間であれば男でも女でもよい。醜くとも構わぬ。それは作られたものではなく、自然な形だからじゃ」
「自然な形?」
黒いユリウスが問い返す。
「おまえが僕たちをどこかから遣わされた者だというのなら、おまえだけじゃない、僕たちも自然の存在ではないんじゃないか?」
ファティマは美しい瞳に自らを憐れむような色を浮かべた。
「いや、ユリウス。天地の御子の魂は神が、あるいはラウルスが与えたものだとしても、その姿はそれぞれの母の姿を受け継いでおる。人の子としての自然な形であろう?」
「……」
ユリウス王子が巡礼のユリウスのほうへ顔を向け、巡礼のユリウスもまた、隣に座る王子を見た。
豪華な広間を満たす穏やかな夏の光。
涼しげな噴水の水の波紋。
全てが偽りのこの世界。
ファティマはゴブレットの葡萄酒を飲み干した。
「地のユリウス。わらわと初めて会った日のことを覚えておるか?」
「……ああ。あれは僕の七歳の誕生日だった」
「そう。夏至の日じゃ」
酒壺を抱えた白い少女が静々とやってきて、ファティマのゴブレットに葡萄酒をついだ。
「夏至は、精霊や妖精、妖霊の霊力や妖力が最も高まる日。わらわが地上に出られるのは一年でその日だけ──」
「魔女だから……ですか?」
王子ユリウスが問うた。
「大陸に沈黙の封印が施されて以降、魔人や魔物は眠りに就き、地上には出られぬという。ファティマ、あなたは魔人なのですか?」
「違う」
彼女は即答した。
「わらわは人間であったはずじゃ。しかし、そうではなかった。わらわには最初から魂がない。その上に炎魔神・ヴァルクの血を受けたため、魔に属する存在となってしもうた」
「……」
魔神の血を持つ身では沈黙の封印が施された大陸に生きることはできない。
だから、地下の異空間に常夏の地を移した。
ただ、年に一日、夏至の日だけは、高まる妖霊たちの霊力に紛れて己も地上に出ることができるのだと、そうファティマは二人のユリウスに語った。
「死ぬためには魂が必要であろう?」
彼女はふっと嗤う。
「ゆえに、わらわは死ねぬ」
自らを憐れむような、嘲るような、ファティマの琥珀色の瞳は哀しげだ。
黒いユリウスは、先程から感じていた違和感を口にした。
「ファティマ、おまえの望みは生きることか? それとも死ぬことなのか?」
口にしてみれば、彼女の望んでいるものは生でも死でもないと直感した。
ユリウスが感じたのは、痛々しいほどの彼女の孤独とプライドだ。
千年の刻。
それでは、彼女が真に欲するものとは何か。
朱夏の魔女から受けるこの痛ましさの正体はいったい何なのか。
「朱夏」
扉の向こうから、炎を思わせる赤い髪の小柄な少年がやってきた。
白い膝丈のキトンにクリーム色のクラミュスという出で立ちである。
「紅珠」
つぶやくユリウスの声に、王子が瞳を上げた。
「彼が、赤い石の精霊……」
葡萄酒色の紅珠の瞳が尊大な眼差しで、黒いユリウスと王子ユリウスを見比べた。
「やあ、地のユリウス。言ったとおりになっただろう? 朱夏の命には逆らえない」
そして、少年は視線を王子に向けた。
「君が天のユリウスか。だが、おれは紅珠じゃない。朱玉という」
「朱玉? ──なぜ」
鋭く黒衣のユリウスが訊き返すと、紅珠は鼻で笑った。
「朱夏に仕えるため、紅珠という名を捨てた。それだけだ」
驚いたユリウスが口を開きかけたが、静々と銀の盆を運んでくる二人の少女の姿がそれを遮る形となった。白い衣の銀髪の少女たちは、ユリウスと王子の前に、それぞれ透き通った水晶のカップをそっと置いた。
「お飲みなさい」
天使のようにファティマが微笑む。
「薔薇水入りのシャーベット水じゃ。地のユリウス。これを飲んだら、青い石をそなたに返そう」
「飲むな、ユリウス」
すぐに王子が言った。
「飲むと、帰れなくなる」
「天のユリウス。そなたにはこの中身が判るのかえ?」
面白そうに視線を投げかけるファティマに、王子は険しい表情を作った。
「別に千里眼で中身が判るわけではありません。私は王宮で何度か暗殺されかけた。毒を盛られたこともある。その種のことには勘が働きます」
じっとシャーベット水を見つめる巡礼のユリウスに、王子は見えない眼差しを送る。
「ユリウス、君もそうだろう? 毒だと解って、飲む必要はない」
す、とユリウスの指が水晶のカップに触れた。
「ユリウス!」
王子が厳しい声を出したが、ユリウスはじっとシャーベット水を見つめたままだ。その視線を、彼はすっと美しい女に向けた。
「ファティマ、青い石を返すのが先だ。そうしたら、飲む」
「ユリウス……!」
「ただし、王子には飲ませない。もともとユリウス王子には関わりのない話だろう」
妖しい光を湛える琥珀色の瞳が、問うようにからかうように見開かれた。
「ユリウス王子は天の御子じゃ。無関係ではあるまい」
「それでも」
と、ユリウスは続ける。
「おまえの言う“約束”は、僕がこの館へ来ること。ユリウス王子を無傷で地上に返すなら、僕はこのシャーベット水を飲もう」
「ふふ、ふ……」
ファティマはくすくすと笑った。
「よかろう。だが、青い石を返すのは、そなたがそれを飲むのを見届けてからじゃ。天のユリウスが地上へ帰れるか否かはわらわの胸ひとつだぞ?」
「ユリウス!」
王子が身を乗り出した。
「待て、ファティマ。あなたが欲しいのは、天の御子と地の御子、その二つの魂ではないのですか」
「健気じゃのう、二人とも。それでこそ御子じゃ。けれど、わらわは魔女。地の御子の魂だけでも新たな生命を得られる」
「どのようにして──」
「おれが天の御子の代わりになる」
朱夏の背後に控える紅珠がさらりと言い、ユリウス王子は見えない眼を大きく見張った。
蘇芳の髪の美女は薄く笑う。
「そう、最初からそのつもりじゃ。地のユリウスのみを手に入れ、赤い石の精霊の力を天の御子の魂の代わりに使うつもりであった」
「そんなことが、できるのですか──?」
「四宝珠は、赤い石と緑の石が上下に、青い石と黄色い石が左右に対となって自然界の四大元素の核たる均衡を保っている」
それは巡礼のユリウスも知っていた。
ファティマは厳かに言葉を続けた。
「天と地の御子もまた、上下の対となる。地の御子は地の宝珠・翠珠の力に匹敵し、天の御子は、天の光を象徴する火の宝珠の力に匹敵する」
「天の御子の代わりに紅珠を使う……?」
「だから、君はいなくてもいいんだよ、天のユリウス」
赤い石の精霊が勝ち誇ったような口調で言った。
黒いユリウスは冷厳な瞳でファティマを見つめる。
「僕には魔術は通用しない」
「それが朱夏の魔女の魔術でも? ──試してみるがよい」
自信たっぷりな魔女のあでやかな笑みを見て、ユリウスはシャーベット水の入った水晶のカップを持ち上げようとした。
「ユリウス……!」
王子が制止しようとする。
次の刹那、鋭い風が大気を裂いた。
パシャン──! パリンッ!
ユリウスが手を触れていたカップの中のシャーベット水が爆発したようにあふれて飛び散り、大気に四散する。そして、王子ユリウスの前に置かれたカップは、横一文字に斬られ、風に巻かれて中身がこぼれた。
はっとしたファティマ、そして紅珠が、風が運んだ淡い気配に振り向くと、広間の中央にある水盤の向こうに、楚々とした蒼い髪の娘がふわりと降り立つところであった。
「駄目よ、ユーリィ。それは忘却の川・レーテーの水。いくらあなたでも、飲んだら無事ではいられない」
「青珠──!」
思わず立ち上がったユリウスが叫ぶ。
そこに出現したのは、白い麻のキトンをまとった青い石の精霊だった。
「それにベラドンナの香りがする」
と、青珠は続けた。
「そのシャーベット水を飲めば、仮死状態になる。そうね、ファティマ? ベラドンナの量如何によっては、魂が肉体から剥離する」
「青珠! なぜ、霊体でここへ──青い石は封じて……」
愕然とする紅珠の前に、花びらのような羅をまとった優美な娘がふわりと現れた。
「青い石はここに」
黄色い石の精霊・黄珠だ。
黄珠が掲げた手に、紺瑠璃の石が象嵌された優雅な燻し銀の耳飾りがあった。
言うまでもない、巡礼のユリウスの耳飾りだ。
黒いユリウスのシャーベット水を噴出させたのは青珠、王子ユリウスの水晶のカップを斬ったのは黄珠であった。
2020.4.19.