ユリウス、二人
5.
赤い石の精霊がさっと右手を突き出すと、その指先から炎が迸り、黄色い石の精霊を襲う。黄珠は素早く空中に退き、右手をひと振りして、風で炎を防御した。
炎を退けられ、紅珠が悔しげに舌打ちをする。
「珠精霊同士で争っても決着はつかない。赤い石の精霊が最強の珠精霊といえど、その名は紅珠。“朱玉”ではない」
淡々と無表情に言った黄珠は、青珠の傍らに降り立ち、彼女に青い石を象嵌した耳飾りを渡した。青珠は受け取った耳飾りのフックを白い衣の布地に通して胸元に取り付けた。
ファティマが長椅子から立ち上がり、短い金髪の巻き毛の精霊を鋭く見遣る。
「黄色い石の精霊──黄珠か。そなたが青い石の封印を解いたのか?」
「封印の匣に刻まれていたのは水を封じる火の呪文でした。青い石が水の宝珠であることを意識したのでしょうが、わたしは風の宝珠の精霊。水を封じる呪文は、わたしには効果がありません」
「匣の場所はどうやって知った?」
「案内してもらいました。“人形”たちに知能はない。あなたがそう作ったのでしょう? 言霊で操るのは簡単でした」
ファティマは大きく眼を見張る。
「操った? そなたが、“人形”たちを?」
「“わらわはファティマ”。その言葉が言霊となり、彼女たちはわたしをあなただと誤認識しました」
唖然とする美しい魔女を黄珠は見つめた。
「朱夏の魔女。あなたは相手を“名前”という言霊で縛り、操っているようですね。でも珠精霊は、何の条件もなく言霊を使えます」
「だが……わらわが“人形”たちを縛る力以上の言霊であれらを操ったというのか──?」
拳を握りしめる紅珠が悔しそうに口を開いた。
「──黄色い石は風の宝珠。風の力の根源は言葉だ。珠精霊の言葉には暗示の作用があるが、黄珠のそれは、他の珠精霊よりずっと強力な言霊になる。……迂闊だった」
そうとは知らなかったのだろう。呆気にとられたように、ファティマは紅珠を振り返り、ただ見つめた。
「油断したわね、ファティマ。黄珠の存在を甘く見ていたあなた方の負けよ」
青珠の声にはっと我に返ったファティマは、解放された青い石の精霊と新たに現れた黄色い石の精霊を鋭く睨めつけ、右手を上げて、張りつめた声で叫んだ。
「鳥たち──! 皆、これへ!」
朱夏の館に鳥はどのくらいいるのだろう。
羽ばたきは嵐のように訪れた。
さらりと黒い衣の衣擦れの音も妖しく、ファティマは怒りの眼差しで精霊たちとの間合いをはかる。
「確かに、“人形”には知能はない。だが、鳥たちはどうじゃ?」
急に夜が訪れたように窓の外が影で覆われ、大きな音とともにあちこちの窓が破壊された。数えきれない数の翼が風を切り、翼の音と風の音が広間の中に木霊する。音は天井の高い空間にあって反響し、わだかまった。
豪華な客間の調度品は壊され、テーブルの上に整然と並べられていた果実や食器がむごたらしく散乱する。
ユリウスは目の見えない王子をかばうように、剣に手を掛け、身構えた。
王子は眼を閉じていた。
「黄珠」
「はい、王子」
ユリウス王子の呼びかけに黄珠がうなずく。
鳥たちが群れる室内に、長い蘇芳の髪をなびかせて立つファティマは女神のようだ。
ファティマが招き寄せ、窓から館の中へ乱入した大小の鳥たちが、二人のユリウスと二人の精霊を幾重にも取り囲む。
包囲され、青珠と黄珠はふわりと姿を消し、霊体になった。
紅珠が二人のユリウスを拘束しようと炎を放つが、風を操る黄珠の力で、またしても攻撃を阻まれた。
黒衣のユリウスは注意深く辺りの様子を窺う。──ファティマ。紅珠。猛禽類を中心にした鳥たちの群れ。その鳥たちの羽ばたく音、啼き声。
その他にあちこちに倒れ伏した人間の兵士の姿が見える。
どす黒い血溜まりがいくつも見える。
無惨に破壊された室内の至る所に上がる火の手。
崩れ落ちた高い天井。
ユリウスは小さく首を振り、眼を細め、眉をひそめた。
そこにあるはずのない映像が、現実の光景の上に重なって見える。
(これはこの館の過去の姿か? ──いや、本来の姿か)
強い一陣の風が広間の中を駆け抜けた。
その風に触れた鳥は、一瞬にして斬られ、血飛沫とともに次々と大理石の床に落下する。残りの鳥たちは、警戒の色を濃くし、二人のユリウスから距離を取った。
「ガラテイア! 急ぎ、弓矢をもて」
「はい」
白い少女の一人が小走りに広間を出ていった。
<王子、ユリウス殿。風で防御壁を作り、道を確保しました>
<ユーリィ、この館に樹齢千年以上の月桂樹がある。それが真実のファティマよ。先にそこへ行っているわ>
精霊の声が聞こえた。
「青珠……!」
<月桂樹のもとまで、彩羽が案内するわ>
「彩羽?」
驚愕したのは朱夏の魔女・ファティマだ。
「彩羽、そこで何をしておる!」
ファティマの視線の先にある空間が、きらきらとモザイク状の赤い色彩にゆがむ。
赤い色彩は、次第に鳥の輪郭を現していった。
真紅の躯、鶸色の小さな冠羽を載せた白い頭、嘴の下は鮮やかな青で、尾羽は黄色と緑──現れたのは極彩色の羽を持つ美しい一羽の鳥であった。
「ユリウス、おれについてこい」
鳥は聞き覚えのある男の声で言い、翼を広げた。
黒いユリウスが眼を見張る。
「万華鏡の術……! だから、僕には彩羽の姿が見えなかったのか」
そして、それはただの魔道師ではなく、朱夏の魔女が掛けた術だったからでもあろう。
「万華鏡の術?」
問いかける王子にユリウスが答えた。
「魔導師が身を隠す際によく使う術だ。空間をモザイクのようにゆがませ、自分の気配や姿をそこに溶け込ませる。鳥たちには役割があるようだ。猛禽は兵士、彩羽は斥候用の鳥なんだろう」
黄珠が作った風の壁のせいで、鳥たちは二人のユリウスに近づけない。
ガラテイアが弓矢を持って戻ると、ファティマは自らの髪を一本切り、受け取った矢にそれを巻き付けた。
「朱玉、炎を!」
赤い石の精霊が主に向かって風に乗せた小さな火を運ぶと、彼女はその火を鏃に点した。
弓に矢をつがえ、大きく引き絞り、地のユリウスを狙い、放つ。
堂々たる動きであった。
朱夏の放った火のついた矢は、眼に見えない風の壁に突き立った。
ぴりっと空気が引きつる。
黄珠の作った風の防御壁に亀裂が入り、じりじりと火の精霊の炎が風を侵食していく。
凄まじい風の音がした。
鏃に点った炎が一直線に矢を焼き、矢に巻き付いたファティマの髪も燃す。そのとき、風が作る真空の刃が炎の矢を粉々に粉砕し、それと同時に風の防御壁に穴があいた。
その破壊された箇所から、鳥たちが次々と防御の内側へと流れ込む。
巡礼のユリウスは王子の手を取った。
「王子。僕の眼を使って走れるか?」
「大丈夫。先程、黄珠の眼を借りた」
そう言って閉じていた瞼をゆっくりと開いた王子の眼の色は、翡翠色ではなく、黄色い石の精霊の眼と同じ、蜜蝋色であった。
ユリウスはうなずく。
「先に行け。彩羽について走るんだ。背後は僕に任せて……!」
すらりと剣を抜いたユリウスは、背後から襲ってくる鳥たちに刃を振るう。風に守られた空間を、羽ばたき、広間を出ようとする彩羽のあとを、王子ユリウスは追った。
「朱玉、先回りせよ!」
紅珠が霊体になる。
精霊に指示を出す朱夏の魔女と、鳥たちを牽制する黒いユリウスの目が合った。彫像のような美貌のファティマの視線がユリウスの碧い瞳をまっすぐに射抜く。
その瞳の光に畏怖のようなものを感じ、そのとき、彼は直感した。
ユリウスが本能的に恐れたのは、彼女の中に流れる魔神の血だ。
見る者に畏怖を与えるもの、それは千年以上も前、大陸を支配していた魔神の持つ圧倒的な“力”なのだ。
「くっ……!」
彼は髪に巻いている黒い布を左手で解くと、迫り来る大鷹の前にそれを広げ、視界を奪った。行く手を黒い布に遮られた鳥たちは、そのまま剣の餌食となった。
裂かれた黒い布切れとともに血と羽が空中に舞う。
鳥たちが怯んだ隙を突いて、ユリウスは踵を返して走り出した。
彩羽と王子ユリウスが向かった先へと。
星が動く。
それは二人の御子のことのみではなく、ファティマ自身にも降りかかる運命なのか。
千年もの間、ほぼ変化のなかった常夏の地を初めて訪れた変動──それは、最初で最後の審判であった。
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2020.5.6.