朱玉
1.
大陸暦一〇〇〇年、六月。
それは、大気を、大地を、世界をも震撼させる激しい嵐であった。
嵐は、地上の終末のように、十の朝と十の昼、そして十の夜を吹き荒れた。
やがて夜が十一日目を数え、大地がようやく静けさを取り戻したとき、常夏の地に住むファティマは、朱夏の館の水鏡の中に映し出された澄み渡る夜空に、輝くひとつの妖霊星を見た。
大いなる沈黙の時代を経て、妖霊星の輝きのもと、今宵、天と地の門が開かれん
天の門より天の御子、遣わされし 地の門より地の御子、遣わされし
その者たち、人の姿を借りて、この世の大地に生まれいずる
伝承の通りだとファティマは思った。
天の門は妖霊星の輝きの中に。
地の門はアウネリア湖に映る妖霊星の影の中に。
天の門からは大気にいだかれた天の御子が、地の門からは水にいだかれた地の御子が、それぞれの魂が降臨し、母となる女人の胎内に宿る生命に融合する。
常夏の地の夜空は美しく晴れていた。
濃い藍色の空の下にそびえる丸い屋根の白亜の宮殿。
その庭園に伸びる人工の川の水面に、地上の妖霊星の姿が恐ろしいほど美しく輝いていた。
不気味なほど静まり返ったこの夜。
二つの赤子の声がファティマの鼓膜を震わせた。
地上で、二人の男児が誕生したことをファティマは知った。
* * *
朱羽暦三二〇年。
俗に四魔神と呼ばれる四人の魔神たちが支配する大陸の、霊峰群と呼ばれる山脈の山村に、蘇芳の髪と琥珀の瞳を持つ、絶世の美少女がいた。
名をファティマという。
十五歳の彼女には記憶がなかった。
親は父だけで母はいない。
なぜ母がいないのかと父に問うたら、父は独り身だからだと答えた。
彼は実の父ではなく、養父だった。
学者だという父は博学だった。
村人たちから先生と慕われるその父から、ファティマは歴史や文学、音楽、礼儀作法などを教わった。
村の人々はファティマに親切だったが、遠巻きに彼女を眺めていることが多かった。
それでも彼女の毎日は平和だった。
厳しい山村の生活の中にあっても、彼女は悲しみや苦しみ、怒りの感情を知らずに暮らしていた。
朱羽暦三二三年。
十八歳のファティマは父・ラウルスに連れられ、霊峰群を下りた。
向かったのは金烏帝国の朱羽帝・ヴァルクが住まう宮殿である。
初めての町に、そのきらびやかな大きな宮殿に、ファティマは驚きの目を向けた。
おまえもこの宮殿に住むのだと父は言った。
独り立ちの記念として、父から月桂樹の葉を模した赤銅の耳飾りを贈られ、ファティマは朱羽帝・ヴァルクの妃の一人となった。
ただ楽しく過ごせばよい。
そうラウルスはファティマに言った。
思うとおりに振る舞っていればよい、いつでも遠くから見守っているからと。
ヴァルクの宮殿に来て、彼女は初めて自分が美しいということを知った。
朱羽暦三二四年。
ファティマは金烏帝国の朱羽帝・ヴァルクの寵姫として知られるようになった。
そして、この頃から、大陸の四つの帝国の間に不穏な空気が流れる。
四人の魔神が治める四つの帝国の民は、主に魔人と称される魔力を持つ人間たちである。魔力を持たぬただの人間は虐げられ、奴隷とされることが多い。
そしてその上に、魔神と呼ばれる異形の魔族が君臨していた。
魔人とただの人間は、外見だけでは区別がつかないが、魔神たちはその姿に獣の要素が混じり、大柄で、寿命も人間たちよりずっと長い。
炎魔神と呼ばれる炎を操る魔神族に属する朱羽帝・ヴァルクは、蝙蝠の翼を有する壮年の皇帝だった。
ヴァルクは、人間でありながら女神の如き美しさを誇り、少女の純真さを持つファティマを寵愛した。他国を訪れるときや、四大帝国の皇帝の間での会合などにも、朱羽帝は必ずファティマを伴った。
朱羽帝がそこまで寵愛するその麗しい人間の娘に、他の皇帝たちが強い関心を抱いても不思議ではない。ファティマのために四つの帝国のあちこちで饗宴が開かれた。
魔神たちにとって、ファティマはさえずる小鳥、生きた至高の宝石だった。
だが、美しさは羨望や憧れとともに妬みや憎しみの対象ともなる。魔神の寵姫がただの人間であることをよく思わない輩は宮殿の内外に常にいた。
そんな敵意の目からファティマを守るため、朱羽帝は彼女のために夏の離宮を建てた。
朱夏の館と名付けられたその離宮は、緑に囲まれた白亜の美しい宮殿だった。ファティマをそこに移した朱羽帝は、自らも朱夏の館に入り浸りになる。
政を顧みず、ファティマとの享楽に溺れ、知らぬ間に、ファティマは朱羽帝の妃たちを始め、側近たちの憎しみを一身に受けることとなっていた。
また、玉兎帝国の双角帝と太白帝国の青鱗帝がファティマに執心し、密かに彼女を自国に招き寄せようとした。
無邪気さゆえに、それに応じようとしたファティマに、朱羽帝が激怒したことも一度や二度ではない。天狼帝国の黒牙帝だけは、そんな皇帝たちの様子を冷めた目で見ていた。
皇帝たちの関係に亀裂が生じ、金烏帝国の中からは不満の声が次第に大きくなっていく。
その年の暮れ、四大帝国の間で戦争が勃発した。
朱羽暦三二五年。
戦火を逃れ、朱羽帝はファティマを朱夏の館に避難させ、厳重に守りを固めた。
大陸のあちこちで戦の火の手が上がったが、朱夏の館だけは平和な地上の楽園だった。
朱羽暦三二九年。
戦に乗じ、朱羽帝に叛旗を翻した金烏帝国の近衛軍が朱夏の館を襲撃。館は炎上する。
朱羽帝、憤死。
この日を境に朱羽帝の宝珠である赤い石は行方知れずとなる。
その後、三〇年戦争と呼ばれる戦の中、四つの帝国は徐々に秩序を失っていき、皇帝は次々と生命を落とした。彼らは自分の命運が尽きる前に、所有する宝珠を他の者に奪われぬよう、秘密裏に隠した。
四つの宝珠は四大帝国の皇帝としての権力の象徴であり、彼らはこれを他者が持つことをよしとしなかったのだ。
ファティマは老いず、死ねず、常夏の地と地上の間を彷徨う魔女となった。
彼女の生きる時間を止めたのは、朱羽帝の生き血であった。
朱羽暦三五五年。
戦争が終結し、四魔神が治めていた四大帝国が滅亡。
大陸に“沈黙の封印”が施されたと伝わるこの年が、大陸暦元年となる。
大陸暦一〇〇〇年。
十日間の激しい嵐のあと、妖霊星が顕現する。
大陸暦一〇〇七年。
天と地の御子の所在を探り当てたファティマは、その年の夏至の日、地上にて地の御子に会う。
七歳の地の御子は、己の力を自覚しておらず、自ら力を封じていたふしがある。
このまま地の御子を刻の止まった常夏の地に連れていっても、御子がその力に目覚めることは難しいと考え、ファティマは御子に一年後の再会を約束させた。
大陸暦一〇〇八年。
夏至の日、ファティマは約束通り、地の御子を迎えに地上におもむいた。
だが、八歳になった地の御子はすでに姿をくらませていた。
* * *
朱羽暦三二九年、夏。
朱夏の館が炎上した。
最後まで大陸の戦禍とは無縁だった夏の離宮を襲ったのは、金烏帝国の近衛軍だった。ファティマに対する怨嗟の声が朱夏の館を包み込む。
朱夏の館には、ちょうど、戦の指揮で手傷を負った朱羽帝が治療のために滞在していた。
近衛軍はその朱羽帝にまで牙を剥いた。
他の帝国との戦争に便乗した、これは事実上の叛乱である。
無邪気さは無知でもあった。
ファティマはなぜこれほどの悪意を向けられるのか理解できない。そして、ここまで己を愛し、庇護してきた朱羽帝の心変わりも信じられなかった。
皇帝を守るべき近衛の兵たちに重傷を負わされた炎魔神は、死に瀕し、ファティマを傾国の魔女と見做す周囲の声を信じ始めた。
「……余を堕落させ、破滅させるため、おまえは余のもとへ参ったのか」
ファティマは何も知らない。
「余を裏切ったのか、ファティマ」
「違います……!」
「おまえは人間どもが余を葬るために寄こした刺客なのか」
「違います、陛下!」
彼女はただ、父に言われるまま朱羽帝の妃の一人になっただけだ。
戦場と化した朱夏の館の中を、恐怖に駆られ、逃げるファティマを、黄金の王笏と金の盃を手にした朱羽帝は最後の力を振り絞って追いかけた。優雅な宮殿は見る影もなく破壊され、あちこちに火の手が上がり、力尽きた兵士たちが倒れ伏している。
ファティマは広間の隅に追いつめられた。
幾度も血溜まりに足を取られて転び、瓦礫で腕や足を切ったので、サンダルは脱げ、彼女の優美な衣裳も手足も血に染まっていた。
(お父様──!)
どうしてこんなことになったのか解らない。
追ってきた朱羽帝は美しい女を呪った。
「この王笏に誓って! 無実ならこれを飲め。余の──炎魔神の血じゃ」
瀕死の朱羽帝が突きつける盃を受け取り、言われるままにそれを飲み干す。
「っ!」
途端に焼けつくような激しい痛みが全身を貫き、ファティマは血を吐いた。
息を詰まらせ、崩れ落ちるファティマを見つめ、唇をゆがめた朱羽帝はふらふらとその場に膝をついた。
「魔神の血は毒じゃ。人間なら、これを飲めば炎に焼かれる苦しみを味わい、絶命する」
鉄のにおいにむせ、苦しみもがくファティマへとそろそろと手を伸ばした朱羽帝の、その手から、赤い石を象嵌した黄金の王笏が滑り落ちた。
「余はおまえを愛していた。いや、今もなお愛している。──冥途の供をせよ」
そして、ヴァルクは事切れた。
2020.5.15.