朱玉
2.
残照が白亜の館を美しく照らし出す。
鳥たちの群れを牽制しつつ、回廊を駆け抜けた黒衣のユリウスは、宮殿の別棟に入った途端、息を呑んで立ち止まった。
何かのイメージが脳内に流れ込んでくる。
別棟の広間は天井が高く、一部が硝子の天窓になっており、細長い広間の中央に堂々たる大樹が茂っている。
室内にはおびただしい数の扉があった。
その扉のひとつに王子ユリウスが手を当てて、立ちすくんでいた。
(何だ、これは──)
脳裏を映像が駆け巡る。
それは美しい女のうたかたの物語だった。
(これは王子の千里眼の力?)
「ユリウス」
王子が言った。
「君にも見えているね? これらの部屋の中には過去の時間が収められている。おそらく、これは朱夏の魔女の記憶だ」
心に脳に、直接流れ込んでくる映像は、十数秒にして千年を遡った。
丸い硝子の天窓から茜色の残光を受ける巨大な月桂樹が、黄金色に輝き、美しい。
眩暈を覚え、剣を鞘に収めたユリウスは、淡い色の美しい金髪をかきあげ、軽く頭を振って、眼を閉じた。
* * *
朱羽暦三二九年。
朱羽帝の血の盃を受けたファティマは死ななかった。
焼けつくような激痛とともに大量の血を吐き、一度は仮死状態になりはしたが、しんと静まり返った館の中で、彼女は意識を取り戻した。
崩れた朱夏の館の内部には、あちこちに死した兵士が倒れ伏したままであったが、朱羽帝の遺体はない。
「陛下……?」
血に汚れた姿でそろそろと起き上がろうとするファティマは、大儀そうに辺りを見廻す。
「陛下、どこにおられます」
館は無人であった。
「へえ」
不意に少年の声がした。
「朱羽帝の血を飲んで生きているとは。やはり、人間じゃないんだね」
「?」
そろそろと振り返ると、炎のような赤い髪をした小柄な少年がそこにたたずんでいる。
「わたくしは人間です。それより、戦はどうなったのです? 陛下はどこじゃ」
少年はくすくすと笑った。
「君は何も解ってないね。君が意識を失って、もう五日は経っている。叛乱を起こした近衛軍は朱羽帝の遺体を持って、とっくに首都の宮殿へ戻っていったよ」
「陛下が崩御された……?」
狼狽えるファティマの様子に、少年はなおも可笑しそうに笑った。
「本当に何も解ってない。戦争の原因も、叛乱の原因も君なのに」
「そなたも……そなたも、わらわを魔女だというのか? わらわはただの人間じゃ。わらわが何をしたというのじゃ」
「何もしていない。だから、滑稽なのかな」
少年はふと真顔になった。
「これからどうする? 君は戦争を引き起こした傾国の魔女として、金烏帝国の、いや、大陸全土から憎まれている。死ななかった以上、生きるしかない。どこで生きる?」
ファティマはまだ痛みの残る重い身体で、苦労して立ち上がった。
「父がいる。霊峰群に帰ります。そこがわらわの故郷です」
彼女は己の衣裳や手足にこびり付いた血に目を落とした。それはもう乾ききって変色していた。
「……そなたは?」
ファティマは近づいてきた少年を見て問うた。
「そなたも生き残ったのであろう? 行く当てはあるのか?」
その少年を彼女は幾度か見かけたことはあるが、朱羽帝の側近であるということくらいしか知らなかった。
少年は大きく肩をすくめてみせた。
「君は本当に自分以外のことには興味がなかったんだね。おれを知らないとは」
少年は黄金の王笏を手に持っていた。
「これを持っていくといい。役に立つかもしれないよ」
「それは……! 陛下が最も大事にしていた赤い石を嵌めた王笏ではないか。陛下に返さねばならぬ」
「さっきも言ったろう、朱羽帝はもういない。赤い石の主は死んだんだ」
「……」
「だから、この赤い石を君にあげる。朱羽帝が死出の旅へも連れていこうとした君の生き様を、朱羽帝の代わりにおれが見届ける」
「見届ける? そなたは──」
「おれは紅珠。この赤い石に宿る精霊だよ。君に興味を持った。だから、次の石の主に、ファティマ、君を選ぼう」
そう告げた紅珠は、忠誠の証として、呆然とするファティマの前に片膝をつき、彼女の血に汚れた右手を取って、その手の甲に口づけた。
朱羽暦三三〇年。
赤い石の精霊・紅珠の助けを借りて、戦場を避け、ファティマは霊峰群を訪れた。
父・ラウルスはそこにいなかった。
ファティマは己の記憶にある以前のラウルスが、何年もかけて樫の木で彫像を彫っていたことを知った。
先生はもうこの村へは戻らないだろうと、村の長は言った。
霊峰群の山村で、ラウルスは魔道師であり、ある仕事を完遂するために旅に出たとの情報を得た。
父を探し、ファティマは顔を隠して大陸各地を当て所なく彷徨った。
炎魔神の血の盃を受けたのち、彼女は年を取らなくなった。彼女の時間は朱羽帝が死んだあの日で止まっている。代わりに時々激しい渇きを覚え、人間の血を欲するようになった。
大陸全土が戦火に包まれている今、人間の血は容易く手に入る。
朱羽暦三三一年。
父・ラウルスに近づくため、ファティマは自ら魔道師になることを選んだ。
顔を隠し、素性を隠し、朱夏と名乗り、幾人もの魔道師について厳しい修業を下働きから始め、魔道を極めた。
朱羽暦三四三年。
ファティマは優れた魔道師を輩出してきた魔人の一族が住む島、カルム島へ渡る。
そこで彼女はラウルスを知る魔道師から、ラウルスの仕事は“沈黙の封印”を大陸に施すことだと教えられた。
ラウルスが残した言葉があった。
──千年の後、沈黙の封印は解かれる
神託に従うなら、封印の解かれた世を正すため、我は天の門から天の御子を、地の門から地の御子をこの世に送り出すだろう
天の御子は与える存在、地の御子は育む存在
二つの門は目には見えぬ
妖霊星が輝く夜、天の門と地の門はひそやかに口を開けるのだ──
ファティマは再び父を探す旅に出た。
大陸を包む戦火を逃れてカルム島に滞在していた、ラウルスを知る吟遊詩人が、彼女の旅に同行し、ともにラウルスの軌跡を追ってくれた。
吟遊詩人は妖霊星の伝承を好んで歌った。
大いなる沈黙の時代を経て、妖霊星の輝きのもと、今宵、天と地の門が開かれん
天の門より天の御子、遣わされし 地の門より地の御子、遣わされし
その者たち、人の姿を借りて、この世の大地に生まれいづる
吟遊詩人は、朱羽暦三一六年にも妖霊星が現れたことがあるのだとファティマに言った。
伝説は吟遊詩人たちによって後世に伝えられる。
朱夏という名の顔を隠した女魔道師の伝説も、後に、彼らが大陸に伝えていく。
朱羽暦三四五年。
ラウルスにまつわる噂を集め、ファティマはあるアポロ神殿に辿り着く。
神殿にはラウルスのものとされる手記が残っていた。
太陽神の神木、その聖なる実をして我が傀儡の心臓となす──
陰と陽と、ふたつの魂魄がそろうとき、至高の魂と力が生まれる
それは永遠という名の力──
天の御子と地の御子の魂を得よ
人ならぬ身に、永遠の生命を授かりたくば──
霊峰群の山村でラウルスが彫っていた彫像の意味を悟り、愕然となったファティマは、絶望した。
彼女は吟遊詩人と別れ、その地にとどまることを決めた。
カルム島にて“沈黙の封印”の意味を知った彼女は、己の魔術と紅珠の力で、アポロ神殿の裏の空間に自らの住処を築く。
沈黙の時代が訪れると、魔神の血を持つファティマは大陸で生きることはできない。彼女の住む常夏の地は、炎魔神の血を受け、時間が止まったあの夏の日を閉じ込めた世界であった。
血を嫌うファティマは、人間の血を求める代わりに、人間の精気を糧とするようになる。
見目よい男を誘い、交わり、糧を得た。
やがて、彼女は気に入った男たちを自分の館に招き、記憶を奪って飼うようになった。
天と地の御子の魂を得ることが叶えば己は救われる。そう盲信するファティマは、次に妖霊星の現れる時代まで、魔神の血で生き延び、新たなる生命を得ることを誓った。
赤い石の精霊・紅珠は主をいさめた。
自然に逆らってはならない、それは自然の理に反すると。
だが、ファティマの意地は紅珠を力でねじ伏せた。
「魔女と呼ぶなら呼ぶがよい。本物の魔女になってやろうぞ!」
* * *
ユリウスは閉じていた眼を開けた。
まばたきより少し長いだけの時間だった。
振り返ると、回廊に繋がる広間の入り口に、優美な黒いキトンをまとうファティマが立っていた。
彼女は険しい表情で二人のユリウスを見据えていた。
「わらわの過去は愉快であったか?」
「……」
ファティマを見返す黒いユリウスも、扉に手を当てた王子ユリウスも、ともに言葉を失っていた。
ファティマは漆黒の衣の裾を翻し、広間の中へと足を進めた。
「鳥たちは庭に控えておれ!」
彼女の背後にいた数多の鳥たちが外へと散らばる。
賢者に繋がる月桂樹が天高く茂る細長い広間に、牽制し合う三人の精霊がふわりと姿を現した。
「朱夏……!」
紅珠が何か言いかけたが、片手を振って、ファティマはそれを遮った。その腕にはめた銅の腕輪に象嵌された赤い石が、不穏な空気を切り裂くように鋭く光を撥ねた。
「鳥たちや“人形”たちを名で縛り、傀儡する魔女──か。……ふふふ、憐れであろう?」
傲慢な美しい女は眼を細め、哀しげに己を嘲笑った。
そして屹と眦を鋭くする。
「“人形”はわらわじゃ! わらわは人ではない。最初からラウルスの傀儡じゃ。ラウルスは自分で彫った木の彫像にこの月桂樹の生命を吹き込んだ。それがわらわじゃ。ほほ、ほほほ……! 嗤いたくば嗤えばよい」
ファティマは空虚な笑い声を立てた。
広間に残照が降り注ぐ。
とてつもなく美しい、そしてどうしようもなく哀しい、女の声だった。
2020.5.26.