朱玉
3.
硝子の天窓越しに少しずつ陽光が傾いていく。
光より影が、少しずつ増していく時刻。
月桂樹のもとで、二人のユリウスと精霊たちは、美しい女の嘆きを見つめていた。
「そう、人として親から生まれたのではない。美しいと誉めそやされたが、それも道理。ラウルスがそう作ったのだから」
自らの素性を知ったときのファティマの衝撃は想像に難くない。巡礼のユリウスはその痛ましさを押し隠すように、重苦しい空気の中、わずかに眼を伏せ、低い声で言った。
「……戦争を、引き起こすために?」
「その通り。神々の宴に不和の女神が投げ込んだ黄金の林檎──わらわの存在にはそれくらいの意味しかない」
怒りとも哀しみとも言えぬ激しい色を浮かべたファティマの頬に、長い睫毛が妖しい翳を落とす。
「沈黙の封印のためには、四魔神とその帝国をまず滅ぼす必要があった。人間たちが自分たちの人権のため、束になって戦争を仕掛けようとも魔族に敵うはずがない。魔神たちをいがみ合わせ、共倒れさせるための、わらわは駒じゃ」
「ファティマ様……」
絶句していた彩羽がつぶやいた。
二人のユリウスが見たファティマの過去は見ていないにせよ、朱夏の魔女の独白は、彼を愕然とさせるに充分だった。
ファティマは室内にいた極彩色の鳥に冷たい目を向けた。
「わらわを裏切ってただですむと思うのか、彩羽? そなたはもう少し賢い男かと思うていたが」
「そうじゃない、おれはただ……!」
つかつかと広間の中に歩を進め、ファティマは彩羽に歩み寄る。
黒衣のユリウスは思わず身を引いて彼女に道をあけ、ユリウス王子も扉に当てていた手を戻し、女王のような風格の美女のほうへ向き直った。
「斥候や伝令の任のため、話す力を残したのが間違いだったようじゃな。いらぬ野心じゃ」
彩羽はびくりと身を震わせて、必死に言葉を探した。
「おれは人間に戻りたい……! それだけのことが裏切りですか?」
「浅はかな」
美しい女は冷たく言い放った。
「この館にいた年数を天地の御子の力でなんとかできると思うてか」
「ファティマ様……」
「そなたは人であった頃の己の名すら思い出せまい。もう鳥以外の何ものでもない」
ユリウス王子が、蜜蝋色の瞳で凍りつく美しい鳥を見遣った。
「彩羽とやら。気の毒だが、そなたは人間には戻れないだろう」
「何だと……?」
「ファティマは時間を止めたこの地にそなたたちを住まわせている。人間としてのそなたの寿命はすでに尽きているはずだ。仮に人間に戻れたとしても、その肉体はすでに屍だろう」
「──」
「気の毒だが、どうすることもできない。鳥に変えられたそなたたちに残された道は、この地で朱夏の魔女に殉じるか、地上で鳥として生きていくか、そのどちらかだ」
その言葉が伝える現実に狼狽えたように、彩羽はすがる眼で黒いユリウスを見た。
「ユリウス……!」
「王子が言うなら、他に術はないだろう」
「……っ!」
残酷な応えに、最後の希望を絶たれた彩羽は震え、呆然とした。
はっ! とファティマが嘲りの声を上げる。
「魔神の血が掛けた術じゃ。黒曜公国の君主が黒牙帝の裔というのが事実であれば、魔神の血をひく黒曜公にでもすがるがよい」
「ファティマ様──」
「去ね。二度とわらわの前に現れるな」
「っ!」
冷たい朱夏の瞳に見据えられ、刹那、怯んだ彩羽は、黒いユリウスと王子ユリウスに憎しみの目を向けると、翼を広げ、月桂樹の広間から飛び去っていった。
風が去る。
高い天井の硝子の天窓の向こうに星が瞬き始めていた。
「……沈黙の封印を解いたのはあなた?」
不意に青珠が静かに問うた。
「沈黙の封印が解かれれば、ファティマ、あなたは魔神の血を持つ今の身体で地上に出ることができるわ」
青い石の精霊をちらりと見遣り、ファティマは鼻で笑った。
「笑止。人間になりたいわらわが、どうして沈黙の封印を解くと考える? 目覚めの時代が訪れれば、時代は千年前へと逆行する」
「そして、それはラウルスの意志に背く」
黒いユリウスがつぶやくように言った。
その指摘は的を射ていたようだ。ファティマが屹となる。
再び青珠が口を開いた。
「忘却の川・レーテーの流れをこの地に招いたのは全てを忘れるため?」
青珠を止めようと紅珠が前へ出ようとしたが、そんな紅珠を黄珠が制した。
「あなたはこの地へ連れてきた男たちにレーテーの水を飲ませ、人間だった頃の記憶を消した。その上で新たな名を与え、鳥に変えて支配した。そうね?」
淡々とした青珠の声は清流のように滑らかだ。
「どうして紅珠の名まで封じたの? 紅珠はあなたの使い魔なのに。紅珠の記憶も消したかった?」
静かに言葉を紡ぐ蒼い髪の精霊を、ファティマは炎のような激しい眼差しで睨めつけた。
激情を押し殺すように口を引き結ぶ美しい女は、やがて耐えかねたように表情をゆがませ、憎々しげに言い放った。
「朱玉はわらわを殺そうとした。主たるわらわを。朱玉はわらわの生き様を見届けると言った、それなのに──!」
ファティマの激しい瞳が紅珠に向けられる。
紅珠は唖然と主を見つめた。
「朱夏、おれは……」
「朱玉はわらわを裏切った。誰もがわらわを裏切る。なぜじゃ? わらわが木の人形だから? ──なぜじゃ!」
紅珠は驚愕の表情で、ファティマへ向かって、小刻みに震える手を差し伸べようとした。
そして、ふらふらと彼女に歩み寄る。
「父と信じていたラウルスにとって、わらわは道具でしかなかった。わらわを愛していたはずの朱羽帝はわらわを魔女と信じ、殺そうとした。大陸中の者がわらわを憎む。そして、朱玉まで……!」
悲愴な声に涙が交じり、ファティマは両手で顔を覆うと、激しく首を振った。
波打つ蘇芳の髪が乱れて揺れる。
傲慢な魔女の仮面が剥がれ落ちた。──そのあとには、ただのか弱い女がいた。
「誰が……わらわを愛してくれる? この地に連れてきた何百人の男たちも、誰一人としてわらわ自身を見つめてはくれなかった。わらわは愛欲の対象でしかない」
「……彩羽は」
ぽつりと青珠が言った。
「あなたを愛していると言っていたわ」
「彩羽? あ奴も結局はわらわを裏切ったではないか!」
彼女は叫ぶように吐き捨てた。
愛してほしいという孤独。
それが朱夏の全てだった。
千年の間、彼女が何百人もの男を朱夏の館に攫ってきたのは、孤独を癒してくれる者を求めてのことか。
たった一人でも、彼女に無償の愛を注いでいたら、何かが違っていたのだろうか。
彼女は養父に売られたことや、人間だと偽られたことを恨んでるのではない。彼女を作った生みの親にとって、自分が単なる道具に過ぎなかったことに絶望したのだ。
赤い石の精霊は呆然とファティマを見つめていた。
「おれが朱夏を殺そうとした? なぜ、そんなことをおっしゃるのです。おれは……」
「そなたはわらわに逆らった。それ故、そなたの名を封じた。完全にわらわのしもべにするために」
「……朱夏──」
広間の床に落ちる影が急速に色濃くなっていく。
絶句する紅珠の背後で、黄色い石の精霊がおもむろに言った。
「紅珠。あなたの主の名は?」
驚いて紅珠が振り返る。
「主の名……?」
「そう、赤い石の主の名は?」
「朱夏……だ」
「それは彼女の真の名ではありません。彼女の名は? 紅珠」
張りつめた場がさらに緊迫する。
その場にいる者全てが息をひそめて、紅珠と黄珠を見守った。
ファティマがはっとした。
「黄珠、そなた──」
黄色い石の精霊の言葉は強力な言霊だ。
その言霊を受けて紅珠が言葉を発すれば、それは二乗の魔力を持つ言霊となる。
「封じられている名を解放すれば、あなたの消された記憶も戻ります。解放なさい、珠精霊の言霊で。朱夏の魔女の真の名を、そして、赤い石の精霊の真の名を」
大きく眼を見張る紅珠は、硬い仕草で黄珠から朱夏の魔女へと視線を移した。
それは千年以上もの間、仕えてきた主の姿だ。
「おれは……朱玉」
「違います。赤い石の精霊の真の名は?」
「こう……」
言いかけて、彼はあやふやに首を横に振る。
「いや、それは過去の名だ。おれはその名を捨て、朱玉になった」
「赤い石の力はそれまで? 紅珠。言霊を使いなさい」
花びらのような衣を揺らし、黄珠はふわりと一歩前へ出た。
青珠もまた、青い瞳で紅珠を見つめる。
「珠精霊の誇りにかけて」
凛とした声で青珠が言うと、
「珠精霊の誇りにかけて」
黄珠もそれに呼応して同じ言葉を繰り返した。
赤い髪の華奢な少年は、震える手をどうにかしようと、固く両手を握りしめた。
「おれは、紅……紅……珠……」
掠れた紅珠の声を聞き、朱夏の魔女が怯えたようにわずかに後退さる。
「朱玉──」
「主は朱夏……朱夏の魔女……朱夏の真の名は……」
蘇芳の髪と琥珀の瞳を持った、年を取らない美しい女性。
漆黒の絹のキトンを身にまとい、赤い石を象嵌した幅の広い銅の腕輪をはめている、絶世の美女の名は。
「ファ……ファ……ティ、マ……」
ファティマがびくりとして眼を見張り、彼女の月桂樹の葉を模した耳飾りが大きく揺れた。
「おれは紅珠──赤い石の精霊・紅珠。赤い石の主の名は……ファティマ……」
その瞬間、空気が振動し、紅珠の意識の中で、白く発光するように何かが弾けた。闇が迫る広間のあちこちに、ぽっぽっと蛍火のような炎が浮かぶ。
「……紅珠が解放されたわ」
いくつもの小さな炎に照らされ、白く浮かび上がる衣をまとう青珠がつぶやいた。
炎は無数の鬼火となり、黄昏に沈む広間の中を幻想的に照らし出した。その神秘の光景を、二人のユリウスはただ息を呑んで見つめていた。
ファティマが崩れるようにその場に膝をつく。
「朱夏という言霊でおれは名を封じられ、朱玉という言霊でファティマはおれを傀儡として使役した」
赤い石の精霊はゆっくりと広間を見廻して、空中に浮かぶ数多の鬼火をその眼で確かめた。
「そうだ。確かにおれはファティマを殺そうとした。だが、それは……」
静かに、哀しげに、眼を細めて紅珠はファティマに歩み寄る。
「ファティマ、おれの名は?」
「あ……」
「君がおれの名を呼ぶことで、傀儡魔術は完全に解ける。ファティマ、赤い石の精霊の名は?」
茫然とくずおれたファティマの頬に赤い髪の少年はやさしく手を伸ばした。
「……朱玉」
「ファティマ、おれの真の名を言って」
「朱ぎょ……こう……こう、じゅ……」
その名を口にしたファティマの陶器のような白い頬を涙が伝った。
きららかな雫を紅珠の指先が拭う。
「君は一人じゃない。おれが、ずっと君を愛していた」
「朱玉……」
「朱玉はただの君のしもべ。君を愛したのは紅珠だ。死ぬべき定めの君に生きろと言ったのはおれだ。無知で純粋でひたむきな、そのままの君を愛していたんだよ」
生まれたての雛が親鳥を見つめるように、ファティマはじっと紅珠の顔を見上げていた。
彼女の前に身をかがめた紅珠が、彼女の頬を包み、その額に唇をよせた。
「愛している。そしておれはファティマの使い魔だからこそ、君の生き方を見過ごせなかった」
「紅珠」
ぽろぽろとあふれる涙を拭うこともできず、ファティマは子供のようにそこにうずくまった。
精霊の炎に照らされて、そびえる月桂樹の木を中心に、そこにあるもの全てに陰影が刻まれ、静寂が結晶のようにわだかまる。
紅珠は静かに泣きじゃくる主の頭をそっと抱きしめていた。
2020.6.18.