朱玉

4.

「青珠、黄珠、それから、天のユリウスと地のユリウスも、聞いてくれ。これは人間として生を与えられた彫像が、魔女としての生を強いられた物語だ」
 泣き崩れるファティマを抱きとめて、紅珠は静かに言葉を紡いだ。
「この物語を後世へ伝承していってほしい。そうすることで、ファティマの存在は永遠のものとなる」

 ──朱羽暦三二九年、朱羽帝の近衛軍が朱夏の館を襲撃したとき、本当ならば、ファティマは殺される運命だった。それなら、後宮に差し出された女のよくある一生として終わったはずだ。
 少なくとも、人としてのファティマはそのときに死んだのだ。
 彼女の肉体はユピテルの神木・樫の木で作られた像。
 彼女の生命の源はアポロの神木・月桂樹の実。
 偽りの心臓である聖なる実は炎魔神の生き血を吸って、全く別のものに変容した。そして、ファティマは魔性の存在として、瓦礫と血溜まりの中で目を覚ました。
「そのとき、おれはファティマを永遠に眠らせることもできたんだ」
 紅珠はそう回顧する。
「何も知らないまま、死なせてやればよかった。だが、おれにはそうする義理も義務もなかった」
 朱羽帝が死に直面した最後まで執心した美女は、赤い石の精霊の目には、美しいだけの、正に「人形」のような女に映っていた。
 朱羽帝の妃となって以来、一度も自分の意思で動いたことがなく、何の意見も持たず、ただ流されて、傾国の魔女という位置に追いやられただけの女だった。
 四大帝国の皇帝たちの視線を一身に集めた人間の女が、自分の意思を持ったとき、どんなふうに生きるのか興味が湧いた。故に、紅珠はよみがえった彼女が生きる手助けをしようと決めたのだ。
 ファティマは故郷に帰りたがった。
 父親のもとに戻れば、貧しくとも平穏な元の生活がまた戻ってくると信じていた。
 しかし、現実はファティマに残酷だった。
 人でなくなったファティマは老いなくなり、人間の血を欲した。だが、朱夏の館で初めて生命の危険にさらされ、他者や自身の血にまみれたあの日を呪うファティマは血を嫌った。
 渇きを覚え、人間の血を求めることは苦痛であったが、血を拒んでも、彼女は死ねない。
 ようやく辿り着いた生まれ故郷の村に、父はいなかった。
 村の住民たちはラウルスのことは覚えていたが、彼に娘がいたことを誰も覚えていなかった。
 ファティマは生まれて初めて自らの意思を持った。
 父・ラウルスを捜すこと、それが彼女の生きる目的となった。
 一人で生きていく術を何も知らない彼女は、世間というものを紅珠に教えられながら、ただひたすら父の軌跡を追った。無知で愚かだった女は、顔を隠し、魔道師となって、世を渡る術を身に付けた。
 ラウルスは大陸に“沈黙の封印”を施すというそのひとつの目的のために行動していた。
 賢者として慕われるラウルスを知れば知るほど、彼とファティマの関係性は薄くなるばかりだ。漠とした不安がファティマに大きくのしかかってくる。
 朱羽暦三四五年、シウカのアポロ神殿に辿り着いたファティマは、老神官の話に耳を疑うことになる。──

 ──さよう、よく覚えておる。ラウルス殿は神託を受けに来られた。
 そうさな。一度目はもう三十年以上前じゃ。二度目は五年ほど前になるかの。
 ちょうどこの町が戦場になった頃じゃよ。ラウルス殿は誰かに文を届けるため、その人物の行方を神託に伺いを立てようとされていた。戦争で行方知れずになったのじゃろう。
 しかし、その文を出す前に軍が押し寄せてきたので、ラウルス殿は急ぎ、ここを発たれた。文を置いたままな。それ以来、音沙汰はない。
 一度目の神託か? この神殿の神木の実を生命の源にせよ、という神託が下ったのじゃよ。
 ラウルス殿は木の彫像に仮の生命を与え、傀儡にすると言うておられた。
 そうじゃ、神託を待つ間、神殿の工房にて、赤銅の耳飾りを作っておられた。ラウルスの名にちなみ、月桂樹の葉の形をした耳飾りをな。傀儡へのはなむけだということじゃ──

 信仰は人間たちのものだった。
 “沈黙の封印”は人間たちの希望だった。
 それに関わる人間の魔道士や神官は、軽々しく魔族を封印する話を語りはしないが、赤い石の精霊の言葉の誘導により、ファティマは各地で情報を得ることができた。
 魔族に信仰を持つ者は稀であったが、彼らが人間たちの信仰を軽んずることもなかった。信仰を取り上げては、人間たちが魔族に従わなくなる恐れがある。
 ラウルスは太陽神を自らの守護神としていた。
 彼はアポロ神殿の神託によって、大陸に“沈黙の封印”を施したという。

 ──アポロ神殿の老神官が述懐したその耳飾りは、まさにファティマが持つラウルスの形見に違いなかった。
 己の正体に気づいたファティマは愕然となった。
 生きる目的を見失った彼女が最後にすがったのが、ラウルスが残した文に書かれた言葉だ。

 天の御子と地の御子の魂を得よ

 それは自分に宛てられたものだと信じた。
 では、するべきことはひとつだ。
 赤い石の精霊は語る。
「ファティマは天地の御子の魂を得るために生き続けることを選んだんだ」
 神殿の神木の枝を折り、それを核として、アポロ神殿の裏に異空間を築いた。沈黙の時代の到来に備え、魔神の血を持つ彼女が生きるための地を作ることに、紅珠は異を唱えなかった。
 ただ、折った神木の枝に術を掛けて植え、その生命を繋ごうとしたことには眉をひそめた。
「魔神の血の影響を受けていようと、神殿の神木が死ねば木とともにファティマも死ぬ。だから、彼女は魔術を用いてその木を強制的に生かし続けた。折った神木の枝が木となって成長したのがこの月桂樹だ。地上のアポロ神殿の神木と繋がっている」
 天地の御子の出現を待たず、いずれ神木も寿命を迎えるだろう。
 それでなくとも、戦火でいつ焼けるかもしれない。
 また、人間の血の代わりに人間の精気を糧にするようになった彼女は、それに飽き足らず、精気を吸うための男を異空間に攫ってくるようになった。
 必要以上に男たちを攫ってくるファティマに、紅珠は閉口した。
 男たちには家族や大切な人間がいるはず、人の生命を弄ぶような真似はやめるようにと彼はたびたび進言した。
 ファティマ個人の都合に他者を巻き込むべきではないという紅珠の主張はファティマには通じなかった。
 なら過去のしがらみを断てばよいと、ファティマは男たちに忘却の川の水を飲ませ、過去の記憶を全て消した上で姿を鳥に変えて飼い、我意を通した。
 朱夏の館に住まう鳥の数は、年々増えた。
 ファティマは鳥たちを恋人と称し、気まぐれに夜伽をさせていたが、紅珠には、ファティマが彼らに対して生きる糧を得る以上の愛情を抱いているとは思えなかった。
「精霊はこの世の理に逆らって存在することができない。魔術で無理に神木を生き延びさせ、大勢の人間の人生を簡単に奪ってしまう。石のあるじがそんな人間になったことに、おれは耐えられなかった」
 本来、ファティマは朱夏の館が焼け落ちたときに死んでいたはずだ。
 紅珠は、ファティマを傀儡として作ったラウルスが、あえて彼女に自我を与えなかったことに気づく。何が起こったのか解らないうちに殺されていれば、彼女はもっと楽に生を終えられたはずだ。
「結果的に、おれがファティマに自我を持たせることになった。それが彼女の不幸のもとなんだ」
 血溜まりの中、魔女としてよみがえったファティマに生きろと紅珠は言った。
 それが間違いだったのならば、神木の寿命とともに、彼女を自然に死なせなければならない。
 紅珠はある決断を実行に移そうとした。
 赤い石の精霊の言葉に耳を貸さなくなったファティマに対し、主従を逆転させる傀儡魔術を使おうとしたのだ。──

 ──術を掛けて交われば、相手を傀儡と化することができる。
 ある夜、紅珠は鳥たちの一人の振りをして、ファティマの寝所に忍び入った。
 恋人の一人の名を名乗る。そうすれば、精霊の言葉は暗示となって、相手の意識を制御できるはずだ。しかし、紅珠の行動を読んでいたファティマは、彼の術をくつがえす用意をしていた。
 窓の外から射し込む月明かりが、豪華な部屋の中の大きな寝台を仄白く浮かび上がらせる。
 寝台の上で、抱き合う相手の腕からするりと抜け出たファティマは、枕元に寄せた卓子の上の硝子の小瓶を手に取った。
 いつも薔薇水を入れている小瓶のひとつだ。
「そなた、わらわに忠誠を誓え」
 甘くささやき、彼女は小瓶の中身の液体を、自らの腕にはめた銅の腕輪に象嵌された赤い石の上に一滴垂らした。赤い石の精霊の身体がぴりっと痺れる。
「わらわの血じゃ」
 薄暗い寝台の中で紅珠は息を呑んだ。
「いや、火の力の結晶たる赤い石を造り出した朱羽帝陛下の血じゃ。それにレーテーの水を混ぜてある」
「ファティ、マ……」
「レーテー川をこの地に招いたのはそなたであったな、紅珠? いずれこの地をレーテーの流れに沈めるためか?」
 小瓶の中の残りの液体を口に含んだファティマは、そのまま硬直している紅珠の唇に唇を重ね、彼の口内に魔神の血を混ぜた忘却の水を注ぎ込む。
「……!」
 彼女は少年がそれを全て飲み込むまで執拗に舌を絡めた。
「許さぬ。許さぬぞ、紅珠。わらわは二度と傀儡になどならぬ。わらわを裏切ったそなたこそ、わらわの下僕となれ……!」
「ファティ……マ、魔神の血が流れていても、君の心は人間じゃなかったのか? 自然の理に逆らうな。君の生命の核である神木は、本来ならもう寿命を終えている」
「わらわは死なぬ。天と地の御子の魂を得て、人間となって、生き直す」
「ファ──
「わらわは朱夏じゃ。そなたの主は朱夏の魔女。朱夏の下僕の名は朱玉。そう、それがそなたじゃ」
「おれは、朱玉……主は、朱夏……朱夏、の……魔女──
「そうじゃ、朱玉。魔女と呼ぶなら呼ぶがよい。本物の魔女になってやろうぞ!」──

 夜の帳に包まれた広間の中を、空中に浮かぶ無数の精霊の火が幻想的に照らし出していた。
 赤い石の精霊は、静かに泣き続ける美女を抱きしめたまま、穏やかに言葉を続けた。
「ラウルスは誰に文を送ろうとしていたのか。彼がファティマの生存を知り、彼女に何かを伝えようとしたとしても不思議ではない」
 紅珠の睫毛が瞬き、その瞳が哀しげに揺れた。
「だが、おれの文の解釈はファティマとは違った」
 パピルス紙の文は所々が破け、インクが滲む箇所もあった。

 天の御子と地の御子の魂を得よ
 人ならぬ身に、永遠の生命を授かりたくば──

「解るか? 天と地の、二人のユリウス。永遠の生命とは人間として再度生き直すことじゃない。ラウルスが噂通りの賢者なら、天地の御子の魂を犠牲にするようなやり方を提示したりはすまい」
 魂は“アニマ”。
 心・精神は“アニムス”。
「おそらく、ファティマは文脈を読み違えたんだ。文字の滲んだそこには、“アニマ”ではなく、“精神アニムス”と書かれていたとしたら?」
 巡礼のユリウスと王子ユリウスは、同時にはっとした。
「ラウルスは自らが作った傀儡が徒に苦しむことを望まないだろう。天地の御子の心に触れ、精神的存在として永遠となれ。ねえ、ファティマ。ラウルスはそう伝えたかったんじゃないかな」
 魔女を愛する精霊の、やさしい言葉だった。

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2020.7.12.