朱玉

5.

 紅珠は愛おしげにファティマの身体をきゅっと抱きしめる。
「今、おれが君にできることはただひとつ」
 空中に数多灯っていた精霊の火が、ぽっ、ぽっ、とそびえる月桂樹に点された。
 巨大な樹がいくつもの鬼火をまとう。
「紅珠、何をする気だ?」
 驚いたユリウスに対し、赤い石の精霊は冷静に答えた。
「精霊の火で、この月桂樹を焼き、浄化する」
 紅珠の腕の中で、ファティマがはっと顔を上げた。
「やはり、わらわを殺すのか、紅珠? わらわの生とは、いったい何だったのじゃ。このまま死にとうはない」
 ファティマの琥珀の瞳は無垢だった。
 その瞳から、はらはらと涙が零れ落ちる。
 怯えたようにファティマが樹を見上げると、月桂樹の葉を模した耳飾りが重々しく揺れた。炎は月桂樹の枝葉をじわじわと伝い、ゆっくりと大樹を包み込んでいく。
「答えよ、紅珠。やはり、わらわはただの傀儡として、虚ろな生を終えるしかないのか?」
 うつむく小柄な少年は無言で彼女を抱きしめていた。
──天使……」
 ユリウス王子がつぶやいた。
「天使……では……?」
 夜の闇と精霊の火がもたらす夢幻の陰影のもと、精霊たちと巡礼のユリウスの視線が一斉に王子に向けられる。
 王子はファティマと紅珠に近づき、おもむろに言った。
「あなたが何者なのかと問われれば、それが答えのような気がする。あなたは魔女ではない。天使だ」
「てん、し……?」
 ファティマの瞳が驚きに無心に見開かれる。
「話を聞いた限り、ラウルスは神徒だったと思われる」
「神徒?」
 聞き返す黒いユリウスを蜜蝋色の瞳で見遣り、王子は説明した。
「神託によって神の意思を知る力を持ち、神の意思に従って行動する者のことだ。他の宗教では預言者と呼ばれることもある」
 そして、視線をファティマに戻す。
「神徒とは“神に使わされた者”という意味だ。では、神の意思のもとに神徒に生み出され、その仕事を手伝ったファティマ、あなたも天からの使い──天使ではないのか」
 思いもかけない王子ユリウスの言葉に、一瞬、全ての者の呼吸が止まった。
 言葉を失ったファティマの瞳が、感情の選択に戸惑ったまま、王子ユリウスの穏やかな顔を見つめた。
「あなたはただの傀儡ではない。あなたの人生に、存在に、確かに意味はあったのだ」
「……」
「千年という歳月は、私と黒いユリウスに会い、あなたが自分の正体を知るために費やした時間──なのではないか……?」
 ファティマは呆然と眼を見張っている。
「そうか」
 巡礼のユリウスが、低い声音でゆっくりと王子ユリウスの言葉を引き取った。
「これは人として生を享け、天へ戻りそびれた、一人の天使の物語なんだね」
 天と地と、二人のユリウスの言葉を聞き、ファティマの陶器のような滑らかな頬を、新たなひとすじの涙が伝った。
 月桂樹が燃える。
 火柱となった大樹は大きく炎を噴き上げ、硝子の天窓を突き破った。
 きらきらと火の粉が舞い落ち、ユリウスの金髪が黄金色に輝く。青珠と黄珠は、見えない大気の防護壁を築き、火勢からそれぞれのあるじを守っていた。
 そびえたつ月桂樹が炎に呑まれ尽くすと、大理石の床にうずくまるファティマの髪や肩にも火が点り、燃え出した。
「ファティマ、君は死ぬんじゃない。天使は天へ帰るんだ。赤い石が存在する限り、おれが君を愛し続ける」
「紅珠──
 炎は舐めるように波打つ蘇芳の髪を這う。
 そんな彼女をなおも紅珠は抱きしめていた。
「君の伝説は永遠になるよ」
「……紅珠、わらわは……わらわは、そなたがいたから──
 美しい女の全身が炎に包まれていく。
 赤い髪の少年の腕に抱かれる彼女は、熱さも苦痛も感じていないようだった。ただ、意識が薄れゆくのがもどかしいように、必死に紅珠に話しかけた。
「愛し、て……」
「……おやすみ、ファティマ」
 紅珠は抱いていた美女の燃える身体をそっと床に横たえ、身をかがめて、その唇に最後の口づけを与えた。
 彼がゆっくり唇を離すと、彼女の全身を包んでいた炎が静かに鎮まっていった。そのときにはもう、精霊の火に浄化されたファティマのやわらかな肢体は、硬い彫像に変じていた。
 ファティマを燃やした火が消えたとき、そこに横たわるのは、黒く焼け焦げた木の彫像であった。
 月桂樹は未だ勢いよく燃え上がっている。
「……天のユリウス、地のユリウス。ありがとう」
 彫像の前に膝をつき、紅珠は二人のユリウスに背を向けたまま、言った。
「君たちがファティマの心を救ってくれた」
 焼け焦げた彫像から、焼けずに残った月桂樹の葉の形の耳飾りと赤い石を嵌めた腕輪を、彼は手に取った。
 そして、銅の腕輪を傍らに置き、赤銅の耳飾りを握りしめる。
「赤い石は君たちに託す。所有するなり、捨てるなり、好きにしてくれ」
 うつむく紅珠は、つぶやくように言葉を続けた。
「青珠、黄珠。後を頼んでもいいかい?」
「解ったわ」
「はい」
 二人の珠精霊は同時に言った。
「月桂樹が焼け落ちると、この地は閉じてしまう」
「その前に、わたしが朱夏の館とファティマの亡骸を、レーテーの流れに沈めるわ」
「わたしは鳥たちを誘導します。この地にいては、生き物はみな死んでしまう」
 精霊たちの応えは簡潔だ。
「頼む。四つある尖塔のうち、北東の塔の階段を上り続けると、地上へ出られる。おれは、少し眠るよ」
 背を向けてうなだれたまま、紅珠は顔を上げなかった。
 鮮やかに燃え盛る月桂樹の火の粉が美しく舞い落ち、熱風に辺りが霞む中、赤い石の精霊の姿は、徐々に空間に融けて消えていく。立ちつくす二人のユリウスが、その様をじっと見守っていた。
 紅珠が消えてなお、夜の闇に挑むように、巨大な火柱となった大樹はきららかに輝くように焔を噴いていた。
「ユーリィ、わたしはレーテー川を決壊させる。ユリウス王子と先に行っていて」
「ああ」
「王子、ユリウス殿、わたしの風についてきてください。風の流れで、地上まで誘導します」
 青珠と黄珠が霊体になる。
 二人のユリウスは顔を見合わせ、うなずいた。
 巡礼のユリウスが残された赤い石を象嵌した腕輪を拾い上げ、王子を振り返る。
「さあ、行こう、王子」

* * *

 朱夏の魔女の住む常夏の地は消滅した。
 月桂樹は火の粉をまき散らして勇壮に焼け落ち、火の珠精霊の炎は、忘却の川の流れに沈められたファティマの亡骸ごと、その異空間の地を呑み込み、浄化した。
 黄色い石の精霊の風に導かれた鳥たちは地上に逃れた。
 朱夏の館の尖塔の階段の先は、廃墟の町・シウカのアポロ神殿の地下墓所に繋がっていた。その地下墓所の奥に大理石の祭壇を見つけた二人のユリウスは、それに近づいてみる。
 祭壇は小さな神殿のていをしていた。
 神殿のポルチコの六本の女像柱カリアティードは、みな同じ顔をした少女だった。
「朱夏の館の召使いの少女たちだ」
 黒衣のユリウスがつぶやいた。
 祭壇の中には、割れた古い大理石の欠片と、朽ちたパピルス紙が収められていた。これはラウルスの手記と、戦争で焼け落ちた朱夏の館の瓦礫だろう。
「術が解けたのね」
 淡々と青珠が言った。
「常夏の地の朱夏の館はこの大理石の欠片と神木の枝が基盤だった。紅珠が常夏の地を浄化したから、欠片が割れたんだわ」
 二人のユリウスと二人の珠精霊は、暗い地下墓所の無数の墓石や棺の間を進み、長い石の階段を上って、ようやく地上に出た。
 地下の闇に慣れた眼に、午後の陽差しがまぶしい。
 外は真昼だった。
 晴れた空から、明るい陽光が射している。
 アポロ神殿の中庭の神木の、その枯れた古い幹は、黒ずみ、焼け焦げたようになっていた。朱夏の魔女のために生かされていたこの木も、ようやく寿命を終えることができたのだろう。
 青い瞳と蒼い髪を持つ美しい精霊が、ふわりとユリウスの前へ進み出て、その黒衣の前にひざまずいた。
「青珠……」
「青鱗帝の青い石・青珠は、あなたを主に選びます」
 そう言って、青珠は右手でユリウスの右手を取り、手の甲に口づけた。
 そして、白い衣の胸元につけていた青い石を象嵌した耳飾りを外し、両手で捧げて、そっとユリウスに差し出した。
「あなたのものです」
 うなずき、耳飾りを受け取ったユリウスは、そのまま青珠の手を引いて、彼女を立ち上がらせた。
 彼は少しの間、青い石を懐かしげに見つめ、自らの左耳につけた。青珠はそんな主の様子をじっと見守っている。
「……何?」
 ユリウスは青珠に薄く微笑みかけた。
 微かに首が傾けられ、重々しい燻し銀の耳飾りが小さく揺れる──そんな様が懐かしかった。
「少し痩せたわね、ユーリィ」
「おまえのせいだ」
 言葉と同時に彼は彼女を抱き寄せた。
 そこに確かに彼女がいることを、確認するように抱きしめる。腕の中の精霊の身体は人間より少しだけ冷たいが、確かにそれは青珠の実体だった。
「青珠……おまえが無事で、よかった」
「信じていたわ、ユーリィ。また逢えると」
「うん──
 抱き合う金髪の青年と蒼い髪の娘を穏やかに見つめていたユリウス王子が、蜜蝋色の瞳をゆっくりと閉じ、また、開いた。
 すると、彼の瞳は元の翡翠色に戻っていた。
「ユリウス」
 王子ユリウスの声に、巡礼のユリウスは青珠を抱いたまま振り向いた。
「まだ問題は残っている。翠珠を捜さなければならない」
「翠珠? 緑の石の──精霊?」
「そう。“沈黙の封印”を解いたのは朱夏の魔女ではなかった。この封印を解けるほどの力の持ち主となれば、珠精霊を従えている者に間違いない。そして、君も私も封印を解いていない。残るはただ一人、翠珠を従えた者だ」
「君には確信があるのか?」
 王子ユリウスはうなずいた。
「その者の意図が知りたい。なぜ、危険を顧みず、そんなことをしたのか」
 黒衣のユリウスの腕から離れ、王子に向き直った青珠が慎重に言葉を選ぶ。
「ユリウス王子。ですが、あなたは仮にもレキアテルの第一王子。ユーリィに手を貸してくださったことは感謝しますが、これ以上、放浪の旅を続けるのは……」
「その心配はない、青珠。私は国王の実子ではないし、弟がいる。レキアテルには私の居場所はない。ファティマの言う“天のユリウス”として、“地のユリウス”である君のユーリィと同じ運命をたどりたい」
「王子……」
 王子ユリウスはやさしく微笑み、正確に黄珠のほうに顔を向けて、軽くうなずいてみせた。
「それに、黒いユリウスに君がいるように、私には黄珠がいる」
「はい」
 と、黄珠が応じる。
「妖霊星に定められた運命とは何か、私自身で確かめたい」
 巡礼のユリウスがおもむろに、赤い石を嵌めた腕輪を手に、王子ユリウスのもとへ歩み寄った。赤い石の精霊はこの石の中で眠りに就いている。
──ファティマの腕輪だ」
 問うように、王子ユリウスが首を傾げる。
「赤い石──これは、君が持っていてくれ」
「私が赤い石を……?」
 ユリウスは王子の手に腕輪を握らせた。
「天の御子の力は赤い石の力に匹敵するとファティマは言っていた。最後の宝珠が見つかるまで、預かっていてくれないか?」
 だが、王子ユリウスは静かに首を横に振った。
「たとえ二つでも、四宝珠を複数持つことは危険を孕む。これは火神・ウゥルカーヌスの神殿に封じよう。そしてそれは、巡礼である君の仕事だよ」
「王子がそう望むなら」
 ユリウスは王子の意に逆らわず、その銅の腕輪を自らの腕にはめた。
──行こうか」
 紺瑠璃の耳飾りが揺れる。
 季節はもう春だ。
 陽光が瞬き、ユリウスの淡い金髪を美しくきらめかせている。
 そのまぶしく輝く光を、盲目の王子も自分の眼を通して見て、感じていることを、ユリウスはもう疑わなかった。

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2020.8.2.