黒牙の後裔

1.

 親愛なるアウリイ──

 私がメディオラの宮殿を出て、はや七ヶ月が過ぎた。
 私は無事に、元気にやっている。
 何の心配も要らない。
 そなたの生活に変わりはないか?
 国王や王妃は健やかにお過ごしであるか?
 ディディルは無事に私と行きあうことができた。
 そなたがディディルにことづけたそなたの想い、まことにありがたく思う。
 なれど、その気持ちだけを受けよう。
 そなたが私を気遣う気持ち、語ってくれた言葉──私にとってそれ以上のものはない。
 そなたのその気持ちが素直に嬉しい。
 そなたが望む限り、私はそなたの兄であり、そなたは私の弟だ。
 兄として言う。
 そなたももう十六だ。
 できるだけ早く、立太子の儀を済ませよ。
 ユリウスがそう申していたと、この書を国王にお見せせよ。
 私の帰国を待つな。
 私はおそらく

「おそらく──何でございますか、ユリウス様?」
「……」
 ディディルは羽根ペンを持つ手を止め、ユリウス王子のほうをじっと見て、王子の次の言葉を待った。
「……二度と王宮に戻ることはない、などと書けば、アウリイは心配するだろうな」
 宿屋の粗末な部屋で、木の卓子に向かって口述筆記をしていたディディルは、窓辺の椅子に座る王子の姿に、その姿のやさしさとは裏腹な決然とした意思を感じた。
 もう二度と、この方は王子として国にお戻りになることはないだろう──
「……いや、そのようなことを書くのはやめよう。私は帰ると──いつになるかは判らぬが、必ず王宮に帰ると──そう続けてくれ、ディディル」
「かしこまりました」

 私の帰国を待つな。
 その代わり、そなたに約束しよう。
 いつになるかは判らぬが、必ず王宮に帰ると。
 しかしそれは、王太子としてではなく、そなたの兄としてだ。
 そなたが王太子になることが、今の私の一番の望みである──

「最愛の弟、アウリイへ。そなたの兄、ユリウスより」
 と、ユリウスは手紙を締めくくった。
「居場所をお知らせしなくてよろしいのですか?」
 ユリウスは苦笑した。
「そんなことをしてごらん。アウリイは必ず迎えをよこしてくるぞ」
「どちらにせよ、こんなに短い手紙だけでは、アウリイ様は心配されます」
「人は、いずれ新しい環境に慣れるものだ」
 一見、冷たいようにも感じるユリウスの態度に、ディディルは切なさを覚えた。これが彼なりの最大限のやさしさなのだ。
 国を捨て、家族を捨て、レキアテルの第一王子という身分を捨てて──それでもなお大切なものが王子にはあるのか。
 巡礼のユリウスという人物は、王子にとって、それほどの存在なのか。
「ディディル」
 ディディルははっとした。
「はい、ユリウス様」
「私の生き方に不審を感じるならば、レキアテルに戻れ。そなたはレキアテル王家の第一王子に仕えるべき方士。今、レキアテルの第一王子はアウリイだ」
「ユリウス様──!」
 幼い方士は慌てて立ち上がった。
「何をおっしゃいます。ディディルはユリウス様以外のお方にお仕えする気などありません。ディディルはユリウス様に仕えるべく育てられた者です」
「だが、私がなぜ国を捨てるか、納得がいかないのだろう?」
「……」
 その場に立ち上がったまま、ディディルは言うべき言葉が見つからず、視線を彷徨わせた。
「私の定めにそなたまで巻き込むつもりはない」
「そのようなこと──ユリウス様と運命をともにすることこそ、ディディルに定められた道です」
 必死の面持ちでひたむきにユリウスを見つめるディディルは、今にも泣き出しそうだった。ユリウスは、それを気配で察した。
「ディディル」
 ユリウスの声が少しやわらかみを帯びた。
「まだ幼いそなたを巻き込みたくないのだ」
「ユリウス様!」
 思わずディディルはユリウスの傍らに足早に歩み寄り、その場にひざまずいて彼の手を取った。
「わたしはもう十四になります。ユリウス様が王宮を出られても、充分にお仕えすることのできる年齢です」
「ディディル……」
「アウリイ様にもお約束いたしました。わたしがユリウス様をお護りすると──
 ユリウスは正確にディディルのほうへ顔を向け、包み込むように微笑んだ。
「そなたの真っ直ぐな気持ちはありがたい」
 自分の手を握る少女の小さな手を、ユリウスはぽんぽんと片手でたたいた。
「しかし、そなたに放浪の旅を強いる必要はないのだ、ディディル。私にはいつも黄珠がいる。そして、人生の旅をともにする黒いユリウスがいる」
 とんでもないというように、ディディルは首を横に振った。
「精霊は元来、人に従う存在ではありません。いつ、ユリウス様のもとを離れるやもしれません」
 それは、黄珠への、そして巡礼のユリウスへの、ディディルの焼きもちだったかもしれない。
「精霊は物に属す存在です。所詮、黄珠も石に属する者。でも、わたしなら、ずっと、ユリウス様の眼になれます」
「ディディル、世の無常を口にするなら、それは精霊に限ったことではない。そなたの忠義を疑うわけではないが、人とて、いつ何時、何が起こるか判らぬぞ」
「でもそれは、黒いユリウスにも、ユリウス様ご自身にも当てはまることだわ」
 と、ゆっくりとディディルは言った。
「“今”を大事になさるなら、ディディルの今の気持ちも尊重してください」
 ユリウスは小さく声を立てて笑った。
「ディディルにやり込められるようになったか。……解った。そなたにも私のそばにいてもらおう」
 ようやく安心したようにディディルは微笑み、ユリウスの手を強く握った。
「ディディル、手紙を」
「はい」
 ディディルが卓子に戻って羊皮紙の手紙をまるめて麻紐で閉じると、ユリウスは小さく精霊の名を呼んだ。
「黄珠」
 そう広くはない室内に微かな風が舞ったように感じられ、次の瞬間、山吹色の軽羅をまとった優美な精霊が姿を現した。
「この手紙を、メディオラのアウリイに届けてくれ」
「はい」
 黄珠はディディルの手から手紙を受け取り、そのまま霊体になろうとしたが、それをユリウスの声が呼び止めた。
「黄珠。黒牙の裔と噂される人物のことを知っているか?」
「黒曜公国の君主のことですね」
「そうだ。瞬く間に一国を築き上げた興味深い人物だ」
 黄珠は出発するのをやめ、王子の次の言葉を待った。
「……会いに行こうと思う」
「ユリウス様、危険です!」
 慌ててディディルが口を挟んだ。
「レキアテル王宮内の状況がどうあろうと、向こうにとってユリウス様がレキアテルの王子であることに変わりありません。政治的人質として、捕らえられてしまいます」
「彼に直接会おうというのではない。黒牙の裔とささやかれ、短期間で国を興したその背景に興味がある。翠珠の力が働いている可能性が大きい」
 ディディルははっとなった。
「翠珠──最後の宝珠、緑の石ですね?」
 ユリウスはうなずいた。
「黄珠、アウリイに手紙を届けた帰りに、黒いユリウスに告げてくれ。私は黒曜公国に向かったと」
「かしこまりました」
 軽く一礼し、黄珠はすっとその場から姿を消した。

* * *

「これでいいだろう」
 火神・ウゥルカーヌスの神殿で、その奥殿の裏で、巡礼のユリウスと青珠は小さな木の筐を埋めていた。
 小筐には、封印の呪文がびっしりと彫られている。
 カヌア侯国のアプア街道上の都市・パノルイ市からやや北西にあたる、ここは、小さな村であった。
 ここからもう少し西へ進めば、オスリア王国に入る。
 赤い石を火神のもとに封印するため、できるだけ人目に立たない小さな村の小さなウゥルカーヌス神殿を探して、二人はここまでやってきたのだ。
 そして、この神殿を選んだ。
 豊かな緑に囲まれた小高い丘の小さな神殿だった。
 季節を迎えた真っ白い梨の花が誇らしげに咲いている。
 埋めている小筐の中身は朱夏の魔女の腕輪──赤い石・紅珠である。
「封印文字が施されているから、まず誰も筐には気づかないでしょう」
 埋め終わって立ち上がったユリウスの傍らで、青珠がつぶやいた。
「誰も?」
「ええ──そうね。あなたとユリウス王子は別。それに、“沈黙の封印”が解かれたために目醒めた者たちなら、赤い石を手にすることも可能だわ」
「充分危険じゃないか?」
「魔物は石を欲しがったりしないわ。危険なのは人間。封印は、その人間たちから石を隠すためのもの」
 ユリウスは辺りの様子をうかがった。
 神殿は深閑としている。
「静かだな。埋めるところは誰にも見られなかったようだ」
「ええ。人の気配はないわ」
「でも」
「ええ」
 二人は同時に同じ方向に視線をやった。
 風が駆け抜ける。
 その空間に、突如として、うら若い娘の姿が浮かび上がった。

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2005.3.29.