黒牙の後裔

2.

 濃い金色の短い巻き毛。花びらのような山吹色の羅。
 やわらかな風をまとった黄色い石の精霊──
「黄珠」
 黄珠はふわりと地上に降り立ち、ユリウスと青珠を交互に見て、会釈した。
「このウゥルカーヌス神殿に赤い石を封印したのですね」
「見ていたのだろう?」
 微かに黄珠は口許に笑みを刻んだ。
「石を持つ者以外は霊体時の珠精霊の気配を悟ることは不可能なはずですが、あなたと王子は違うようですね」
「王子は千里眼を持っている。僕は……なんだろうな」
「朱夏の魔女の言ったとおり、お二人が天と地の御子だから、かもしれません」
 周囲の木々には白い花が咲き乱れている。美しい季節の美しい自然に囲まれた中にいて、何かしら不穏なものを感じ、ユリウスの表情はやや憂いを帯びたものになる。
「王子の使いなの?」
 と青珠が尋ねた。
 黄珠がうなずく。
「王子はディディル殿を伴って出発されました」
「出発って……どこへ?」
 怪訝な表情で言いかけたユリウスを真っ直ぐ見遣って、黄珠は言葉を続けた。
「ユリウス殿。黒曜公をご存知ですね?」
「あ……ああ。黒曜公国の」
 黄珠はうなずいた。
「王子は黒曜公の身辺に翠珠の気配を感じておいでです。黒曜公に会ってみたいと、黒曜公国へ向けて旅立たれました」
 ユリウスは驚いた。
「黒曜公に会いたいって──王子は自分の立場を解っているのか?」
「ディディル殿がついています。あの方は良識派ですから」
「そうはいっても、その子はまだ十二、三の子供なんだろう?」
「十四歳の方士です」
「たとえ方士がついていようと、レキアテルの王子が単身、黒曜公国に乗り込むなど、危険すぎる……! 今、王子はどの辺りにいるんだ?」
「オスリア王国に入った辺りでしょうか。もうウェネリヤの近くにまで行っているかもしれません」
「まさか、ウェネリヤからアプア街道を通る気では──
 黄珠は静かに首を横に振った。
「そこまで馬鹿なことはなさいません。主要街道は避けて動いておられます。王子がレキアテルに迷惑がかかるような行動をなさるはずはありません」
「なら、いいが……」
 青珠がそっとユリウスの肩を押さえた。
「それでは、王子は黒曜公国でユーリィを待っているということ?」
「はい。ユリウス殿と合流するまで、王子は動かれないだろうと思います。ただ、少しでも早く、多くの情報を集めたいがため、先に出発されたのだと、わたしはそう思っています」
 ユリウスは肩に置かれた青珠の手に自分の手を重ねた。
「解った。僕と青珠も黒曜公国へ向かう」
 黄珠はうなずき、一礼した。
「では、ユリウス殿、青珠。わたしはひとあし先に」
 一陣の風が吹き、黄珠の姿はかき消すように消えてしまった。
「黒曜公か……」
 黄珠の消えた空間を見つめ、ユリウスはつぶやいた。
「黒曜公は、黒牙の後裔だと──そんな噂があったな」
「黒牙帝は、神代、緑の石の所有者であった魔神」
 言い知れない戦慄に支配され、ユリウスと青珠は顔を見合わせた。
「もしかして、緑の石は、代々、黒牙帝の血を引く者のみの手に受け継がれてきたのだろうか……」
 ひとつの血筋に。
 千年以上も?
 しかし、朱夏の魔女もまた、千年以上もの刻を赤い石とともに生き抜いてきたではないか。
 ユリウスは不意に青珠の手を取り、強く握った。
「青珠、すぐ出発しよう。最短の距離で黒曜公国の黒い都に向かう」
「ええ」
「早く、王子に追いつかなくては──
 それは、予感──だったのだろうか。
 不吉な思いがユリウスを支配していた。


「ディディル」
 ここは、オスリア王国のどの辺になるだろう。
 深夜、宿泊している宿の窓から飽きることなく夜空を見つめている幼い方士に、ユリウス王子は声をかけた。
 幾百億もの星々の光が、夜空をまばゆく飾っている。
「いつまでも窓を開けていると、風邪をひくぞ」
「あ、すみません、ユリウス様。あなたにお風邪をひかせてしまいますね」
「いや、私なら構わないが……」
 ディディルは窓を閉め、ユリウスのもとに静かに歩み寄った。
「星を見ていたのです。星は、人間のように裏切ったりはしません」
「未来が見えたか?」
 ディディルはふと、顔を曇らせた。
「レキアテルを出て以来、未来が見えません。わたしの方士としての力は、他国では役に立たぬものなのでしょうか」
 方士は占星術で未来を見る。
 それが方士としての最低限の資格だ。
 寝台の上に立て膝で座るユリウスは、見えない眼を自分の掌に向けた。
「星の示す指針はどの国へ行こうと変わることはない。しかし、雲が出ていては星は見えないだろう」
「わたしの目が曇ったと?」
「そうではない」
 ユリウスは眼を閉じ、ぎゅっと手を握った。
「死の穢れを感じる。その穢れが、卜占の邪魔をしているのだ」
「死の、穢れ……?」
「それは雲や霧のように視界を奪う。未来を見る邪魔をする。──私の、心の眼を曇らせる」
「ユリウス様の千里眼が?」
「自分の勘を、あまり頼りにせぬほうがよいかもしれないな」
「……」
「明日はヴァレシナク街道を横切らなければならない。何もなければいいのだが……」
 眉をひそめた王子の横顔を、ランプの灯りが照らしている。
 その光を、王子は感じているのだろうか。
 不安げなディディルの瞳がランプの炎に揺らめいて見えた。

* * *

 その日、篠突く雨が早朝から降り始め、昼近くになっても一向にやむ気配を見せなかった。
 宿の窓から外の様子をうかがっていたディディルが旅支度を始めたユリウス王子を振り返って声をかけた。
「ユリウス様、雨はまだしばらくやみそうにありません。今日、ここを発つのはおやめになったほうが……」
「いや。こんな天気だからこそ、雨にまぎれて街道も容易く横切れよう。ヴァレシナク街道さえ越えてしまえば、すぐに黒曜公国の領土に入る。そうしたら、郊外に宿を取り、黒いユリウスの到着を待とう」
「黒いユリウスを待つのなら、別にここでも……」
「私は、一刻も早く黒曜公国の空気を肌で感じてみたいのだ」
 盲目の王子と幼い方士は、雨具をしっかりと着込み、少ない荷を持ってそれぞれが馬に乗った。
 盗賊などから見れば、これ以上はないほど頼りない二人連れだったろう。
「黄珠はいます?」
「アウリイへの手紙を託したあの日のうちに戻ってきているよ。彼女は常に私の声の届く範囲にいる」
 ディディルは馬上から周囲の様子を注意深く探ってみたが、巫女としての力を持つ彼女でさえ、珠精霊の気配は掴めなかった。
 二人は、雨の中でも危なくない程度に馬を飛ばし、真っ直ぐに西へ──黒曜公国の首都・黒い都を目指した。

 アプア街道をはじめとする大陸の主要街道は、大陸を旅する民にとって、なくてはならない道である。
 管理の行き届いたそれらの街道は、灰色の石畳が敷き詰められ、歩道と車道がはっきりと分けられている。
 その歴史は古いもので五百年以上にもなるといわれる。
 一般人の通行は自由だが、兵士になると身分証が必要で、貿易商だと、各所に置かれた関でその地の通行権を所有する国に税を納めなければならない。
 通行税の金額は持ち込む商品の数やその価値に比例する。
 それでも、多くの荷を持つ商人たちは、盗賊に襲われる心配のないきちんと整備された安全なルートである街道を好んで選び、通商のため、大陸を巡るのだ。
 街道の中央は、大型の馬車が楽に四台は並べるほどの広さの車道があり、その左右にそれぞれ幅七パッススほどの歩道が敷かれている。
 見た目にも美しい堂々たるこれらの公道は、大陸の民の誇りであった。

 雨はまだ降り続いている。
 春の雨は暖かい。
 馬を走らせながら、ディディルはちらと斜め前を走る栗毛の馬に乗ったユリウスの姿を見遣った。
 王子が馬に乗るところを見るのはこれが初めてではない。
 だが、いつも不思議に思う。
 なぜ、眼の見えない王子が、これほど鮮やかに馬を駆ることができるのだろうか。
 ──怖くはないのかしら。
 実は、そのようなことをユリウス自身は意識したこともなかった。
 馬に乗るときは、馬の眼に自分をシンクロさせる。
 それが彼には当たり前だった。
「よそ見をするな、ディディル。この視界の悪さでは、落馬の危険もある」
「は、はい」
 どうして視界が悪いことがユリウスに解るのか、ましてや自分がよそ見をしていたなんて──
 ユリウスの千里眼は健在だ。
 ディディルは少し安心して、馬を走らせることに意識を集中させた。

<雨が……>
 青珠の声が巡礼のユリウスの耳だけに響いた。
 彼もまた馬を調達し、王子ユリウスとは別のルートで、黒い都への道を真っ直ぐに走らせている。
<西から雨がやってくる>
 透き通った青珠の声が不安に響く。
 ユリウスの頭上には、真っ黒な雨雲が広がりつつあった。
「ユリウス王子は、雨でも足を止めないだろう」
 つぶやくようにユリウスは言った。
「しかし、王子には僕の居所が見えるが、僕には王子の居場所が掴みようもないんだから、厄介だな」
<とにかく、黒い都へ行くしかない>
「無事、黒い都で落ち合うことができるといいが……」
 黒い衣が翻る。
 ぱらぱらと落ちてきた雨粒を白い頬に受けるユリウスの表情は険しかった。

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2005.3.31.

パッスス(passus)=約1.48m