黒牙の後裔
3.
墨絵のようにけぶる景色の中、前方に見えてきた視界を横に長く伸びる影がヴァレシナク街道だと、ディディルは気がついた。
「ユリウス様、見えてきました! ヴァレシナク街道です」
「そうか」
ユリウスは徐々に走る速度を落とし、一旦、手綱を引いて馬を止めた。
「街道を走って渡ることはできないな。馬を曳こう」
「はい」
うなずいて、ディディルも馬から降りた。
「人通りはどうだ?」
「まばらです。でも、皆無ではありません」
低い縁石があるだけで、街道に入ることは簡単だ。しかし、数十パッススを馬に乗ったまま駆け抜けるなどという暴挙に及ぶわけにはいかなかった。
「ディディル。そなたの気配は判る。先導してくれ」
「はい」
ディディルは馬を曳いて、ヴァレシナク街道に向かって進んだ。
振り向くと、一定の距離を保って、同じく馬を曳いたユリウスがついてくる。
表面に水を弾くための油が塗られた絹のフード付きマントで身を覆っているものの、雨足に容赦はない。
自らも全身に雨を受けながら、小さな方士は注意深く辺りを見廻し、街道の石畳に足を踏み入れた。
「ここに段差があります。縁石です」
「解った」
縁石を越え、二人は街道の上に立った。
「……変だな」
「どうかされましたか?」
「街道上の通行人の中に、訓練された者の動きを感じる」
「え?」
「つまり、兵士などだ。──かたまって数名。左からこちらへ歩いてくる」
ディディルは素早く左側を確認した。
雨のため、ほとんど人のいない街道を、確かに、旅人が三人歩いてくる。しかし──
「兵士ではありません、ユリウス様。商人のようです」
ユリウスの眼がわずかに細められた。
「黄珠。ディディルを護ってくれ」
「……えっ?」
驚いたディディルがユリウスを顧みたとき、二人の前を通り過ぎようとしていた商人の一人がこちらに視線を走らせた。
「おい」
すぐ近くに聞こえた低い声にびくりとして、ディディルが振り返る。
「……亜麻色の髪に緑の眼。細身の若い男だぞ」
「しかし、盲人の杖はついていない」
三人の商人は立ち止まり、鋭い眼でユリウスを見ていた。
三人とも、やはり雨用のマントに身を包んでいる。それぞれが大きな荷を担いでおり、その荷造りの特徴が商人特有のものであった。
「何なのです、あなた方!」
一人がディディルに視線を落とした。
「おまけに子供づれだ。人違いじゃないか?」
「いや、確かめるのに手間は掛からんだろう」
一人の男がすっとユリウスに近寄り、そのままの動きを止めることなく、右手でユリウスの顔面を払った。──その手には小さな短剣が握られていた。
刹那、ユリウスは鮮やかに身を引いてかわし、短剣の切っ先は彼の頬をかすめることもできなかった。
しかし。
「ユリウス様!」
叫んで、ディディルははっとなって手で口を押さえた。
「……わ、わたし──」
一瞬にしてその場の空気が変わった。
男たちの表情に緊張が走る。
ユリウスに斬り付けようとした男がおもむろに口を開いた。
「──レキアテル王国の第一王子、ユリウス殿下ですな?」
ユリウスは答えなかった。
「ユリウス殿下。我らにご同行願いますぞ」
再度、威圧するような口調が王子の返答を促し、ユリウスは眼を伏せたまま鷹揚に言葉をつむいだ。
「確かに私の名はユリウスだが、レキアテル王国の王子などという身分ではない。人違いでしょう」
「人違いでも構わん。是が非でも、一緒に来てもらわねばならんのだ」
「力ずくでも連れていきますぞ」
殺気立つ気配を肌で感じ、いつもはやさしいユリウスの瞳が鋭さを帯びた。
「黄珠、斬れ!」
しゅっと鋭く風が走り、血煙があがった。
「うわっ──!」
一人が腕を斬られ、一人が足を斬られていた。
何がどうなっているのか、ディディルには解らない。
思わずユリウスのそばに駆け寄ろうとしたとき、彼女は三人目の男に腕をつかまれた。
「魔術を扱うのか──? だが、これ以上抵抗すると、小娘の腕をへし折るぞ!」
ユリウスはその声が聞こえた方向へ顔を向けた。と同時に、男は絶叫を放ちながらディディルをつかんでいた手を離した。
「ぐわあああっ……!」
男の左腕が石畳の上に落ちた。
ぱしゃん、と濡れた石畳の水がはねる。
「きゃあっ!」
ディディルをつかんでいた男の腕が、肘の少し上辺りから見事な切り口を見せて切断されている。
肩を押さえ、地に転げまわって激痛と闘う男の様子を、恐怖とともに見下ろすディディルのマントも、男の血にべったりと濡れている。
「あ……あ」
少女は恐ろしそうにそろそろと後退さった。
「殺生をする必要はない。黄珠、もういいだろう」
男たちを斬ったのは、風が作る真空の刃だった。
黄色い石の精霊・黄珠の仕業──
「おまえたちを殺す気はない。ただ、ディディルに危害が及ぶのを黙って見ているわけにはいかぬ」
ユリウスは労うように馬の首を軽くたたき、ディディルの気配のするほうへ声をかけた。
「さあ、ディディル。早くこの街道を渡ってしまおう」
「ユ、ユリウス様……」
ユリウスははっとなった。
「どうした、ディディル?」
ディディルの気配が尋常ではない。
「あなたの大切な連れは、首に短剣を突き付けられているのだよ、ユリウス殿下」
「……!」
ディディルが商人と間違えた三人の声ではない。
四人目の人物がこの場に居合わせたのだ。
雨の音と、その男の声だけが不気味に響いた。
「下手に動くと、この小さいお嬢さんに傷がつくぞ」
彼女は今、ペタソスをかぶり、黒マントを着た若い男に背後から羽交い絞めにされ、喉に短剣を突き付けられていた。
「なぜ──? 気づかなかった……」
王子は激しい驚きを隠せなかった。
大いなる死の穢れ──
それが新たな賊の気配を隠していたのか。
「ここで会ったのも何かの縁。殿下を手土産にすれば、公もさぞお喜びになるだろう」
風が唸り、男の頬を裂いた。──精霊の威嚇である。
日に焼けた頬を伝う血は、瞬く間に雨に洗い流された。
「今、おれを殺したところで意味はない。この地にいる以上、遅かれ早かれ、あなたは黒曜公の手に落ちる運命だ」
「黒曜公──?」
ユリウスの表情が変わった。
「黒曜公の手先か?」
再び風が、男の身を切り裂いた。
男のまとうマントが裂け、血煙があがる。
「黄珠、よせ! この男の話が聞きたい」
男は地に膝をついたが、ディディルに刃を向ける手には力を入れたままだった。
「は……貴人は物分かりがいいな。しかしどちらにせよ、おれの生命はあなたに握られているということか」
「私の身柄を拘引することが目的か? そう黒曜公が命じたのか?」
男は苦しげにゆがんだ笑みを見せた。
「……いや。おれは“冬”の動きを探っていただけさ。行方不明の王子を捜していたのは“冬”だ」
男は戦闘不能になって地に伏した三人の男たちを目で示した。
「そら、そいつらは“冬”の密偵だよ」
「冬? 白い都の冬将軍か! なぜ、冬将軍が私を追う……?」
「そんなことは知らん。だが、雨ではぐれたおれの仲間がまもなくここにやってくるだろう。あなたがおれたちに従って黒耀城に届けられることを承諾するなら、この娘を解放してやる」
「ユリウス様……!」
怯えたディディルの声にユリウスは我に返った。
ここで異を唱えれば、男は己の生命と引き換えにディディルを殺すだろう。
まずはディディルの安全が第一だ。
「私の使い魔が、いつでもおまえを殺せることを覚えておけ」
「……身に染みたよ」
「では、取り引きだ。私は黒耀城へ行こう。その代わり、彼女の身の安全を保障しろ」
「ユリウス様!」
泣き出しそうな声でディディルが叫ぶ。
「レキアテルは遠い。彼女は私に伴わせる。だが、客人として扱ってもらう」
「承知した」
自分を縛める力が緩んだので、ディディルは男の腕を振り払ってユリウスのもとへ走り寄った。
「ユリウス様、ごめんなさい!」
王子に抱きつき、泣きじゃくりながら幼い方士は叫んだ。
「ユリウス様をお護りするつもりだったのに──! わたしが足手まといになって、ユリウス様を危険な場所へ送り込むことになってしまって……」
少女を抱きとめ、ユリウスはやさしくその頭を撫でた。
「泣くな、ディディル。そなたのせいではない。レキアテルにも迷惑はかけぬ。黒曜公国へ入る以上、予想されてしかるべき結果だ」
そして、黄色い石の精霊に向かって、小さくささやいた。
「いや、行かなくていい、黄珠。知らせれば、彼を心配させるだけだろう。彼が黒い都へ着いたら、そのときに連絡を取ろう」
雨が上がったのは、それから二日後のことだった。
2005.4.1.