黒耀城の舞姫

1.

 黒曜公国。
 大陸南西部・クスティア地方と呼ばれる地に位置する、新興国。
 突如、クスティア地方に在った三つの国が滅ぼされ、その地に黒曜公国が建国されたのは、大陸暦一〇一七年のことである。
 それから三年──
 豊かな肥沃地帯に恵まれた黒曜公国の治政は、表面的には安定していた。

 巡礼のユリウスが訪れた村に宿屋はなかった。
 彼は親切な農家に宿を借り、そのお礼として、馬を置いていくことにした。
「この道は、巡礼のルートからは外れているが」
 と、人のよさそうなこの家の主人は言った。
「どこまで行きなさるのかね?」
「黒い都です」
 巡礼の黒衣の上に黒い外套をはおりながらユリウスが振り向くと、左耳に紺瑠璃を嵌めた耳飾りが重々しく揺れた。
「急な用で、友人に会いに行きます」
「ほう、そうかね。黒い都ならあちらの方角だ。旅に慣れた人の足なら、そうさな、五日もあれば、到着するだろう」
 家の主人はユリウスについて家の外まで見送りに出た。
「馬は、本当に要らんのかね?」
「ええ。数日間、かなり急いで走らせ続けましたから、休ませてやらなければ。それに、宿を提供してくださったあなたへのお礼もしたい」
「そりゃあ、うちは馬があれば助かるが……」
 農夫は、惚れ惚れとユリウスの美貌を眺め、そして素朴な笑みを見せた。
「気をつけて行きなされよ」
「ありがとう」
 漆黒の外套を翻し、ユリウスは歩き始めた。

 ノックの音が高く聞こえ、王子ユリウスははっとした。
 ──もう朝か。
 黒曜公の居城・黒耀城に感じる死の穢れのため、王子は万物に宿る精霊たちの声をうまく聞き取ることができないでいた。
 扉が開けられ、軽やかな足音が部屋へ入ってきた。
「まあ、お休みにならなかったのですか?」
 若い女の声だった。
「誰だ?」
 女の気配がわずかに戸惑いを見せた。
「あの──あなた様は眼が……?」
 ユリウスは気配のするほうへ向き直って、数歩、進んだ。
「見ての通り私はめしいだ。──そなたは?」
 立ち止まり、手を伸ばすと、そこに女の顔があった。
「ずいぶん勘がよろしいのですね。とても眼の見えない方の歩き方には見えないわ」
 女は笑って、自分の頬に触れたユリウスの手を取り、自らの顔を触らせた。
「あたしの顔が判りますか?」
「ああ。とても美しい顔立ちをしている」
 ユリウスの手の中で女が微笑んだ。
「黒曜公に仰せつかってまいりました。あたしは、あなた様と、あなた様のお連れ様のお世話をするように命じられた者です」
「侍女か?」
「いいえ。あたしは黒曜公の小姓を務めております。でも、女ですの。ユリアとお呼びください」
 ユリアと名乗った女に案内されて、王子ユリウスとディディルは食堂に連れていかれた。
「申し訳ありません。セラフィム様とはお食事が別になります。お客様に対し、とても失礼に当たりますが……」
「いや、ユリア。私は公につきっきりで相手をしてもらうような類の客ではない」
「……」
 刹那、困惑したようなユリアの気配に、ユリウスは怪訝な表情を浮かべた。
「そなたは、私が何者なのか、知らぬのか?」
「あの……身分の高いお方なのでしょう? どこかの国の王子様だとか」
「名も聞いておらぬのか?」
 困ったようなユリアの様子に、ディディルが驚いた顔を見せた。
 世話係をつけたのは監視の意味だと思ったのに──黒曜公の意図が解らない。
 しかし王子は、翡翠色のやさしい瞳をユリアへ向けて微笑んだ。
「私はユリウスという。そなたと同じ名だ」
「まあ──
 “ユリア”は“ユリウス”の女性形である。
「この子はディディル。方士だ」
 ユリウスのために椅子を引き、彼を座らせたあと、ディディルは微笑を浮かべてユリアに軽く会釈をし、隣の椅子に座った。
 セラフィムがいつも食事をする食堂とは別の部屋だったが、この部屋もまた、豪奢であり、凝った内装が施されてあった。
──だが、どこの王子か知る必要はない」
「ユリウス様に、ディディル様……」
 名を反復するユリアに、ディディルが首を振った。
「ディディルと呼んでください。わたしは貴人ではありません」
 金褐色の髪を双髻そうけいに結った可愛らしい方士を、ユリアは微笑ましく見つめた。
「では、ユリウス王子様、ディディル、お食事にいたしましょう」
 ユリアが小さな鈴を振ると、奥から金髪の侍女が数名、しずしずと朝食の皿を手に持って、現れた。

 その頃、黒曜公セラフィムは彼専用の食堂で朝食を取っていた。
 公の傍らに控えるのは一人だけ──真っ直ぐな黒髪を切りそろえた人形のような少年の姿がそこにある。
「食事の際にユリアがいないのはお寂しいですか?」
 給仕をする黒髪の小姓のからかうような口調に、セラフィムは苦笑を洩らした。
 黒曜公の食事の相手を務めるのはユリアの役目であった。
「代わりにおまえがいる」
 小姓は妖しげな微笑を口許に浮かべ、
「思わぬ収穫でしたね。冬将軍の捜していたレキアテルの王子が黄色い石の持ち主だったとは……」
 黒曜公は小姓頭の整った顔を鋭く見遣った。
「おまえは王子に会ったのか?」
「物陰から姿を確かめただけです」
 ゆるやかに笑い、少年はワインのゴブレットを持つ主人のほうへ思わせぶりな視線を投げた。
「冬将軍は、ユリウス王子を石の持ち主と見做して、行方を追っていたのでしょうか」
「偶然とは思えん」
「セラフィム様はご自身が全ての宝珠を手中にしようとは思わないのですか?」
「冬将軍に対抗してか?」
 セラフィムはゴブレットを卓子の上に戻した。
「おれにはそんな必要はないし、それが実際に可能なこととも思えん」
「……」
「たとえ冬将軍が全ての石を手に入れたところで、石の持ち主を選ぶのはそれぞれの石に属す珠精霊たちだ。冬将軍一人が四人の珠精霊を、果たして扱いきれるだろうか」
「……無理でしょうね」
 黒髪の小姓は、手にした小さな酒壺から黒曜公のゴブレットにワインを注ぎながら、つぶやいた。
「少なくとも、緑の石・翠珠を従わせることは不可能だ」

* * *

 太陽が天頂に昇る頃、巡礼のユリウスは、オリーブ畑の一角に足を休めていた。
 泊めてくれた農家の主人が、弁当を包んでくれた。
 パンと干し肉の簡単なものだが、その心遣いがありがたい。
「ユーリィ」
 彼の使い魔が、前方の木立ちの陰から駆けてくる。
「向こうに野生の木苺が群生していたわ。ほら」
 そう言って、両手いっぱいに載せた熟れた果実をあるじに差し出した。
「へえ、美味しそうだね。昼食にするか」
 ユリウスと青珠はオリーブの木の下に並んで腰を下ろし、弁当の包みを開けた。ユリウスが広げた白い手巾の上に、青珠が採ってきた木苺を置いた。
 穏やかな昼下がりだ。
「翠珠のこと、何か教えてくれないか?」
 しばらく無言のまま食べることに専念していたユリウスだが、ふと思い出したように言葉を発した。
 青珠がちらとユリウスを見た。
 通常、精霊は食物を必要としないが、ユリウスに付き合い、彼女も木苺をつまんでいる。そのとき、不意に青珠の瞳の中に揺らめいた不安めいた翳のようなものに、ユリウスは気がついた。
 まるで、何か禁忌に触れることを恐れるような──
 恐れる? ──青珠が?
 まさか、そんなことはあるまい。
 自分の勘違いだろうとユリウスは軽く頭を振って、青珠が話し出すのを待った。
「翠珠は、とても操りにくい精霊なの」
 と、青珠はゆっくりと話し始めた。
「紅珠が火、黄珠が風、青珠が水、といった具合に四宝珠はそれぞれが自然界の大いなる力を結晶にした石であり、翠珠のそれは“地”」
 さりげなく青珠の様子を見守りながら、ユリウスは木苺をつまんで口に入れた。
「珠精霊最大の力を持つのは紅珠だけれど、一方、地の力を結晶した石である翠珠は、負の力を御するのを得意としている。そういう意味では、翠珠は紅珠以上に厄介な精霊かもしれないわ」
「負の──力……」
 青珠はうなずいた。
「紅珠は光の力に属し、翠珠は闇の力に属している。この二人は対極なのよ」
「四魔神は、それぞれが対等の力を持つ石を所有していたのだと思っていたが?」
 四魔神はあらゆる意味で対等だったはずだ。
 だからこそ、大陸を四分割した帝国があったのだ。
「いろいろな意味で、黒牙帝セイリウは特別だった。四宝珠を集めれば、世界を支配できると考えたのもセイリウ」
「四魔神を統率していたのは朱羽帝ヴァルクだろう?」
「ええ。でも、魔神たちは必ずしも仲がよかったわけじゃない」
「四魔神の力の均衡が崩れたのは、朱夏──傾国のファティマの出現が原因じゃなかったのか?」
「直接的な原因はそうだけど、セイリウはそれ以前から、ヴァルクを出し抜こうと企んでいたふしがあるわ」
 少し口をつぐみ、青珠は澄んだ青い瞳でユリウスの顔を探るように見つめた。
「ねえ、ユーリィ。あなたは、四宝珠は全て同じ姿をしていると思っている?」
 ユリウスは青珠の言っている意味が解らなかった。
「同じ姿? 全て石だろう?」
「そうじゃなくて。一見して違う点が、緑の石にはあるの」
「違う点?」
 青珠はうなずいた。
 蒼い髪が清流のようにさらさら流れた。
「宝石のように見える石という点ではどれも同じ。でも、黒牙帝の緑の石だけには、ペンタグラムが刻まれているの」
「ペンタグラムが……?」
 ユリウスは軽い驚きにその碧い眼を見開いた。
「刻まれているって──石の表面に?」
「石の中に。セイリウは地の力の結晶を作るとき、他の石にはない力を、その緑の石に密かに込めたのよ」
 初めて知った緑の石の真実の姿。
 しばし呆然と、ユリウスは青珠の静かな顔をただ見つめ返していた。
 四大元素を結晶にした石というだけでも大変な代物なのに、緑の石にはさらにペンタグラムが刻み込まれているという。
 それが意味すること──その重大性を考えるのが怖くもあった。

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2005.4.6.