黒耀城の舞姫

2.

 黒耀城での時間は、ただ無意味に過ぎていくように王子ユリウスには感じられた。
 レキアテルからの客人に与えられた部屋は、三部屋の続き間だった。
 中央に広々とした居心地のいい居間があり、居間の左右にはそれぞれ寝室へと続く扉がついている。
 片方が王子ユリウスの、そしてもう片方がディディルの寝室だ。
 ここは、自分たちの牢獄。
 だが、いつまでも囚われの身に甘んじているつもりはない。
 ──黒いユリウスが黒い都に到着するまで──
 王子ユリウスは、そう期限を決めていた。
 それまでに、少しでも多くの緑の石に関する情報を得なくては……

「ユリウス様」
 寝室の扉を開けると、居間には二人の人間の気配が動いた。
 よく知る小さな方士の気配と、もうひとつは──
「ユリア? そなたもそこにいるのか?」
「はい、ユリウス様。ディディルに裁縫を教えているところです」
「裁縫?」
「小さい方士さんに何かしたいことはと尋ねたら、生活の役に立つことを覚えたいとおっしゃって」
 ディディルの可憐な声があとを引き取った。
「だって、これからはユリウス様のお世話はわたしの仕事ですもの。実用的な知識を少しでも多く身につけておかなければならないわ」
 ユリウスは、今まで王子という身分に何の疑問も抱かず甘えてきた自分自身に、強く不甲斐なさを感じた。
「ディディル、そなた……」
 言葉をつまらせて少女に近寄ると、少女が立ち上がる椅子の音がした。
「ユリウス様、これはディディル自身のためでもあるのです」
 ディディルの小さな手がユリウスの手を取る。
「ユリウス様はユリウス様の信じられる道を生きていこうとされています。ディディルもまた、自分の道を歩く準備をしているのです」
「そなたの、道……?」
「生涯、ユリウス様の眼になります」
「……!」
 ユリウスは、十四歳の少女の決意が並々ならぬものであることを感じた。
 人の心の機微に敏感なユリウスには、ディディルの想いが、単なる主従の枠を超えたものであることが解っていた。
 しかし、ユリウスにとって、ディディルの存在は愛すべき妹という域から出ることはないだろう。
「いいえ、何もおっしゃらないで」
 ユリウスの心を読み取ったように、ディディルは彼の思考をさえぎった。
「解っています。わたしのわがままだと。でも、今はやりたいようにさせてください」
「……」
 ユリウスには言うべき言葉が見つからなかった。
 ただ、黙って少女の頭を撫でた。
 そんな二人の様子は、ユリアの目にはどう映っただろう?
 彼女は彼らの事情を知らなかったし、黒曜公からも詳しいことは何ひとつ知らされてはいなかった。
 一国の君主のお客様が毎日をどう過ごされるのか、あたしにはよく解らないけど──とユリアは心のうちでつぶやいた。
 たいていは、毎晩、饗宴が催されるのではないだろうか?
 ユリアは、哀しそうに見える彼らをなぐさめてあげたい気持ちが強かった。
 二人には気を紛らわせるものが必要だ。
 ただ滞在しているだけではつまらないだろう。
 客人たちが城の外へ出るのを許されていないことは、ユリアにも伝えられていた。
「そうだわ、あたしが歌ってさしあげたら……」

 広大無辺な黒耀城の内部を捜し廻って、ユリアがセラフィムをつかまえたのは、それから数時間後のことだった。
 ユリアの申し出に、黒曜公は怪訝な様子で眉を上げた。
「客人をもてなしたい?」
 天井の高い回廊に人影はない。
 ひっそりとした空間に、セラフィムのよく通る声が響いた。
「妓館のやり方でもてなしたりしたら、王子がびっくりするぞ?」
 ユリアは微かな羞恥を覚えて顔を赤らめた。
 場末の酒場の踊り子だった彼女を、彼が娼妓だと思っていることは明白だ。そしてそれは事実なのだ。
「王子様に対して、無礼を働くつもりはありません。ただ、徒然のおなぐさめになればと思います」
「それで、歌を?」
「はい」
「舞は舞わぬのか?」
 ユリアは驚いてセラフィムの顔を見つめた。
「王子様が眼がお悪いことは、セラフィム様もご存知でしょうに」
「あの小さな方士殿に見せてやればよいではないか。おまえの舞はどんな貴人に見せても恥ずかしくないものだ」
 思わぬセラフィムの言葉に、ユリアは胸が躍るのを感じた。
「……本当に?」
「嘘は言わぬ。今夜、晩餐のときに歌と舞を王子に披露するなら、私も同席しよう。私もおまえの舞が見たい」
「ありがとうございます」
 セラフィムが自分の舞を見たいと言った。
 嬉しさに顔を輝かせ、ユリアは歌と舞の準備のため黒曜公の前から退出した。
 そんな彼女の後ろ姿を見送る黒曜公の脳裏には、別の思惑が渦巻いていた。
 ユリアのもてなしに対し、王子はどう応ずるだろう?
 その心遣いに感謝し、他者の眼を借りてでも彼女の舞を見ることが礼儀だと考えるかもしれない。
「あわよくば、黄色い石の精霊にお目にかかれるかも知れんな」
 セラフィムの口許に薄い笑みがはりついていた。

* * *

 ユリアの澄んだ美しい歌声が、自らの奏でるリラを伴奏に滔滔と流れる。
 彼女は常の男装ではなく、きらびやかな綺羅を身にまとい、いくつもの宝石で身を飾っていた。

  わが眼には、かの人は神にもひとしと見ゆるかな、
  君が向かいに坐したまい、いと近きより、

 愛する者が別の男に向かい合っていることへの嫉妬を歌った歌だ。
 「かの人」の前に座っている「君」を「われ」が見ている。
 しかし、王子ユリウスには、それがユリアの愛の叫びに思えてならなかった。
 彼女の心の奥底に秘められた想い。
 「かの人」は黒曜公。
 「君」もまた黒曜公。
 二人の黒曜公がそこにいて、そして、「われ」ユリアが彼への想いを激しく、切なく歌い上げている。

  はたまた、心魅する君が笑声にも。まこと、
  そはわが胸うちの心臓を早鐘のごと打たせ、
  君を見し刹那より声は絶えて
  ものも言い得ず、

 ──ああ、そうなのか。
 ユリウス王子はわずかに眼を伏せた。
 ユリアは黒曜公のことを──

  冷たき汗四肢にながれて、身はすべて震えわななく。
  われ草よりもなお蒼ざめいたれば、
  その姿こそ、わが眼にも息絶えたるかと
  見えようものを。

 黒曜公への恋慕──
 ユリウスは自分の隣に座っているセラフィムの気配を窺った。
 彼は知っているのか? ユリアの想いを。
 不意に、自分の左右でわきおこった拍手の音に、ユリウスははっと我に返った。
 右側でディディルが、左側で黒曜公が、手を叩いている。
「いかがかな、王子。我が城の歌姫の歌は」
 真面目くさって言葉をかける黒曜公の菫色の瞳が、からかうような色を湛えてユリウスを見ている。
──遠い、西方の国の古い歌ですね」
「ご存知なのですか?」
 ユリアの華やいだ声が返ってきた。
「ええ。ユリアが歌うと、全く違った歌に聞こえる」
「?」
「いや、心のこもった美しい声だという意味だよ」
「ありがとうございます」
 ユリウスとディディルに向かって、ユリアは優雅に一礼した。
 ユリアの背後に、楽器を携えた五人の美しい金髪の娘たちが登場し、控えた。
 一人がリラを抱え、一人がキタラを抱え、三人がアウロスを構えている。
「では、次に方士殿にユリアの舞をお目にかけよう。先ほど、ユリアを歌姫と称したが、彼女は歌以上に舞の名手だ。舞姫と呼ぶほうが相応しいかもしれない」
「まあ、舞の……?」
 どこの国の王宮にも、たいていおかかえの宮廷楽士がいるものだが、楽士の活躍する場に方士が居合わせる機会はまずない。
 ディディルは見たことのない娯楽に少々興奮気味だった。
「音楽を」
 黒曜公の合図に、ユリアの背後に控える娘たちが楽器を奏で始めた。
 優美な、ゆるやか音色が広間を満たす。
 ふと、ユリウスは眉を上げた。
 ──この曲調は、後宮の舞ではないか……?
 妓館で育ったユリアの知る舞の音楽は、王子には後宮で奏でられるものに似ていると思われた。
 それに、ディディルから説明を受けたユリアの出で立ちは、どう考えても後宮風の装いだった。
 だが、故国において後宮など見たこともないディディルには、舞にそのような種別があるなどとは知るよしもなく、瞳を輝かせてユリアの舞姿に見入っている。
 後宮の音楽。
 後宮の舞。
 ふと、王子ユリウスの脳裏に疑問が湧き上がった。
 すると、ユリアは後宮の女性なのか──

≪ prev   next ≫ 

2005.4.8.

【参考図書】 サッフォー作品31番(沓掛良彦/訳)