黒耀城の舞姫
3.
しかし、まさか黒曜公が、自分の寵姫に囚われ人の世話を命じるなどということはないだろう。どうもよく解らない。
そしてユリアは、自らを黒曜公の小姓だと言っている。
ユリアと黒曜公との関係は──?
「ユリウス王子」
椅子から身を乗り出して、セラフィムが王子の耳元に唇を寄せ、そっとささやいた。
「ユリアはそなたのために舞うのだ。見てやらなくてよいのか?」
その言葉の意味に気づき、ユリウスはいつもはやさしい翡翠色の瞳をわずかに険しくさせた。
「私に見させるため、ユリアに舞わせたのか……?」
王子ユリウスは、一瞬にしてセラフィムの思惑を見抜いていた。
彼の目的は黄色い石の精霊を出現させることだ。
黒曜公が、わざわざ自分たちのために饗宴の席を設けたことを訝しく思っていたユリウスは、これで公の狙いが判ったような気がした。
自分が翠珠の気配を掴めないのと同様、セラフィムもまた、黄珠の気配が掴めないのだ。
石は、こんなに近くにあるのに──
「私が、黄珠の眼を借りないのにはそれなりのわけがある」
ユリウスは低い声で答えた。
「ここに彼女が実体を現したとき、城内に満ちている負の力が彼女にどう影響するか、予測ができない。あえて危険を冒す気はない」
王子は黒曜公の挑発をきっぱりとはねつけた。
「ユリアには申し訳ないが、今、この場で精霊の眼を借りることはできぬ」
セラフィムは思わせぶりににやりと口許をゆがめた。
「ふん、今ここでは駄目か。だが、そのうちきっと、おまえはじかにユリアを見たくなる。彼女の純真な想いに触れるうち、彼女の顔を、その姿を、映像として見ずにはいられなくなる。──それが黒耀城の中であってもな」
「……」
どこまで確信があるのか、強気な宣言であった。
「まあよい。今宵は耳だけでユリアの舞と音楽を楽しんでいってくれ」
二人の青年のそれぞれの思惑や葛藤など知ることもなく、黒曜公国随一の舞姫は、優雅に、流れるように美しく、また羽のように軽やかに、弦と管の美しい調べにあわせて舞い続けている。
ユリアのまとう綺羅の衣擦れの音と、ユリアの身を飾る数多の宝玉の揺れる音が、王子の鼓膜を震わせる。──惑わせる。
美しい舞姫の舞姿を見たいと思った。
しかし、それには危険が伴う。
下手に黄珠を呼べば、この城が発する負の魔力に、黄珠の動きが封じられてしまう恐れがある。
いかにユリアの姿が見たくとも、そんな無謀なことはできなかった。
先を急いだため、日が暮れたとき、巡礼のユリウスと青珠は人里離れた森の中にいた。せせらぎを見つけ、その場に火を焚き、野宿を決めた。
焚火の傍らに、二人は寄り添うように座っていた。
辺りを闇が覆う中、赤い炎の揺らめきと、それに照らされた二人の影だけが、影絵のように妖しく揺れている。
青珠が頭をユリウスの肩に預けている。
その重みが心地いい。
ユリウスの左腕は青珠の肩に廻され、彼女をしっかりと抱き寄せていた。──そのユリウスらしからぬ所作が、彼の王子ユリウスへの不安を物語っている。
「珠精霊って、なんだ?」
ふと、ユリウスがつぶやいた。
「四宝珠を護るために生み出されたものなのか、四宝珠を持つ者を護るために存在するものなのか」
「……」
「珠精霊の召喚は、人間にはほぼ不可能だという言い伝えを聞いたことがある」
「だって、もともと石は四魔神のために創られたものだもの」
「なのに、おまえはロズマリヌスの召喚に応じた」
「彼は、わたしにとって特別だったわ」
青珠は炎に照らされたユリウスの美しい顔を見上げ、ふっと笑んで、主を安心させるため、その陶器のような頬に軽く唇を当てた。
「でも──」
「解っている。今、青い石は僕のものだ」
青珠の肩を強く抱き、ユリウスも、彼女の額へやさしい口づけを返した。
神代、精霊の宿り石は、現在とは別のものに象嵌されていたという。
赤い石は、黄金の王笏に。
黄色い石は、青銅の短剣の柄に。
青い石は、玻璃の聖杯の底に。
緑の石は、大きな金貨の中央に。
そして緑の石が象嵌されていた金貨には、二重の円に囲まれた五芒星が刻まれていたという。
「二重の魔法陣による、それは護符のようなもの」
と、青珠は言った。
「五芒星が刻み込まれた石を、やはり五芒星の刻まれた金貨に象嵌する。それは、セイリウの意志を閉じ込めた結界なの」
現在の石は、千年もの流転の時期を経て、それぞれ、魔神たちが所有していた当初とは違ったものに象嵌されている。
赤い石は、銅細工の腕輪に。
黄色い石は、金のサークレットに。
青い石は、燻し銀の耳飾りに。
「でも、四大帝国が滅び、セイリウが滅びたあとも、ずっと黒牙帝の血脈に緑の石が受け継がれていたのだとしたら」
青珠の低いつぶやきが漣のように漂った。
「緑の石だけは、黒牙帝の時代と同じく、金貨に象嵌されたままかもしれない」
二重の魔法陣が護るセイリウの意志。
その意志は、五芒星に護られ、現在も生き続けているのか?
* * *
目覚めたとき、陽はすでに高かった。
「お目覚めですか、ユリウス王子様」
「……ディディルは?」
「今日は料理を習いたいと、朝から城の厨房にこもっておられます」
「そうか」
ユリアは、寝台から降りた王子の身支度を手伝った。
「今日も男装だね」
「普段は、いつも男装ですわ」
小姓ですもの、とユリアは微笑んだ。
「とてもよいお天気です。朝食はこちらにお運びしました。露台で召し上がってはいかがですか? 風が気持ちいいですわ」
──ああ、花の香りがする。
黒耀城を取り巻く自然は、こんなに穏やかな、平和な大気に満ちあふれているというのに、黒耀城内の空気の、なんと澱んだことだろう。
居間の露台に出て、春のそよ風を頬に受けながらの食事は気持ちよかった。
「どうぞ」
と、ユリアは食後に薔薇茶を出した。
「よい香りだ」
「黒耀城には薔薇の園があります。そこで摘んだ薔薇ですわ」
薔薇──魔術には欠かせない花だ。
ユリウスは硝子の平たい杯を手に持ち、薔薇茶をひとくち含んだ。
口中に甘い香りが広がる。
王子は、何気なく、傍らのユリアに意識を移した。
──不思議だ。
この城には死の穢れが満ちている。
黒曜公以外の召し使いたちからも、昨夜、楽を奏した娘たちからも──黒耀城に属す全ての人間から、それを感じる。
しかし、ユリアにだけはそれがない。
「ユリア」
薔薇茶の杯を卓子に置き、ユリウスはユリアのほうへ顔を向けた。
「夕べは、せっかくのそなたの舞を見ることができなくて、すまなかった」
「何を仰せです。歌を褒めてくださっただけで、あたしには身に余る栄誉ですわ」
「こんなことを……訊いて、気を悪くしないでもらいたい」
ユリアは問うように王子を見つめた。
「そなたは──黒曜公ご寵愛の女性か?」
彼女は驚いた。
「まさか! あたしは、ただの小姓に過ぎませんわ」
言って、その自分の言葉に、ユリアは少なからず惨めな思いを味わった。
公に寵愛されているのは、黒髪の小姓頭──クロロスだ。
女でのお気に入りは……誰だろう? 特定の寵姫はいないようだが、夜、黒曜公の寝室に夜伽のための女性が呼ばれるところを目撃したことが何度かある。
いつも決まった女性ではない。
この城に後宮はないが、侍女の何人かを、公は寵愛しているといえるだろう。
表情を失って、ユリアはうつむいた。
「……ユリア? 何を哀しんでいる?」
ユリアははっとした。
なぜ、王子に自分の心の動揺が伝わってしまったのだろう。
「そなたの心の哀しみが伝わってくる」
ユリウスは椅子から立ち上がり、少し離れた場所に控えていたユリアのもとまでゆっくりと歩んだ。
「だが、私の心は──そなたに伝わるだろうか」
眼の見えない王子に向かって思わずユリアが差し出した手を、王子は掴んだ。掴んだ手をそっと引き、ユリアとの距離を縮めた。
「そなたの顔に……触れてもよいか?」
「は──はい、ユリウス様」
妖しいときめきが、ユリアの胸を満たす。
ユリウスの両手がユリアの顔を包み、その指がユリアの額を撫で、頬を撫で、唇に触れた。
「ユ……リウス、さま……」
王子のやさしい愛撫に身を任せるユリアの口から、声にならないつぶやきが甘い吐息となってこぼれた。夢見るように瞼が閉じられた。
流れるような自然な動作で、王子はユリアの唇に自らの唇を重ねた。
そっと、彼女の唇をついばむような動き。
まるで壊れやすい大切なものを扱うような──
これまで、こんなにもやさしい口づけを与えてくれた人はいなかった。ユリアは、わけもなく無性に哀しくなった。
「王子様は、あたしの出自を知って、こんなことをなさるのですか……?」
「そなたの出自など知らぬ。今ここにいるそなたを愛しく思った。それだけだ」
そしてもう一度、王子はユリアの額に口づけた。
「そなたはこの城でただ一人、無垢な存在だ。私は、そなたほど純粋な心を持つ者を知らない」
「あたしが──純粋……?」
ユリアは王子がなぜそんなことを言うのか解らなかった。
娼妓であった自分が無垢なはずがない。むしろ──穢れた存在だ。
2005.4.11.