黒耀城の舞姫

4.

 ユリアは困惑した。
 無垢なのは王子のほうだと思った。
「ユリア、菫色が好きか?」
「……?」
「そなたが夕べ歌ってくれた詩は、菫色の髪の詩人が作った」
「まあ……」
「そして、そなたは菫色の瞳に恋している」
──
 黒曜公の瞳の色。
 否定しようとして、ユリアは躊躇った。
 違うとは──言い切れない。
「それでもいい。どうやら私は、そなたの無垢な心に惹かれているようだ」
 突然の王子の告白に驚いて、ユリアは王子の手の中から逃れようと思ったが、思考とは裏腹に身体を動かすことはできなかった。
 ユリアの顔を包んでいた王子の両手が彼女の肩に置かれ、さらに背中に廻された。廻した腕にやわらかく力が込められる。
 ──高潔な、やさしい方。
 それが、王子ユリウスに対するユリアの印象であった。
 それでも、王子の腕の中にやさしく抱きしめられながらも、ユリアはただ物悲しい想いでいっぱいだった。
 いっそ王子の想いに応えることができるなら、どんなに楽だろう。
 彼なら、自分を娼妓としてではなく、一人の女性として認め、誠実に愛してくれるだろう。
 でも──と、彼女は思った。
 あたしはセラフィム様に出逢ってしまったのだ。
 春風のようなやさしさを湛えた翡翠色の瞳ではなく、彼女に無関心な謎多き菫色の瞳に恋してしまったのだ。
 娼妓としてでもいい。
 ユリアは、セラフィムに自分を求めてほしかった。
 ユリアが初めて自分から愛し、求めた男は、皮肉にも、ユリアに何の興味も関心も持っていない男だった。

 激しく心をかき乱されたユリアは、自分の部屋へ逃げ帰ったが、どうやって王子のもとを退出してきたのかさえ覚えていない。
 ばたん、と部屋の扉を閉め、その扉にもたれかかる。
 顔が熱い。火照っている。
 王子ユリウスに口づけされ、抱きしめられた感触が、まだ全身に甘い痺れをもたらしている。
 ユリアはその場に崩れるように座り込んだ。
 妓館にいた頃、ユリアにとって男とは春を売るだけの相手──それがどんな男であれ、ただわずらわしいものでしかなかった。
 所詮、妓館を訪れる男たちの目当ては娼妓の躰と決まっている。
 男なんて肉欲だけの汚らわしい生き物。そのくせ、妓館へ通う自らの行為を棚に上げ、あたしたち娼妓を侮蔑の眼差しで見る。
 彼女はそういう世界に育ってきた。
 それなのに──
 正直、自分にこんな感情が残っていたことにさえ驚いている。
 こんなにも惑乱するのは、ユリウス王子がしたことだから?
 それとも、黒曜公の存在のせい……?
 ユリアがこの城へ来てからすでに九ヶ月ほどが経つ。
 その間、黒曜公は、彼女の躰に指一本ふれようとしなかった。
 あの方だけは別。
 あたしを娼妓と知りながら、侮蔑の視線も、嘲るような態度もなかった。
 あの方だけは……
 ユリアは、今さらながらに、セラフィムに深く心を奪われてしまった自分自身を思い知らされた。
 ユリウス王子の気持ちは心の底から嬉しいと思う。
 何の先入観もなく、今ある自分に好意を寄せてくれた。
 でも。
 あたしの心は、セラフィム様のものだ。

 ノックの音がした。
「誰だ?」
「私です、セラフィム様」
 黒曜公の執務室の扉を開けて入ってきたのは、異国的な風貌を持つ、黒髪黒眼の小姓頭であった。
「面白い展開ですね」
 含みを持たせた声音で、彼が言う。
「王子がユリアに想いを寄せるとは」
「覗き見か? 悪趣味な奴だな。……まあ、だが驚くほどのことでもないだろう」
 小姓は面白そうに形のよい眉を上げた。
「王子に媚薬を?」
「いや。王子のような人種には、娼妓が新鮮だったんじゃないか?」
「王子は彼女が娼妓だとは知りませんが」
「人の育ちとは、おのずとその挙措に表れる」
 執務用の卓子に向かっていたセラフィムは、考えるような表情をして、卓子の上に右肘をつき、掌に顎を載せた。
「しかし、ユリアが王子の意識を逸らしていてくれるなら」
 セラフィムは上目遣いに小姓を見遣り、にやりと笑った。
「あの方士殿を使おう」
「ディディルを?」
「王子はユリアに惹かれている。ディディルとしては心穏やかではないだろう。今なら、ディディルの心の隙をつくことができる」
 黒髪の小姓はうなずいた。
「小娘は、おまえがうまく操れ」

 黒髪の少年が黒曜公の執務室を退出したとき、回廊の向こうからこちらへやってくるユリアの姿が目に入った。
 同時に、ユリアも彼の姿を認めたようだ。
「クロロス様」
 名を持たない小姓頭を仮にそう呼べと──ユリアは黒曜公に教えられていた。
「どうしたのだ、ユリア?」
「セラフィム様はこちらにおいでですか?」
「今、執務中だ。邪魔をしてはいけない」
 ユリアは戸惑ったような表情を見せた。
「セラフィム様にお願いがあるのですが……」
「私が代わりに聞こう」
 ユリアは言いにくそうにますます困った顔をした。
「あの……ユリウス王子様のことで……」
「王子様が何か?」
 クロロスのあまりにも冷静な表情と声に、ユリアは落ち着かなさそうに視線を彷徨わせた。
「クロロス様から……セラフィム様にお伝えいただけますか。あたし──王子様のお世話を、誰か他の方に替わっていただきたいのです」
 黒髪の少年は自然に軽い驚きを示した。
「王子様に何か無礼を働いたのか?」
「そんなこと! ……いえ、そうではなくて、ただ……あたしには王子様のお世話をしてさしあげる資格がありません」
「資格があるかないかは、セラフィム様がお決めになる。そなたはそのようなことを気にする必要はない」
 ユリアは、なぜセラフィムがこの少年を重用しているのか、少し理解できたような気がした。
 二人は似ている。
 ものの言い方、考え方──口調までがそっくりだ。
 ただ、黒曜公に比べて黒髪の少年のほうは、その表情や声の抑揚が人形のような無機質さを感じさせた。──この少年は苦手だ。
「セラフィム様に直接お話ししたいのですが……」
「おそらく、セラフィム様の答えも同じだろう」
 たぶん──そうだろう。
 ユリアは諦めた。

 露台に取り残された王子ユリウスは、ぼんやりと午後の風に吹かれながら、後悔にも似た自責の念を噛み締めていた。
 ユリアに突然あのようなことをしたのは間違いだったのだろうか。
 彼女は明らかに惑乱していた。
「……」
 気がついたら彼女に接吻していた。
 ──暗闇でひとすじの光を求めるように。
 ──砂漠で清らかなオアシスを求めるように。
 ユリアは自分の出自がどうとか言っていた。
 それは、ユリウス自身にも当てはまる言葉だったろう。
 彼女はユリウスの出自を知らない。
 どこの国の王子なのか、どのような星のもとに生まれたのか、その出生にまつわる王家の醜聞も……
 だからこそ、己の運命に定められたしがらみに捕らわれることなく、素直に彼女への想いを口にすることができたのかもしれない。
 でもそれは、一方的に愛を押し付ける形になってしまったのではないだろうか。
 ただ、惹かれていると──
 ユリアが誰を好きでも構わない。
 それでもなお彼女に惹かれているのだと、それだけを伝えたかったのに──
 自分が動揺しているのが解る。
 沈鬱な思いで、王子ユリウスは露台の石の勾欄にもたれ、静寂にひたりながらぼんやりと立ちつくしていた。
「まあ、ユリウス様! どうなさったのです? お一人で」
 はっとした。
 ディディルが部屋に戻ってきたのだ。
「ユリアは? あの人がユリウス様に付き添っていてくれる約束だったのに」
 ディディルはユリウスのいる露台まで出てきた。
「まあ、それに、お食事されたあとの食器もそのままではありませんか。誰か呼んで、すぐに片付けさせましょう」
 幼い方士は、王子の様子がいつもと違うことには気づかない様子だった。
 侍女を呼んで食器を下げさせるため、彼女はすぐに踵を返して部屋を出ていった。
 少女の軽やかな足音が遠ざかるのを、ユリウスはじっと耳を澄まして聞いていた。
 ふと、ディディルのことを考える。
 ユリアを愛しかけていると認めることは、ディディルを裏切ることになるのだろうか。
 ディディルはこんなにも、自分一人につくしてくれているのに。
 ディディルの気持ちを……知っているのに。

 ──そのうちきっと、おまえはじかにユリアを見たくなる──

 これはセラフィムの策略なのだろうか。
 黒耀城の舞姫の、まだ見ぬ舞姿に恋してしまったのだと、ユリウスは思った。

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2005.4.12.