重すぎる罪
1.
今、眺めのよい丘陵地に立っている。
彼方に、防壁を張り巡らせた都市が見えた。
「あれが……!」
気持ちが高揚するのが解る。
それは、まぎれもなく城塞都市の様相を呈していた。
防壁に護られた都市の周りを美しい田園地帯が取り囲むように広がっている。
ユリウスの傍らで青珠がうなずく。
「あれが、黒い都ね」
王子ユリウスがいるはずの都。
とうとう辿り着いたのだ。
丘陵を下りると、そこに小さな神殿があるのが目に入った。
すでに使われていないのだろうか。
ひっそりと、時間に取り残されたようなたたずまいである。
「ケレス神殿か」
ユリウスは、真っ直ぐ拝殿の正面に向かった。青珠が彼に続く。
「入るの?」
「当然だろう? 僕は巡礼者だ」
建物の中は深閑としていたが、寂れた様子はなく、きれいだった。
祭られているケレス女神の神像の保存状態もいい。
廃殿ではなく、ただ神官や巫女が留守をしているだけのようだった。
豊穣の女神の像の前にひざまずき、一通りの祈りを捧げてから、ユリウスは立ち上がって拝殿を出た。
拝殿の近くに神官の宿舎らしき四角い建物がある。
人がいるのか確かめようとして、何気なくユリウスは扉を開けた。
無人だった。
ユリウスはそのまま扉を閉じ、立ち去ろうとしたが、ふと、彼の視界に正面の壁画が飛び込んできた。
それは精巧なモザイク画だった。
中央に大地母神・ケレスの姿が描かれ、その隣に、女神から恵みを受けるように、片膝をつく一人の青年の姿があった。背景は一面の葡萄の園である。
「──これは……!」
その絵にユリウスは駆け寄った。
「セラフィム──?」
確認するようにつぶやいた声は掠れていた。
絵に描かれた人物を食い入るように見つめる彼の背後に、青珠がそっと近寄った。
「知っている人?」
「友達に──昔、友達だった奴に、似ているんだ」
「友達……あなたの──?」
「傭兵をしていた頃、一緒だった。なぜ、彼の絵が──」
絶句するユリウスの傍らで、青珠は静かに絵を見上げた。
神から恵みを受ける貴人の姿は、昔からよく描かれる題材だ。
しかし、昔の絵と決め付けるには、壁画の状態も建物そのものも新しい。制作されてからせいぜい二、三年だろう。
「いや、セラフィムのわけがない。彼は孤児で、ずっと傭兵をして生きていたんだし、こんな絵に描かれるような身分じゃない。それに──」
「それに?」
ユリウスは虚ろな瞳で壁画の青年の顔を見つめた。
「彼は三年前に死んでいる。……僕が殺したんだ」
黒耀城に囚われの身となって、五日。
王子ユリウスは、巡礼のユリウスと自分との距離がどんどん近づいてきていることを感じていた。
「黒いユリウスがこの都のすぐ近くまで来ている」
この城の持つ何か得体の知れない力──それには大きく翠珠が関係していると、ユリウスは疑わなかった。
翠珠に──黒耀城に満ちるこの死の穢れに、黄珠と青珠の二人掛かりなら、対抗することができるだろうか。
地の石である緑の石・翠珠。
緑の石の気配は未だ判らないが、“天の御子”である自分には不可能なことも、“地の御子”である巡礼のユリウスなら、あるいは──
王子ユリウスは、それに一縷の望みをかけていた。
「ユリア」
声をかけられた、ただそれだけで、ユリアはびくっと身体を震わせた。
ディディルは今日も料理を習うために厨房へおもむき、この部屋にはユリウス王子と自分の二人だけしかいない。
「何でしょう、ユリウス王子様」
振り返ると、王子は長椅子にゆったりと腰掛け、椅子の背にもたれかかり頬杖をついて、窓のほうへ顔を向けていた。
「もうすぐ、私はこの城を去る」
「……えっ?」
思いがけない言葉だった。──王子がいなくなる?
「待ってください、王子様。そのようなこと、セラフィム様からはひと言もうかがっておりません」
「黒曜公は許さぬだろうがな……」
王子は他人事のような口調でつぶやいた。
「だが、ここにいつまでもとどまるわけにはいかない。……だから、そなたに別れを告げておきたいのだ」
「別れ──」
「ユリア、昨日のことを謝りたい。そなたの気持ちを無視した軽率な行為だったと思っている」
「──」
何か言いかけて、ユリアは躊躇った。
「たぶん、私はそなたを愛している」
「……!」
「己の気持ちに正直になりたい。しかし、私はそなたの気持ちも知っている。私の想いをそなたに押し付けようとは思っていない」
ユリウスは一旦言葉を切り、花器に花を活けていた彼女のほうへ真っ直ぐに顔を向けて微かに微笑んだ。
「そなたを愛しく思う。この気持ちをそなたに知っていてほしい。それだけだ」
「……」
ユリアの手から早咲きの薔薇が一輪、滑り落ち、大理石の床に淡い桃色の花びらを散らした。
「そなたと別れる前に、それだけ言っておきたかったのだ」
再び、ユリウスは窓のほうへと顔を向けた。
「ユリウス様──!」
たまらず、ユリアは王子のもとに駆け寄り、長椅子に座る王子に覆いかぶさるようにして、その身体を抱きしめた。
「……ユリア──?」
戸惑う王子に構わず、彼女は自分から王子の唇を求めた。
「──!」
驚くユリウス。
しかしユリアは、飽くことを知らない者のように、激しく彼の唇を貪った。
それは、王子が彼女に与えた口づけとは対照的なまでの荒々しさだった。
いつまでも、激しい接吻をやめようとはしないユリアの背に、躊躇いを見せていたユリウスの手が、そろそろと廻された。
二人は長椅子に倒れ込むような形で抱き合った。
ようやく唇を離したとき、ユリウスの頬に雫が落ちた。
「あなたへの気持ちを形にするのに、こんなことしかできないなんて」
彼女は泣いていた。
「あたしは……あたしは娼妓なんです、ユリウス様。あなたに愛される資格なんてない、穢れた女なんです……」
「ユリア──」
「今まであたしに言い寄ってきた男たちは皆、あたしの容姿や娼妓という職業が目的でした。でも、あなたは──あたしの容姿を知らず、あたしの躰を弄ぶこともせず、ただあたしの心を求めてくださった」
ユリアは王子の胸に顔をうずめた。
「あなたの気持ちに応えられないのが悲しい。あなたが好きです、ユリウス様。でも、それ以上に、あの方の存在が大きいの──」
あの方──それが誰を指しているのか、ユリウスにも明白であった。
ユリアの身を抱きとめたまま、ユリウスは長椅子の上に上体を起こした。
「あたしがあなたに差し上げられるものはひとつしかありません。今夜、ユリウス様とともに過ごすことをお許しくださいますか……?」
ユリウスは躊躇った。
「私は、決して無理強いしたくはない」
「あなたへの、感謝の気持ちです」
硝子玉のような、翡翠色の穢れなき瞳を見つめ、ユリアは、今度は静かに、だが深く、王子に口づけた。
部屋の扉が一度開き、そしてまた閉まったことに、王子ユリウスもユリアも気づいていなかった。
震える指を扉の把手からそっと離し、ディディルは一歩、後退さった。
「ユリウス……様──」
たった今、この眼で見た光景が信じられない。
この扉の向こうで、二人は──王子とユリアは、居間の長椅子の上で抱き合い、長い口づけを交わしていた。
その場にただ茫然と立ち尽くすディディルのそばには、黒髪の小姓頭──クロロスと呼ばれる少年の姿があった。
「ディディル……」
「──」
「ディディル、大丈夫か?」
ディディルははっと我に返ったが、動揺は隠せなかった。
「……あ、な、何でしょう、クロロス殿」
「歩けるか? 私の使っている居間がある。そちらへ行こう」
クロロスは銀の盆を持ち、その上には黒苺酒の入ったゴブレットと少しいびつな形をした木苺のタルトが載せられていた。
それは、クロロスに料理を習い、一番最初にユリウスに食してもらおうと、どきどきしながらディディルが作った、初めての菓子であった。
涙も出なかった。
ただクロロスに言われるままに、彼のあとに従って、長い回廊を歩いた。
2005.4.13.