重すぎる罪

2.

 クロロスの私的な居間は、使用人の私室らしく、王子ユリウスに与えられた客室よりもだいぶ質素であったが、小奇麗な、居心地のいい空間だった。
 重厚な木の卓子の上に銀の盆を置いたクロロスは、まだぼんやりと思考が働かないディディルを大きな椅子に座らせた。
 三つある黒苺酒のゴブレットのひとつを、ディディルの前に据える。
「……おまえを前に、こんなことを言うのもなんだが」
 クロロスはディディルの向かいに腰を下ろし、自分も黒苺酒のゴブレットをひとつ、手に取った。
「ユリウス殿下が、まさか侍女を相手にあのようなことをなさるとは」
「ユリウス様はそのような方ではありません!」
 目の前のゴブレットを茫と見据えたまま、ディディルは反射的に叫んだ。
「では、ユリアが誘ったのか。黒曜公のお客人を誘惑するとは、なんということだ」
 ユリアが誘った?
 ディディルは混乱した。
 ユリアはそんなふしだらな女には見えなかった。
「殿下は、ご自身の操られる使い魔の力を借りて、ものを見ることができると聞いたが、本当か?」
「え、それは……」
 ディディルは口ごもった。
 使い魔とは当然、黄色い石の精霊のことだろう。そんな情報を、この黒髪の少年はどこから──
 黒曜公が告げたのだろうか。
「ユリアのあの稀有な美貌を見れば、男なら誰しも心を惑わされるだろうしな」
「いえ、それは……ないと思います」
 この城に来てから、王子は一度も黄珠を呼び出していないはずだ。
 黒耀城が異様な魔の空間であることは王子も口にしていたし、方士である彼女自身、その危険さを肌で感じていた。
「ユリウス様は……ユリアの顔を見ていません……」
 クロロスが顔を傾けると、彼の真っ直ぐな黒髪がさらさらと重力に沿って流れた。
「そうは言っても、見ようと思えばいつでも見られるのだろう?」
 ふと、ディディルの茶色の瞳が不安を湛え、クロロスの人形のような顔を怯えるように見上げた。
「ユリアは絶世の美女だ。殿下がユリアの姿を目の当たりにすれば、殿下の心はますますおまえから離れていくぞ」
「……」
「いいのか、ディディル?」
「それは……」
 ディディルの心は激しく動揺していた。
「ユリウス殿下が、普段、使い魔を封じているものを、おまえは知っているか?」
 びっくりして、ディディルはぽかんとクロロスの顔を見つめた。
 だが、その整った白い顔は静かだ。
 ──何の表情も読み取れない。
「何に封じているかは知らないが、それがなければ、使い魔を呼び出し、その力を借りることもできまい」
 ディディルはうつむき、困惑して自分の手を眺めた。
 この綺麗な少年は何を言い出すのか。
 そんなことをしたら、ユリウス王子の信頼を裏切ってしまうことになる。
「これ以上、殿下の心をユリアに向けさせないためだ。おまえたちがこの城に滞在している間、私がそれを預かっていよう。殿下がこの城を出られて、ユリアと離れてしまえば問題はないのだから」
「……」
「ディディル、私はおまえの味方だ」
 その言葉を聞いたとき、ディディルの眼からはじめて涙がこぼれた。

* * *

 葡萄園の中で、大地母神・ケレスから恵みを受ける貴人の姿を描いた壁画。
 ユリウスの古い友によく似ていたという貴人の顔。

 ──僕が殺したんだ──

 思いがけないユリウスの告白。
 ユリウスの過去というものに想いを馳せ、青い石の精霊・青珠は微かな戸惑いを感じていた。
 考えてみれば、自分はユリウスのことを──何も知らない。
 出逢って、ロズマリヌスの影を重ねて……ともに巡礼の旅を続けてきただけだ。
 彼は青い石のあるじであり、彼女は彼の守護者であり、気がつけば互いに最も愛する存在になっていた。
 それだけでは駄目なのか。
 ロズマリヌスが青い石の持ち主だった過去を初めてユリウスに告げたとき、彼が見せた強張った表情を彼女は思った。
 たぶん、自分も、あのときのユリウスと同じ顔をしている。
 友達を殺したと──彼ははっきりと言った。
 死の影を背負う彼が過去に殺めた人間の数は決して少なくはない。
 傭兵という稼業をやめてなお、彼の周りに人の死はつきまとった。
 巡礼をする彼の手による死も数多くあったはずだ。
 でも……と青珠は納得のいかない思いで考えた。
 友達を殺した?
 あのユーリィが?
 自分と出逢う以前のユリウスの人間関係など、何も知らない。訊いたこともない。
 そこに、ユリウスの心の闇がある。
 言葉にして尋ねるべきなのか。
 そっとそのまま触れずにおくべきなのか。
 悩み、考え、青珠は、自らの中から、ひとつの結論を導き出した。

 ユーリィの気持ちはどうなの?
 わたしは、ユーリィが自分から話そうとするまで、知らないままでいい──


 黒耀城での夕食は、いつもと何ら変わりなかった。
 王子ユリウスも、ユリアも、ディディルも──表面上はとりすました様子で、何事もなかったように食事をすませた。
 食堂から居間へ戻ると、疲れたからと言って、ディディルは早々に自分の寝室へ引き上げてしまった。
 ユリウスが心配そうに自分の気配を窺っているのが解ったが、今夜は、王子と同じ空間にいることが耐えられなかった。
 ディディルは月明かりに仄白く照らされる室内に灯りを点すこともせず、ぐったりと、力なく寝台の上に腰掛けた。
 昼間、見てしまった王子とユリアの信じ難い行為。
 その様子をディディルと一緒に目撃した黒髪の少年が言った言葉。
 それらが、果てしなくディディルの意識の中を駆け巡り、彼女を苦しませた。
 何時間も、彼女はそうして、己の心と戦っていた。
 静寂に浸された暗闇の中、ふと顔を上げた。
 空耳だろうか?
「……!」
 違う。空耳じゃない。
 回廊に面している居間の扉が開いたのだ。
 こんな夜中に──だれ──
 ディディルはそっと寝台から降り、居間へ続く扉を音がしないように注意深く開け、ほんのわずかな隙間を作った。その扉の隙間から、居間の中を覗く。
「!」
 人がいる。
 たった今、部屋に忍び込んできた手燭を持った白い人影が、足音を忍ばせ、ユリウスの寝室へと居間を横切るところだった。
 ディディルはぎょっとした。──ユリア?
 間違いない。あれはユリアだ。
 暗い部屋の中を、白い衣を着た彼女は手燭の灯りに自らの影を大きく揺らめかせ、幽霊のように音もなくユリウスの寝室の扉を開けて、中へ滑り込んだ。
「……」
 身も凍るような衝撃と絶望がディディルをじわじわと包み込んでいった。
 ユリアが消えたユリウスの寝室の扉を、しばらくぼんやりと眺めていた。
 昼間の光景が──抱きしめ合い、口づけを交わしていた二人の様子が、まざまざと脳裏によみがえる。
 ぱたん、と扉を閉め、ふらふらと寝台の上に倒れ込んだ。
 本気だ──と、ディディルは冷たい水が意識に流れ込んでくるように感じた。
 ユリウスが戯れでこんなことをするはずがない。
 王子は、本気でユリアを愛している。
 ディディルの恐怖は、クロロスの言っていたような、王子がユリアの麗容を目にする可能性があるというような類のことではなかった。
 そんなことは些細なことだ。
 それよりもっと恐ろしいのは、王子が今後、ユリアをどう扱うかだ。
 彼がユリアを愛しているなら、もしかしたら、黒耀城を出るとき、王子はユリアをも連れ出そうとするかもしれない。
 そのために、黄珠の力を使うかもしれない──
 王子がユリアを伴う。
 ──それじゃあ、わたしは?
 常に王子の隣にあったディディルの居場所が、ユリアのものとなってしまう。
 居場所を失ったディディルは、では、どこへ行けばいいのか。
 枕に顔を押し付け、声を殺して彼女は泣いた。
 レキアテルを出て以来、彼女は王子の力になり、王子を護るために王子と行動をともにしようと思ってきた。
 しかし実際には、彼女のほうが王子を頼り、王子に護られてここまで来たのだ。
 王宮では、彼女は将来を嘱望される有能な方士であった。
 でも、国を出た彼女は、あたりまえの十四歳の、無力な少女でしかなかった。
 その自らの無力さを思い、彼女は泣いた。
 ──王子の愛の対象にはなりえない現実を思い、彼女は泣いた。

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2005.4.17.