重すぎる罪

3.

「朝日が昇りますわ……」
 自分に寄り添い眠る王子に、ユリアはそっとささやいた。
 甘く短い一夜をともに過ごした。
 ユリアは眠らなかった。
 眠るなんて勿体ないと思った。
 初めて自分を愛してくれた人とのおそらく最初で最後であろう大切な時間を、幸福に浸り、実感し続けていたかった。
「ユリア……」
 目を覚ました王子が、軽くユリアの瞼に接吻する。
「ありがとう、ユリア。そなたを愛したことを、私は生涯忘れないだろう」
 さらさらとした彼女の金髪を弄ぶ王子の指を捉え、ユリアはやさしくそれを噛んだ。
「お礼を言うのはあたしのほうです。あなたはあたし自身を愛してくださった、初めての方──あたしに愛される幸せを教えてくださった」
 横たわっていた身体を起こし、彼女はユリウスの頬を撫でた。
「ユリウス様のこと、一生忘れないわ」
 そして、彼の唇に唇を重ねた。

 不意に目を覚ましたとき、ユリウスは全身に汗をびっしょりかいていた。
 剣と、
 酒と、
 流れた血──
 忌まわしい記憶が悪夢となって彼を混乱させていた。
 身を起こし、周囲を見廻し、自分がまとっている巡礼の黒衣を見て、はじめて彼は安堵の息をついた。
「おはよう」
 澄んだ声がすぐそばで響き、ユリウスははっとした。
「夢を見たのね? でも、いつもの夢じゃない。──違う?」
 悪夢にうなされる自分をいつから見守っていたのだろう。
 寝台の傍らに立つ美しい精霊を、ユリウスはぼんやりと見上げた。
「昨日の壁画のせいだろう。でも、大丈夫だ」
「そう」
 それ以上、青珠は何も言わなかった。
 黒い都へ入り、王子ユリウスと合流する。
 それだけを考えなくてはならない。
 そんなユリウスの気持ちが、青珠にはよく解っていた。

 城塞都市を囲む田園地帯の中の小さな村落に宿を借りていたユリウスは、手早く朝食をすませ、出発の準備をした。
 厳密にいえば、この広大な田園地帯も黒い都の一部だ。
 しかし、王子ユリウスは、防壁に護られた市街地の中にいることだろう。
 市街地へ入れば、黄珠が何らかのコンタクトを取ってくるはずだ。
 それがなければ、こちらから王子を捜し出す手段を考えなくてはならない。
「行くよ、青珠」
 いつものように見えない精霊に短く呼びかけ、宿を出たユリウスは城塞都市の城門を目指して歩き始めた。

 朝食の時間を告げに訪れたユリアが寝室の扉を叩いたとき、食欲がないからと、ディディルはつっけんどんに断った。
 扉を開けさせようとさえしなかった。
 この泣きはらした眼をどう言い訳すればよいのか……
 沈鬱な思いでぼんやりと寝台に腰掛けていると、再び扉が叩かれた。
「ディディル? 気分でも悪いのか?」
 ユリウス王子の声だ。
「食事はこの部屋へ運んでもらった。食欲がなくても、何か少し、口に入れておいたほうがよい。もうすぐ、黒いユリウスがこの都の城門を──
「ユリウス様!」
 ディディルは慌てて寝室の扉を開けて、王子の言葉を遮った。
「そのようなことを口に出されては……!」
「大丈夫。ユリアは今いない」
 ディディルは、素早く居間の中を見廻し、部屋にいるのが王子だけであることを確認して、ほっと胸をなでおろした。
 眼の見えない王子なら、泣きはらした眼を見られる心配はない。
「……食べます」
 ディディルはおとなしく居間の卓子に並べられた朝食の皿の前に座った。
「どうしたのだ、ディディル? そなたの魂が、少し曇って見える」
「……怖いからです」
 とっさにそう答えて、ディディルは王子がそれ以上何も言わないでいてくれればいいと願った。
「この城からの脱出が近づいているからか?」
 そうじゃない。
 その脱出に、ユリアが伴われることが怖いのだ。
 食事の手をとめて、ディディルは震える声で言った。
「ユリウス様──
「何だ?」
「黄珠を──わたしにお貸しくださいませんか」
 ユリウスの驚く顔が、下を向いていてもよく解った。
「黄珠を?」
「わたし……わたし、怖いのです。……無事に、この城から脱出できるのか、不安に押しつぶされそうなのです」
 消え入るように言葉を切り、ディディルは、おそるおそる上目遣いで王子の様子を窺った。
 王子は驚きをその表情に湛えたまま、見えない瞳で少女を見つめている。
 少女がなぜこんなことを言い出すのか、理解できない様子だった。
「ディディル? そなたの身は、まず第一に黄珠に護らせる。それははっきりと約束できる」
「相手は黒曜公です。無事に逃げ切れる保証はありません」
 王子は、少し黙って、ディディルの怯えた様子を探るように窺った。
 彼女は何をこんなに恐れているのだろう?
 彼女の魂が曇っていることが気にかかった。
 ユリウスはそれを、この城の穢れのせいだと判断した。
 ユリウスが動く気配があって、ディディルが目を上げると、彼は頭にはめたサークレットを外そうとしているところだった。
「……ユリウス様──
 黄金のサークレット。
 黄色い石が象嵌された冠──
 ディディルの心が恐怖に満たされた。
 自分は何をしているのだろう。
 何かとてつもなく恐ろしいことを王子にさせようとしているのではないか──
 外したサークレットを、ユリウスはディディルの前に置いた。
「これはそなたに預けておこう。この城を無事に脱出するまで、お守り代わりに持っていなさい」
「……」
 ディディルは恐ろしそうにそれを見つめた。
 ユリウス王子の最も大切なものを、この自分が奪うなんて──
 でも、これで、黒耀城からのユリアの逃亡を助ける手段は王子にはなくなったはずだ。
 震える手で、少女は優美な金のサークレットを手に取った。

 見上げる巨大な城門は黒っぽい切り石で築かれ、訪れる人々を威圧するようにそびえていた。
 中央の上部には五角形の黒曜石が嵌め込まれ、その中に黄金の牡牛のシルエットが浮き上がっている。
 金牛──黒曜公国の紋章だ。
 城門を警備する兵士たちの姿を横目で眺め、巡礼の黒衣に身を包んだユリウスは、ゆったりとした足取りで城門をくぐった。
 城塞都市の中に足を踏み入れ、ある種の感慨を覚えて、ユリウスは立ち止まった。
「黒い都……」
 黒曜公国が滅ぼした三つの小国のうちのひとつ、クスティ王国はユリウスの生まれた国だった。
 彼の故国を滅ぼした国の、ここは首都なのだ。
「ユーリィ」
 いつの間にか姿を現した青珠が、彼の隣に並んだ。
「大丈夫?」
 青珠をちらりと見て、ユリウスは微かに笑ってみせた。
「平気だ。おまえがいる」
 彼の美貌に浮かんだ不遜な笑みを見て、やっと青珠は安心したように微笑んだ。
 新しい町を訪れたとき、まずその町の主神殿を詣でるのが、巡礼であるユリウスの習慣となっていた。
 その国の祭神を祭った神殿は、町の中心部に建てられていることが多い。
 二人は整然とした町並みを、中心地を目指して進んだ。
 黒曜公国の祭神はケレス女神だった。
 豊穣を司る、大地の女神である。
 二人とも、黒曜公国について謎めいた噂は数多く耳にしていたが、実際にその都に足を踏み入れたのは初めてであった。
 そこは、洗練された都会だった。
 清潔な町並みや、そこに住む人々の様子に目を奪われた。
 行き交う町の住人たちの顔つきや身なりを見れば、この都がいかに平和で豊かな生活を享受しているかが判る。
 不穏な噂が絶えない国の都の、なんと落ち着いた空気であることか。
「あれがケレス神殿だわ」
 前方に、立派な神殿が見えてきた。
 その向こうにそびえる雄麗な城が、黒曜公が住まうという黒耀城だろう。
 ユリウスと青珠が神殿の参道にさしかかったとき、一陣の風が吹いた。──花の香りのする風だった。
 はっとしたユリウスは、素早く青珠の手を取り、参詣人で賑わう参道から離れ、彼女を引っ張って神殿を囲む木立ちの中へ入った。無論、何が起こったか青珠も理解している。
「黄珠」
 ユリウスの呼びかけに応えて、黄色い石の精霊がその優美な姿を現した。
「お待ちしておりました、ユリウス殿」
 ようやく会えた風の珠精霊に、期待と不安をない交ぜにしたような面持ちで、ユリウスと青珠は向き合った。
「黄珠、王子に何があった? ずっと、嫌な予感がつきまとっていたんだ」
 黄珠はいつも無表情な顔を微かに曇らせた。
「王子は、今、黒耀城に──
「黒耀城」
 ユリウスは不安げにつぶやいた。
「やはり、黒曜公の手に落ちたのか……」
「緑の石の所在は確認できたの?」
 と、今度は青珠が尋ねた。
「ええ。王子は、緑の石が黒曜公の手許にあると確信しています。ただ、今もって翠珠の気配だけは、掴めていません」
 青珠もユリウスも驚いた。
「王子が……珠精霊の気配を掴めないでいる?」
 黄珠は浮かない表情でうなずいた。
「あなたも知っているでしょう、青珠? 翠珠は負の力を秘めた地の石。“天の御子”である王子には荷が重過ぎます。“地の御子”であるユリウス殿であれば、その気配が判るのではないかと王子は考えておられます」
 ユリウスはわずかに眉をひそめて、黄珠を見つめた。
「本当に、緑の石は黒曜公が?」
「それは間違いありません。ただ──おかしなことになってしまって……」
 ユリウスと青珠は黄珠の様子に違和感を覚え、言葉を失った。
 どんなときでも仮面のように無表情で、冷静沈着な態度を崩さない黄珠が、言葉をつまらせてしまうなど──
「黄珠。君のあるじは、僕が必ず黒耀城から救い出すよ」
 励ますように言ったユリウスの宝玉のような碧色の瞳を、黄珠は困惑気味に見つめ返した。
「いえ、そうではありません。黒耀城からの脱出だけなら、ユリウス王子お一人でも心配はいりません。問題はそこではなく──
 黄珠は一旦言葉を切って、ユリウスの顔から視線をはずした。
「王子は黄色い石を手放してしまわれたのです」
 刹那、ユリウスは凍るような恐怖を覚えた。

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2005.4.18.