重すぎる罪

4.

 青い石を奪われた二月半ほど前の出来事が思い出され、我知らず、ユリウスは左耳の耳飾りに象嵌された青い石に触れていた。
「黒曜公に奪われたのか?」
 黄珠は首を横に振った。
「いえ、ディディル殿に」
 呆気に取られて、ユリウスと青珠は顔を見合わせた。
「ディディル? それは例の方士の少女だろう? 彼女は、王子の側近だったんじゃないのか?」
「あなたのときとは違うのです、ユリウス殿。王子は石を盗まれたのではなく、自らディディル殿にお渡しになったのです」
「ディディルに石をあげてしまった……の?」
 再び黄珠は憮然と首を横に振った。
「お預けになっただけです。それでも、石が王子の手許を離れてしまったことには変わりありません」
 黄珠は苦しそうに眼を伏せた。
「わたしのあるじはユリウス王子です。でも、王子の第一の命令がディディル殿の身を護ることであり、その上、黄色い石をディディル殿が持っているということになると──青珠、あなたならこの意味が解りますね?」
 青珠はやや狼狽えたようにユリウスを見て、黄珠に視線を戻した。
「あなたは、王子の安全よりもまず優先的に、ディディルの完全なる身の安全のために全力をつくさなければならない……」
「そういうことなのです」
 小さく息を吐き、黄珠は決然とした眼をユリウスに向けた。
「黒耀城からの脱出はわたしが手引きをします。王子とディディル殿と、お二人の」
 もういつもの冷静な黄珠に戻っていたが、ユリウスの目に映る彼女の気丈さは、痛々しかった。
「でも、王子とディディル殿がはぐれた場合、わたしはディディル殿のほうへ付き従わねばなりません」
 黄珠の不安はユリウスにもよく解った。
 最も大切な存在を真っ先に護ることが許されない立場──
 たとえ誰が黄色い石を持っていようと、黄珠の主はユリウス王子なのに。
「お二人が城外へ逃れたらお知らせします。あなたは、黒い都の郊外に王子が身を寄せられる場所を探していただけますか」
「解った」
 ユリウスがうなずくと、黄珠は青珠のほうを見た。青珠が何か言おうとする前に、黄珠は白い手を振ってそれを制した。
「黒耀城は危険な空間です。あなたは来ないほうがいい。わたし自身、城の中で実体を現すことを王子に許されていません」
「そこは、翠珠の負の力が支配する領域だということ?」
「そうです。気配を潜めている翠珠に正面から向かうのは危険すぎる。あなたは黒耀城の内部に姿を現さないでください」
「霊体でも?」
「黄色い石ばかりか青い石までもがこの黒い都にあることを、黒曜公に感づかれてはなりません」
 そのあまりにも強い口調に、青珠は内心驚いていた。
 黄珠をここまで慎重にさせるほどの力が黒耀城内に働いているということだ。
 黒耀城脱出の手はずを黄珠から聞き、ユリウスと青珠は、王子の隠れ家を探すため、その足で黒い都の郊外へ出た。


 黒耀城の内部にひと気がなく、常に深閑としていることは、不気味ではあるが、ある意味、都合がいいともいえる。
 王子ユリウスは、あてがわれた居間の露台から身を乗り出し、外界の大気の様子を探っていた。
 風の精霊たちの声に耳を澄ます。
 城内は死の穢れに満ちているが、外の大気は清浄だ。
 千里眼を研ぎ澄ませ、空気の精霊、風の精霊、そしてさらには黒耀城の庭園の植物たちの声──樹木の精霊、草花の精霊たちの声に耳を澄ます。
 巡礼のユリウスに連絡を取るようにと命じていた黄珠が戻ってきたことを、王子は察知した。
 今、王子ユリウスの額に黄色い石を嵌めたサークレットはない。
 しかし、生まれ持った千里眼のおかげで、王子が黄色い石の精霊の気配を掴むことは容易かった。
「黄珠」
 とユリウスはつぶやいた。
「心配するな。私のことはいい。そなたは、ディディルだけを護ってくれ」
 ディディルは、城の人間に不審に思われぬよう、今日も料理を習いに厨房へおもむいていた。
 ユリアに昼食を居間へ運ぶよう頼んである。
 ユリアにだけは別れを告げたが、脱出の詳しい内容については何も伝えていない。
 居間でディディルと二人きりになったとき──そのときが、城を出る時刻だ。
 ユリウスたちの部屋はかなり高層の階にあったが、一階の厨房までの道順はディディルがしっかり覚えている。この迷路のような城の内部を誰にも気づかれないよう一階まで下り、城の外へ出さえすれば、あとは精霊の力を借りて何とでもなろう。
 黒いユリウスと合流すれば、珠精霊は二人になる。
 しかし──
 露台に立つユリウスの亜麻色の髪を、風がそよがせた。
 額にサークレットがないのは──黄色い石がないのは、なんとも心細いものだとユリウスは漠然とした不安をぬぐい切れないでいた。

 林檎のワイン煮を白い陶器の皿に盛りながら、ディディルはぼんやりとくうを見つめていた。
 ユリウス様は、今日、ユリアも一緒に連れて行くつもりなのだろうか……?
 怖くて訊けない。
「ディディル」
 はっと我に返ると、料理の指導をしてくれている黒髪の少年が心配そうにこちらを見つめていた。
「上手くできたぞ。今日の昼食にユリウス殿下に召し上がっていただくのだろう?」
 ディディルは無言でうなずいた。
「元気がないな。殿下とユリアとのことが、どうしても気になるのだな」
 困惑しきったような表情で、ディディルはクロロスを見た。
「殿下の使い魔の件はどうなった? 使い魔の宿る品を、殿下から取り上げることはできたのか?」
 びくっとしたディディルは、思わずクロロスから視線をそらした。
 それだけで、クロロスにはディディルの心情が簡単に察せられた。

 昼食を居間へ運ばせたあと、王子ユリウスは卓子に着き、ディディルが戻ってくるのを待った。
「ディディルが戻るまで、ここにいさせてください」
 そう言って、ユリアは王子ユリウスの座る椅子の傍らに立ち、彼の話し相手を務めていた。
 ノックの音がして、不意に扉が開かれた。
「ディディル……?」
 しかしそれは、思いがけない人物だった。
「方士殿が林檎のワイン煮を作ったと聞いた。御相伴させていただけるかな」
──!」
 ユリウスは立ち上がり、身構えた。

 ──黒曜公──

「なぜ、ここに……?」
「おやおや。お客人とともに昼食を取るのが不自然か?」
 ユリウスはユリアの様子を窺った。
 明らかに当惑している彼女が、黒曜公に何か告げたわけではなさそうだった。
 黒曜公セラフィムが、自ら客人の部屋へおもむいた──それは、ユリウスがこの城へ来てから初めての出来事だった。
「……あなたは、私のことなど露ほども気にかけておられないと思っていたが?」
 セラフィムは屈託なく笑った。
「誤解だ。お互い、気にせずにはいられないものを持っているだろう?」
 言いながら、セラフィムは菫色の瞳をユリウスの額に向けた。
「それほど大切なものを、そなたは失くしてしまったのか?」
 声が笑いを含んでいる以上、彼にとって、それが意外なことではないことが判る。
 ユリウスははっとした。
 ディディル──? まさか、彼女が……?
「黒曜公……!」
 それはディディルの声だった。
 林檎の皿を手に持ったクロロスを伴い、開け放たれた扉のすぐ外に呆然と立ち尽くしている。
「ユリウス様、なぜ……? なぜ、黒曜公がこちらに?」
 驚きに見開かれた茶色の瞳がユリアの姿をとらえた。
「ユリア、あなたが呼んだの……?」
 その場の張りつめた空気に混乱しつつも、ユリアは必死に首を振った。
「いいえ、いいえ! あたしも何も知りません。セラフィム様は、突然お越しになったのです」
 セラフィムは片手でユリアを制し、少女に軽く微笑みかけた。
「私の小姓が方士殿の様子がおかしいのに気がついた。さあ、方士殿。例のものは私の小姓がお預かりしよう」
 ディディルは恐怖に大きく眼を見開いた。
 その場を逃げようにも、前には黒曜公、後ろにはクロロスがいる。彼女は金縛りにあったように、ただ立ちすくんでいた。
「小姓? ユリアが関わっているのか?」
 微かに非難を含んだユリウスの声音に、ユリアは蒼ざめて彼の肩にすがった。
「ディディルの様子がおかしかったなんて知りません! あたしは、本当に何も──
 彷徨わせた視線が、扉の陰になった黒髪の少年の姿に気づいた。
「クロロス様、セラフィム様のおっしゃる小姓って、あなたのことですか? いったい、何がどうなってるの?」
 ユリウスは驚愕した。
「ディディル。そこに誰かいるのか」
 ディディルはびっくりして、今まで見たこともない王子の厳しい顔を見つめた。
「みんな、います。ユリアも、黒曜公も、クロロス殿も」
「四人……? 私以外に、ここに四人の人間がいるのか?」
「そうです。でも、ユリウス様なら、見えずとも気配だけでその場にいる人数なんてお判りでしょう?」
 戸惑ったディディルのか細い声に、ユリウスはとうてい信じ難い思いで事態を把握しようと焦った。
「誰だ──? ユリア、ディディル、黒曜公。それ以外に人の気配などない!」
──?」
 ディディルは驚愕した。
 気配が掴めない? 王子にそんなことがあるものか。
 ユリアが、おそるおそる王子の背中に手を添えた。
「クロロス様ですわ。黒曜公の小姓頭です」
「クロロス──?」
 セラフィムが小さく笑い声を立てた。
「いつまでも隠れていても仕方あるまい。出てきてよいぞ」
 愉快そうな黒曜公の声に応えるように、黒髪の少年はディディルのそばをすり抜け、居間に入り、手に持った林檎の皿を卓子に置いた。
「ごきげんよう、ユリウス王子」
 絹のようになめらかな声で、少年は言った。
「人間ではないな。──精霊か、魔人か」
 黒髪の小姓を、人間ではないと王子は言った。
 だが、ユリアには信じられなかった。彼は確かに、人の姿をしてそこにいる。
 黒髪の少年と王子の対峙を、ディディルとユリアはただ息をつめて見守っていた。
「……緑……」
 掠れた声でつぶやき、その意味を悟ったユリウスは全身の血の気が引いていくのを感じた。
 クロロス──それは、西方の言葉で“緑”を意味する。
 ──“緑”──
 まさか──
「……翠珠──翠珠が、そこにいるのか!」
 王子の語調の激しさにユリアは驚き、その言葉の持つ意味にディディルは驚いた。
 暗緑色のチュニカを着た黒髪の美少年の姿がそこにある。
 彼こそが、緑の石の精霊・翠珠──

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2005.4.18.