重すぎる罪
5.
水を打ったように静まり返った部屋の中、そこにいる全ての人間の視線が、黒髪の少年の上にそそがれた。
ゆったりとした笑みを漂わせるセラフィム。
呆然と、あらゆる感情を失ってしまったかのようなディディル。
何が起こっているのか、まるで解らないユリア。
目の前にいる珠精霊の気配を微塵も感じ取れない──愕然たる王子ユリウス。
「……ディディル。そこにいる小姓頭とやらはどんな姿をしている?」
感情を押し殺したような王子の声にディディルはびくっとして王子を見、その視線を小姓頭の少年に移した。
「十七、八歳の、とても綺麗な少年です。髪も眼も黒く──漆黒の真っ直ぐな髪がとても異国的で印象的で……」
少女のような白い肌。
眉の下で切りそろえた前髪。
射るように強い光を放つ眼差し。
震える声で小姓頭の容貌をユリウスに説明していたディディルは、出し抜けに言葉を切り、誰へともつかない問いを発した。
「クロロス殿が──翠珠なのですか……?」
少年はにっこりとディディルに微笑んでみせた。
人形のような少年の、顎の辺りで切りそろえられた髪が揺れたとき、光の加減でその黒髪が深緑に見えた。
緑の石の精霊、翠珠……
ディディルが恐怖に身をすくませたとき、セラフィムの哄笑が響いた。黒髪の少年がディディルに一歩近づく。
「さあ、ディディル。約束だ。私が、殿下の石を預かろう」
それでもやはり、なめらかな翠珠の声。
その言葉に隠された本当の恐ろしさを知り、動くことができないディディルは身も凍る思いでただ茫然と立ちつくし──
「ディディル。黄色い石を持っておいで」
それは、ユリウス王子の言葉だった。
なぜ、王子がそんなことを言うのか理解できないまま、ディディルはぎこちない動作でその言葉に従った。
自分の寝室へ行き、黄色い石を嵌めたサークレットを手に居間へ戻ってきた。
次の瞬間、ユリアは仰天した。
王子ユリウスが居間へ戻ってきたディディルに大股で駆け寄ったかと思うと、素早く彼女の手を掴んで露台に走り出たのだ。
盲人とは思えないほどの俊敏な動きだった。
「ユリウス王子様──!?」
驚いたのはユリアばかりではない。
高層の階から飛び降りるような、自殺行為にも等しい馬鹿な真似を王子がするとは、セラフィムでさえ考えていなかった。
「──きゃあああっ……!」
絹を裂くような悲鳴はディディルのものだ。──王子は?
慌てて露台に出たセラフィムとユリアの目の前に、王子の姿はあった。
「そなた、黄色い石を──!」
怒気を含んだセラフィムの声を、だが、ユリウスは一笑に付した。
「残念だったな、黒曜公。翠珠の力は、この城の外へまでは及んでいない」
ユリアが露台から身を乗り出して下を覗くと、落下する少女の姿が見えた。
「ディディルーッ……!」
恐ろしさに絶叫する彼女は、信じられない光景を目の当たりにした。
少女は地上数十パッススの高さから、真っ逆さまに落下している。
その落下速度が次第にゆるやかになったかと思うと、突如、吹き荒れた突風が、少女の身体を十数パッスス離れた木立の上まで運んだのだ。
生い茂った葉がクッションとなり、少女は大した衝撃も受けず、驚くべきことに無傷で地上に下りたのだ。
「セラフィム様、ディディルが……!」
ユリアの叫びに、セラフィムもまた露台から下を見下ろした。
「風の宝珠の力か──」
一瞬で全てを悟り、セラフィムは傍らに立つユリウスの顔を屹と見据えた。
「だが、ユリウス王子。庭園も含め、そなたらの脱出に備えて城内は衛兵で固めてある。方士殿が一人で逃げ延びるのは不可能だ」
ユリウスは彼らしくない不敵な笑み浮かべた。
「なぜ、黄色い石を持たせたと思っているのだ。黄珠は風に属する者には似つかわしくない冷酷さを秘めた精霊。彼女ならディディルを護れる」
セラフィムは舌打ちをした。
「翠珠、ディディルを追え。城から出すな!」
そして、ユリアを振り返って早口で命じた。
「おまえは王子とここにいろ。決して、王子を部屋から出してはならぬぞ」
事態はディディルの理解を超えていた。
突然、露台から突き落とされたかと思うと、息もできないほどの勢いで空中を落下し、死ぬんだ、と思った瞬間、風に包まれた。
風は、落下する彼女を重力から護り、さらに彼女の身体を近くの木立の、緑の葉が生い茂った樹の頂上へと安全に運んでくれた。うまく大樹の上に落ちた──というより下ろされた彼女は、怪我のないことを確かめると、逃げなければ、と本能的に感じた。
王子のサークレットを落とさないように腕に通し、十四歳の少女の身軽さで、樹の上から足を滑らせないようにと慎重に下りた。
夢中で地面に下り立った彼女は、まず周囲を見廻した。
自分がどこにいるのかを把握しなくてはならない。
しかし、黒耀城の庭園は広く、何区画にも渡っているので、城内に負けず劣らず、庭もまた迷路のようだ。
無我夢中のディディルは、でたらめに走り出そうとしたが、そのとき、流れる風の音のような声が聞こえた。
<こちらです──>
はっとして、右腕に通したサークレットを見た。
黄珠の声だ。
黄色い石を持っているから、黄珠の声が聞こえるのだ。
少女は、精霊の声に導かれるまま、果てしなく続くかに思える庭園を走り抜けた。
東屋の角を曲がったとき、幾つもの噴水が配置された方形の人工池が現れた。視界全てを占領するほどの大きさだ。
「なに、この大きさ。これを迂回しなきゃならないの……?」
途方に暮れるディディルに追い討ちをかけるように、四角い池の周囲に無数の人影が見えた。
「衛兵──!」
思わず足が止まる少女を精霊の声が励ました。
<兵士はわたしが引き受けます。池を越えて右へ曲がれば城壁のすぐそばに出ます。できるだけ早く、そこにある大樹に登ってください>
ディディルは人工池の右側に沿う園路を駆け出した。
どうしようもなく怖かったが、そんなことを言っている場合ではない。
衛兵たちはすぐにディディルの存在に気づき、彼女を捕らえようと、恐ろしい形相でこちらへ向かってくる。
どんどん兵士たちとの距離が縮まる。
──もう駄目だ!──
そう思って眼を閉じたとき、しゅっという風の音と、複数の兵士の低い呻き声とが同時に聞こえた。
「……!」
あちこちでおびただしい血煙があがり、切り伏せられた兵士たちが断末魔の叫びをあげて次々と倒れていく。
それが黄珠の援護だと悟ったディディルは、血にまみれて倒れ伏していく兵士たちの間を夢中ですり抜け、池の向こう側にたどり着いた。そして、右へ曲がる。
「きゃっ!」
ぶつかりそうになった。
そこには、暗緑色のチュニカをまとった華奢な少年が、陽の光に髪を深緑に染めて、悠然と立っていた。
「──!」
「見事だ、黄珠」
艶のある声で少年は言った。
「だが、ここまでだ。ディディルは四宝珠を持つ器ではない」
恐怖に立ち尽くすディディルの腕へと伸ばした翠珠の白い手に、風が走った。
「……つっ──」
手の甲に走った赤い線から滲む血を、翠珠はゆっくりと舐め取った。──と、風に裂かれた傷は跡形もなく消えた。
「この場でまともに君とやりあう気はないよ、黄珠」
言いながら、翠珠は自らの立つ位置に円を描くように片手を振った。
再び鋭い疾風が舞ったが、風の刃は翠珠の身を斬り付けるまでには至らなかった。
翠珠の周りの地面から立ち昇る陽炎のような、黒い焔のような何かが、翠珠の全身を防御している。
<ディディル殿、樹に登りなさい! 登って、城壁の向こうへ下りるのです!>
はっと我に返ったディディルは翠珠の脇をすり抜け、城壁の外まで枝を伸ばす大樹の幹に手と足をかけた。
「逃すか」
黒い陽炎のようなそれが鞭のように伸び、ディディルの腕に絡んだ。
「きゃあっ!」
強い力で腕を引っ張られたディディルが、樹にしがみつきながらも右腕をもぎ取られそうになったとき、黄珠の操る風が、翠珠の陽炎を斬った。
「あっ……」
勢いあまって大樹から振り落とされそうになったディディルが必死に体勢を直そうとしたとき、右腕に通していたサークレットが彼女の腕から滑り落ちた。
「石が……!」
陽光を撥ね、きらめきながら地に落ちた金のサークレットを、翠珠の手が拾う。
ディディルの顔が恐怖に引きつった。
<構いません! あなたはお逃げなさい!>
聞き取れないほど微かに、黄珠の叫びが響く。
泣き出したいのをぐっとこらえ、ディディルは樹を登ることに集中した。翠珠の声も、もう何も聞こえなかった。
翠珠の攻撃は黄珠が阻んでくれる。
何があろうと、とにかくこの城を出ることだけを考えねば──!
大樹をほぼ登り切り、城壁の上から外へと張り出している枝を伝った彼女は、城壁の外の枝から地面までの高さや、落下地点に危険な障害物があるかもしれないというようなことは念頭になかった。
ただ、早くこの城から出たい。
枝の先から城壁の外へ身を投げてから初めて、彼女は落下の恐怖と落下時の衝撃を絶望的に考えた。
今は黄色い石を持っていない。
今度は黄珠の力も助けてくれないだろう。
「──!──」
だが、落下した彼女を待っていたのは、ふわふわとやわらかな大きな羽蒲団に包まれるような感覚だった。
地表近くで彼女を受け止めたものは、落下の衝撃を吸い取ると瞬く間に霧消した。
ディディルは、狐につままれたような顔をして細い道の上に座り込んでいた。すぐ側は尖った岩だらけの危険な崖になっていた。
「ディディルね?」
何がなんだか解らないまま、ディディルは振り向いた。
そこには、碧羅をまとい、清流のような蒼い髪を後頭部に結い上げ、長く垂らした、清楚な印象の美しい娘が立っていた。
「集めた風をクッションにして、あなたを受け止めたの」
と、その娘は言った。
「だから、落ちても痛くはなかったでしょう?」
そして、ディディルの手を取り、彼女を立たせた。
「庭園での出来事は遠透視の術で見たわ。さあ、急ぎましょう。あなたをこの都から連れ出すのが、わたしの役目」
2005.4.20.