重すぎる罪

6.

 部屋に取り残された王子ユリウスとユリアは、無言のまま、じっと結果が届けられるのを待った。
 不意に慌ただしい足音が聞こえ、居間の扉が乱暴に開かれた。
「方士殿は城の外へ出たぞ」
 黒曜公だった。
「満足か?」
 不機嫌さを露に表情に浮かべ、公は射すくめるような眼で王子ユリウスを見た。
「おまえの黄珠が、城の衛兵をあらかた殺してしまった」
 王子の唇が薄い笑みを刻んだ。
「彼女は冷酷だと、そう言っただろう?」
「あそこまで乱暴だとは聞いていない」
 セラフィムは不機嫌さをいつもの茫洋とした表情で覆い、大きくため息をついて、右手をユリウスに差し出した。
「……何か判るか?」
「!」
 ユリウスの表情が変わる。
「黄色い石……!」
 セラフィムの手に握られた、王子のサークレットをユリアは見た。
「翠珠が方士殿から奪った。これがなければ、あの子はただの無力な小娘に過ぎん。おまえの身を案じて、この都から一人で出ることもできないだろう」
 陽光を受け、小さなきらめきをいくつも作る黄金のサークレットを漠然とユリアは見つめた。その中央に象嵌された、トパーズを思わせる石がひときわ強い輝きを放っている。
「ディディルはいずれ、私の部下が捕らえる」
 セラフィムの言葉を受けて、ユリウスは小さく笑った。
 ユリウスの笑いに、セラフィムは訝しげな表情を浮かべた。
 ──黒曜公は黒いユリウスの存在を知らない。
 彼がディディルを保護してくれたら、ディディルの身は、まず安全だ。
「ディディルは捕まらない。なら、どうする? 私を殺すか?」
 ユリアの顔をさっと不安がかすめた。
 セラフィムは鋭い視線で王子の顔を注意深く凝視している。
「おまえには政治的価値がある。まだしばらくは黒耀城に滞在してもらおう」
 セラフィムには、余裕ある王子の自信が何に基づいているのかよく解らなかった。
「石を持たぬおまえはただのめしいだ」
「石は持ち主を選ぶ。黄珠は必ず、私の手許へ戻ってくる」
 セラフィムはさらに王子ユリウスに向かって歩み寄り、握りしめたサークレットの石をつき付けた。
「黄色い石はおれの手にある。解っているのか? 精霊の忠誠心はおまえのものだが、石本体はおれが握っているのだ」
 そのとき、陽光がサークレットとは別のものに反射した。
 指輪──
 黒曜公がいつも右手の中指にはめている、美しい翡翠の指輪。
 その宝石が、金の台が、光を撥ねた。
 その緑の宝石が金色に──
「……!」
 ユリアは息が止まるほどの衝撃を受け、愕然とした。
 石に五芒星が──光を受けた大振りな緑の石の中に、金色の五芒星が浮かび上がって見える──
 ガデライーデの言葉が脳裏を走った。

 ──五芒星の刻まれた石。見ればすぐ判る──

 驚愕を相手に悟られないよう、そっとセラフィムを見上げ、サークレットを見るような素振りで、指輪を見た。
 間違いない。この石だ。
 五芒星の刻まれた石。

 ──その石を探すのじゃ──

 この指輪の宝石が、ガデライーデが、冬将軍が、捜し求める石……!
 何を言っても動じないユリウスに業を煮やし、不快を露に浮かべ、セラフィムは部屋を出た。
「王子は窓のない部屋へ移ってもらう。ユリア、翠珠が王子を迎えに来るまで、絶対に王子を部屋から出すな! 露台へもだ!」
 ユリアが何かを答える暇もなく、扉は乱暴に閉じられた。

* * *

 黒い都の細い路地裏を、迷うことなく自分の手を引いて走り続ける蒼い髪の娘を、ディディルは不安げに見遣った。
 この人は味方──
「ほら、あれがこの都の城門」
 ようやく立ち止まった娘がディディルを振り返って言った。
 彼女は息も乱していないが、全速力で町を走り抜けてきたディディルはさすがに呼吸が苦しく、脇腹も痛んだ。肩を上下させながら喘ぎ、呼吸を整えようと焦った。
 門の警備兵たちの姿を目にとめ、怯えたような色を浮かべるディディルの様子に、蒼い髪の娘が気づいた。
「なんでもない様子をして。姉妹が郊外の家へ帰るように」
 二人は並んでゆっくりと歩み、黒い石造りの重々しい門をくぐった。
 賑やかな人の波に紛れ、黒い都をあとにする。
 ディディルは微かに震えていたが、しっかりと繋がれた娘の手に励まされるように、堂々と門を出た。
 城門を出てからしばらく行くと、前方に茂る楡の樹の下に、二頭の馬とたたずむ人影が見えた。
「巡礼者……?」
 近づくにつれ、その出で立ちがはっきりと見えてくる。
 淡い金髪に巻かれた黒い布。黒い衣に黒い外套。
 玲瓏たる美貌がこちらの姿を認め、少し笑みを含んだ。
 ディディルはその顔をどこかで見たことがあると思った。
「ユリア!」
 そう呼びかけられたその人物は、微かに苦笑を浮かべた。
「僕は男だけど……」
 ディディルははっとした。ユリアよりずっと背が高い。
 巡礼の黒衣。
 彼の左耳に揺れる青い石を嵌めた耳飾り。
「あなたが、黒いユリウス──!」
 今、彼女の目の前に立つ神々しいほど美しい青年──それが、黒いユリウス。
 巡礼のユリウスの碧い瞳が、金褐色の髪を双髻そうけいに結った愛らしい少女の姿を映した。
「君がディディルだね。ユリウス王子の方士の」
「はい」
 と、ディディルはうなずいた。
 すると、自分を導いてくれたこの美しい娘は──
「じゃあ、あなたは珠精霊……?」
 ディディルは驚愕に眼を見張って蒼い髪の娘を見つめた。
「わたしは青珠。青い石の精霊」
「僕の使い魔だ」
 と、ユリウスがやさしい眼差しをちらりと青珠に送った。
「ユリウス王子が黒耀城の露台から君を突き落としたところからは、青珠の遠透視の力を借りて僕も見ていた。王子は君の安全を最大優先に考えたんだね」
 涙をこらえてうなずき、ディディルは改めてユリウスを見た。
 見たこともないほど美しい青年だ。
 陶器のような象牙色の肌。
 額や頬や首筋にかかる麗しい淡い金髪。
 憂いを含んだ宝玉のような濃い碧の瞳。
 すらりとした肢体に巡礼の黒衣をまとい、たたずむ姿は、物憂げな表情が印象的で、見る者に畏敬の念すら抱かせる。
 ユリアに似ている。
 だが、顔かたちの細部までがそっくりなわけではない。
 よく見ると別人だと判るのだが、髪や眼の色合い、それに彼の醸し出す儚げな雰囲気が、ユリアと驚くほど似ているのだ。
 燻し銀に深い瑠璃色の石を象嵌した耳飾りが、重たげに揺れていた。
「黒いユリウス──あ、いえ、ユリウスさん」
 呼びかけようとして、ディディルは躊躇った。
 ふとユリウスが微笑む。
「ただユリウスでいい。王子と紛らわしいなら、ユーリィと愛称で呼んでくれ」
「ユー、リィ……?」
「そう。僕の幼い頃の呼び名。青珠だけは未だにそう呼ぶ」
 青珠だけの特権だったその呼び名を、彼はあっさりと許した。
 青珠は複雑な気持ちだったが、あどけない少女の、王子ユリウスへの想いを慮ってのユリウスの配慮だと気づき、そっと微笑を浮かべた。彼がこれほど他人に心を砕くのは、それが王子ユリウスの大切な人だからだ。
「ユーリィ……わたし、これからどうすればいいのでしょうか。ユリウス様に迷惑ばかりかけて、わたしだけ、黒耀城から逃げてきて。わたしの軽はずみな言動が、ユリウス様を窮地に陥れてしまったのに……」
 それが王子から黄色い石を引き離したことを意味していると、ユリウスにも青珠にもすぐ解った。
 そしてその石は、結局、翠珠に奪われてしまったのだ。
「ディディル、隠れ家を用意してある。とにかくそこへ行こう。王子の願いは、まず君が無事でいることだよ」

 ユリウスとディディルは馬を駆り、黒い都の郊外を東へ移動した。
 二人が到着した場所は、小さな神殿であった。
「ケレス神殿……?」
「そう。おあつらえ向きだろう?」
 黒い都を取り巻く田園地帯に散らばる村落の、そこは最東端かと思われる。小高い丘を背に立つ、小ぢんまりとした神殿だった。
「どこか他の村にケレス神殿を建てるため、神官たちがそちらの手伝いに出向いているらしい。留守を預かって、神殿の管理をしてくれる者を捜していると村長から聞いたんだ」
 馬をとめ、軽やかにユリウスは地に降り立った。
「祈りの日の祈りの時間に、この辺りの村落に住む人たちが参る以外、人は来ない。仕事は朝夕の祈祷と神殿の清掃、そしてこの馬たちの世話だ」
 ユリウスはディディルに向かって悪戯っぽく手綱を持ち上げてみせ、小さな厩舎へ馬を曳いた。
 ディディルも笑顔になり、馬から降りて、彼に続く。
 ようやく人心地がついたようだ。
 神殿も宿坊も厩舎も、建てられてまだ二、三年の新しい建物だ。
 数日前に神殿の者たちが留守にしてから、近隣の村人が毎日掃除や馬の世話に訪れていたが、村落から距離もあり、誰か人手を探していたという。
 ここは、黒い都へ向かう途中、ユリウスと青珠が立ち寄った、あの女神と貴人の壁画のある神殿であった。
「ここに滞在する理由を怪しまれませんか」
「巡礼のための資金が不足していると言ってある」
「わたしとユリウス様のことは?」
「父親の病気快復の願掛けのため、兄妹三人で巡礼していると説明した」
 ディディルはほっとしたように表情を緩めた。
「じゃあ、しばらくここにいて、ユリウス様を救出する計画を立てるのですね?」
「ああ。こっちが宿舎だ」
 厩舎に馬をつなぎ、ユリウスとディディルは宿坊へ向かった。
 そろそろ暗くなる。
 西の空に、いつの間か宵の明星が姿を現していた。
 宿坊の玄関扉を開けると、小さな広間になったその空間に、正面に描かれた例の壁画が嫌でも目に入る。
 葡萄の園で、一房の葡萄を手にしたケレスが、片膝をついた貴人に手を差し伸べ、恵みを与えている。
 その絵を認めてディディルはぎくりとしたらしかったが、努めて平静を装った。
「ここは黒曜公国ですもの。公の絵があっても、不思議じゃないわ」
 その小さなつぶやきにユリウスが反応した。
「何の絵だって?」
「黒曜公です」
「黒曜公?」
 ディディルは大地母神から恵みを受ける貴人の姿を指差した。
「黒曜公。この絵に描かれているのは、黒曜公その人です」
「……」
 ユリウスは呆然と、ディディルのあどけない顔を見つめた。
「黒曜公……? この絵の貴人が?」
「そうです。黒曜公の顔、ユーリィは知らなかったのですね」
──!」
 次の瞬間、ユリウスが突然身を翻したので、ディディルは呆気に取られ、彼のあとを追い、彼の名を呼んだ。
「ユーリィ!」
 ユリウスは厩舎に引き返し、馬を連れ出そうとしているところだった。
「どうなさったのです、ユーリィ、どこへ行くの──?」
 ユリウスは馬に手早く馬具をつけ、ひらりと跨った。
「すまない、ディディル。僕はこれから黒耀城へ行く」
「だって、今からでは、夜中になってしまいます!」
 ユリウスは馬首を返し、馬上からディディルに微笑みかけた。
「一人で大丈夫だね? 祈祷も掃除も馬の世話も」
「は、はい」
「危険はない。近隣の村人は、皆、気のいい人たちだ」
 それから、ユリウスは少し眼を厳しくして付け加えた。
「神殿の敷地からは出るな。この神殿には青珠が結界を張った。敷地内にいる限り、翠珠の目も届かないだろう」
 表情を硬くしながらも、ディディルはしっかりとうなずいた。
 ──それぞれが罪人だった。
 王子ユリウスから黄色い石を奪ったディディルも。
 ディディルをそこまで追いつめてしまった王子ユリウスとユリアも。
 そして、セラフィムを殺した過去を持つ巡礼のユリウスも。
「できるだけ早く、ユリウス王子と一緒に戻ってくる」
 西へと視線を向け、ユリウスは凛然とした口調で言った。
「黒曜公は──僕たちが考えているより遥かに危険な人物かもしれない」
 ディディルははっとした。
 真っ直ぐに前を見つめるユリウスの厳しい表情が、息を呑むほど美しい。
「……ご武運をお祈りしています」
 ユリウスの決断を尊重し、祈る形に指を組んだディディルはきっぱりと言った。
 もうすぐ夜になる。
 知らない場所に一人取り残されるのが心細くないはずがない。
 しかし、自分のわがままが彼の足手まといになってはいけないと──そうディディルは考えたに違いなかった。
 ディディルに向かって軽くうなずき、ユリウスは馬を走らせた。
 神殿にたたずむ少女から、馬はどんどん遠ざかっていく。
 疾走する馬の上で、黒い衣や金色の髪が風にあおられ、耳飾りが激しく揺れた。
<顔が似ているからって、黒曜公があなたの友達だとは限らないわ>
 青珠の声がユリウスを追った。
「解っている。でも、直接会って確かめずにはいられないんだ」
 おそらく、もう城塞都市の城門は閉まっているだろう。
 それでもじっとしてはいられなかった。
 刻一刻と夕闇に支配されていく田園風景の中を、黒い都へと向かって、ユリウスは馬をひた走りに走らせた。

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2005.4.21.