我が罪との邂逅
1.
黒いユリウスが近づいてくる──
浅い眠りを妨げられ、その予感に不安を覚えた。
王子ユリウスは、部屋を、もとの豪華な続き部屋から、窓のない石牢のような場所へと移されていた。
見張りは二人。
扉の外に、いずれも武装した金髪の娘がいる。
彼のそばにユリアはいなかった。
部屋にあるのは粗末な椅子と粗末な卓子、小さな卓上ランプ、それから硬い木の寝台だけだ。
夕食は黒曜公の小姓らしい少年が一人で運んできた。
寝台の上で、ユリウス王子は苦笑を洩らした。
──公のご不興ををこうむったというわけか。
それだけ、セラフィムの余裕が失われつつあるということだ。
しかし、黒いユリウスの動きが気になる。
黒耀城へ向かっているのか……?
ディディルを置いて?
ディディルを伴って?
寝台の上に身を起こし、立て膝をついた膝を抱え、ユリウス王子は唇を噛んだ。
千里眼は使えない。
黄珠の力は借りられない。
なんと自分は無力な存在なのだろう。
ユリアは、自室で茫然と物思いに耽っていた。
──石って何だろう?
ガデライーデは黒曜公の緑の石を探せと言い、黒曜公は王子ユリウスの黄色い石を奪った。
ただの宝石に、なぜ、そんなにも必死になる必要があろう?
彼女は王子の世話係をやめさせられ、もとのように黒曜公のちょっとした身の回りの世話をするようにと命じられた。
黒曜公のそばにいられることは嬉しかったが、王子ユリウスの今後の処遇についてが気がかりだった。
でもそれよりも──と彼女は考えた。
緑の石を見つけたことを、ガデライーデに報告すべきか。
報告すれば、それだけのことで、彼女は白い都の市民の権利が得られる。
奴隷の子として生まれた彼女にとって、それは、なにものにも替えがたい宝──自由を掴むことを意味する。
けれど、彼女は浮かない表情をしていた。
報告すれば──セラフィムとの別れが待っている。
黒い都の夜の街並みをひそやかに進む影がある。
その人影は、巡礼の黒衣に身を包んでいた。
どうやってこの城塞都市を取り囲む堅固な防壁や閉ざされた城門を越えてきたのかは定かでないが、とにかく、彼は黒い都の表通りを歩いていた。
城門は閉まっていても、まだ町が眠りに就く時刻ではない。
酒場や妓館は書き入れ時だ。
歓楽に酔う人々の群れを余所目に、ユリウスは真っ直ぐ、黒耀城だけを目指して歩いていた。
大通りの中央にある立派な神殿、その向こうにそびえる、雄麗な城へ──
精霊の気配に、セラフィムはふと顔を上げた。
凝った彫刻を施したランプの幻想的な光に浮かび上がるような室内で、彼は一人、ワインを傾けていた。
「翠珠?」
彼が扉のほうを振り返ると、そこに、扉の開いた気配はなかったが、ただ緑の石の精霊が立っていた。
「どうした。王子が何か行動を起こしたか」
「何者かが……城内に侵入した模様です」
セラフィムの眉がわずかに上がった。
「何者だ?」
「それが……」
困惑したような翠珠の顔。
「おまえが気配を掴めぬとは、並みの魔道師や神職ではないな」
むしろ面白そうなセラフィムの視線を受け、翠珠は鬱陶しそうに頭を振り──漆黒のまっすぐな髪がさらさらと揺れた。
「この城が形成している大地の負の力に気配を同化させています。このようなことができるのは、おそらくただ一人──」
「心当たりがあるのか?」
翠珠は強い光を放つ漆黒の瞳で主を見つめた。
「セラフィム様は彩羽の話を覚えておられませんか? 朱夏の魔女が求めていたという天の御子と地の御子の魂の話です」
「ああ、そんな話を聞いたような気もする。しかし──」
「ユリウス王子は──天の御子です」
「──!」
「彼は凄まじいまでに私の負の力と反撥し合っている。もし、彼が天の御子なら、それと対を成す地の御子とつながっている可能性があります」
「──だとすれば、どうなるのだ?」
翠珠は、その夜の闇のような瞳の中に、憎悪にも似た激しい色を浮かべた。
「この黒耀城へ侵入したのが地の御子であるなら──私が侵入者の気配を掴めないことへの、それが答えです」
この城は変だ。
城内に満ちる空気がおかしい。
これは……負の力──?
ユリウスは、黒耀城は危険な空間だと言った黄珠の言葉を思い返した。
「青珠、みだりに実体を現すな」
<やはり、それほど危険なの?>
ユリウスは辺りを──ひっそりとした回廊の内部を見廻した。
「これは“陰”の土地の石や土を使って築かれた城だ」
王子ユリウスの力をもってしても見抜けなかった事実。
青珠は霊体のまま、荘厳な雰囲気をかもし出す黒耀城の回廊を見渡した。
二元論にあるように、この世の全てのものは陰と陽のバランスが取れていなければならない。
城を形成している材料が、全て陰の──負に属するものであるなどとは、普通では考えられないことだった。
意図しなければありえない。あえてそうすることで、翠珠はここに一種の強力な負の結界を作り上げたのだと思われる。
<でも、それがなぜ、ユーリィには解るの?>
「大地の力は僕に深く共鳴する。僕を地の御子だと言った朱夏の言葉は、あながちでたらめではないらしい」
緑の石もまた、地の石だった。
<王子の居場所は判る?>
「いや。僕に王子の心を読み取る眼はない。それよりも、黒曜公に会いたい」
ユリウスは回廊をゆっくりと歩きながら、ひとつひとつの部屋の様子を外から窺った。
「それにしても、この城は死の穢れが強いな。死臭に慣れた僕でさえ、これほど感じるのだから、王子にはさぞきついだろう」
<これでは、王子の千里眼は役に立たないわ>
ふと、ユリウスは足をとめ、黄色い石を奪われ、千里眼も使えない状態の王子の心情を思った。
無垢であるがゆえの天の御子の眼には、大いなる穢れが障害となる。
「王子の居場所は、霊体のまま、おまえが捜してくれないか?」
<いいわ>
「ディディルが無事だと伝えてくれ」
前方から不意に人の気配が近づいてきた。
その足音、衣擦れの音から、数名の侍女らしい。
これだけの天井の高さであれば、もっと大きく響くはずの彼女たちの足音は、信じられないほど静かであり、ユリウスが気づいたときにはもう、彼が身を隠す場所を探す暇さえないほどだった。
だが、何事も起こらなかった。
そこにいるユリウスを当たり前のように無視し、四人の娘たちはまるで何事もなかったように、彼のそばを静かに通り過ぎていった。
「……?」
全ての娘が金髪なのはいいとして、誰一人としてユリウスのほうを見なかったのは、明らかに異常だった。
<……どういうことかしら>
青珠の声も怪訝に響く。
<どの娘も眼に光がない。まるで人形……>
そこまで言って、青珠が息を呑む気配が伝わってきた。
「──そう。傀儡魔術が使われているんだ」
小さく息を吐いて気を引き締め、ユリウスは見えない精霊を振り返った。
「では、二手に分かれよう。僕はこの死の穢れの根源をたどっていく。必ず、黒曜公のもとへ案内してくれるはずだ」
* * *
幻想的なランプの光が、セラフィムの横顔に陰影を刻み、その顔を彫像のように照らし出していた。
セラフィムはしばらく考え込んでいたが、やがて翠珠を見て言った。
「おまえの言う通り、侵入者が地の御子とやらなら、必ず王子のもとに現れるな?」
翠珠がうなずく。
「王子を監禁している部屋を見張れ。そいつが現れたら、ここへ連れてこい。どんな人物なのか、見極めてやる」
主の言葉に一礼し、翠珠はすっと闇に融けるように姿を消した。
精霊が消えてから、セラフィムはゆっくりと椅子から立ち上がり、部屋を横切った。
細長い黒檀の櫃を開け、中から黄金造りの柄と鞘に宝石を散りばめた長剣を取り出す。
「……地の御子、か」
セラフィムはすらりと半分だけ剣を鞘から抜くと、再び刀身を鞘の中に収めた。
菫色の瞳に悪魔的な笑みが浮かぶ。
「地の石を持つ地魔神の末裔に斬られることを光栄に思うがいい」
広大な黒耀城の部屋のひとつひとつを、青珠は遠透視で探っていた。
王子は一度、逃亡を企てている。
おそらく城の深層に閉じ込められているのだろう。
ふと、青珠の意識がある部屋に向けられた。
扉の前に、武装した二人の娘が配置されている。──この娘たちもまた傀儡だ。
透視の目を、その部屋の内部に向けた。
──いた!
石の壁、石の床の、まるで牢を思わせる冷たい部屋に、彼は幽閉されていた。
<王子──ユリウス王子……>
青珠の呼びかけに、だが、王子は反応を示さなかった。
<……?>
巡礼のユリウスと同様、彼もまた、石を持たずして珠精霊の声を聞くことのできる数少ない人間の一人だ。だが──
ふと、この城に満ちる死の穢れを思った。
王子は千里眼を封じられている。
今の王子には、黄珠の声すら聞こえないに違いない。
それに気づいたとき、とっさに青珠は王子の前に姿を現していた。
2005.4.29.
加筆修正 2020.10.25.