我が罪との邂逅

2.

 この城の深閑さはどうだろう。
 城全体が深い眠りに就いているように、ひっそりと、静まり返っている。
 ユリウスは、回廊のつきあたりの螺旋階段をのぼっていた。
 自分の足音だけが響く。
 のぼってものぼっても、切りがないようにさえ思える。
 ある階に辿り着いたとき、なんとなく、そこに続いている回廊に出てみた。
 ──こっちだ。
 死の穢れを強く感じる。

「! ──青珠……?」
 その部屋の中に彼女が実体を現して初めて、王子ユリウスは青い石の精霊の気配に気づいて叫んだ。
「ユリウス王子、大丈夫ですか」
「青珠! 君こそ、大丈夫なのか? この城は危険極まりない空間だ」
 ユリウス王子は座っていた寝台の上から降り、青珠のほうへ手を差し伸べた。青珠がその手を受け、握る。
「君は一人ではないだろう? 彼はどこだ?」
「黒曜公のところへ。でも、すぐに話はつくでしょう」
「ディディルは?」
「無事です。安全な場所にいます。王子も、すぐそこへお連れします」
「馬鹿な! 不意を突く以外、この黒耀城からそんなに簡単に出られはしまい」
 卓上ランプの小さな光だけが照らす部屋の中、突然、青珠は身を翻し、薄暗い空間を見つめた。
「どうした、青珠……?」
「翠珠がいる」
──!」
 闇からくすくす笑う声が妖しく響き、刹那、青珠の見つめる空間に、緑の石の精霊がその華奢な姿を現した。
「まさかこの城へ、珠精霊が二人もやってくるとは思わなかったよ」
 薄暗い狭い室内で、王子を護るように彼の前に立ちはだかった青珠が屹と翠珠の顔を睨めつける。
 そんな青珠の様子を一瞥し、翠珠は黒い髪を揺らして鷹揚に笑った。
「相変わらず美しいね、青珠」
「……あなたも少しも変わってないわ」
「いや、私は変わった。ペンタクルの第一の封印を解かれて、より鮮明に自我を取り戻した」
「第一の封印?」
「黒牙帝が緑の石に施した、ひとつめの封印。ひとつめのペンタグラムさ。それが破壊されたとき、私は黒牙帝が私に何を求めていたのか、はっきりと知ることができた」
 翠珠は片手を腰にあて、わずかに首を傾けて青珠を見た。
「しかし、そんなことより、なぜ君がここにいる? 青珠。まさか君が侵入者ではあるまいな」
「そうだと言ったら?」
 翠珠は嘲るような笑みを浮かべた。
「ユリウス王子が天の御子だということは判っている。君のあるじは、地の御子だろう?」
 青珠はとっさに驚愕を覆い隠すことができなかった。
 彼女の心の動きは、そのまま彼女の表情に出た。
──やっぱり」
 吐息のようにひと言だけ洩らすと、翠珠はすっと背を向け、霊体になってその場を去ろうとした。
「待って。なぜ、あなたがそのようなことを知っているの?」
 うるさそうに首だけを廻して翠珠が青珠を振り返る。
「鳥が教えてくれたよ」
「鳥?」
「そう。極彩色の、美しい羽を持つ鳥。彩羽さいは。朱夏に飼われていた。……彼のこと、知らないかい?」
 青珠ははっとした。
 朱夏の住む館の庭に放されていた色とりどりの美しい鳥たち。
「朱夏が飼っていた人間──
「そう、その通り」
 青珠は愕然とした。彩羽が──黒耀城を訪れた──
「彼らは鳥じゃないわ! 人間よ」
「でも、今は鳥だ」
 吐き捨てるように言った翠珠の瞳は冷たかった。
「君も、下手に動かないことだ。さっき王子が言った通り、黒耀城からは逃げられない。君の力を最大限に使ったところで、珠精霊の力は諸刃の剣。君の主とユリウス王子にまで危害が及ぶ」
「どこへ行くつもり?」
「知れたこと。君の主のところだ。黒曜公のもとへ行ったんだろう?」
「翠珠」
 低い王子の声が、翠珠の言葉をさえぎった。
「地の御子に、地の魔術は通じない」
 一瞬、激しさを帯びた精霊の黒い瞳が鋭く王子に向けられた。
「だから、なんだ? 確かに私は地に属する精霊だ。しかし、相手が地の御子なら、黒曜公はセイリウの末裔だ」

 ある部屋の前で立ち止まった。
 ユリウスの前に、観音開きの大きな扉がそびえている。
 ゆっくりと把手に手をかけ、扉を開けた。
「……」
 人の気配は感じられない。
 ただ、幻想的な光が、室内を浮かび上がらせるようにそこに満ちていた。
 気配は動かないが、確かにそこに人がいると直感して、ユリウスはそっと扉の中に身を滑り込ませた。
「動くな」
「……!」
 ランプの光に反射して、刀刃がきらめいた。
 その部屋の中に一歩足を踏み入れたユリウスを待ち構えていたものは、扉の陰に身を潜ませていたこの部屋の主であった。
 斜め後ろから首の前に刃を突きつけられ、ユリウスは動きを止め、息を殺した。
「おまえが地の御子か? この黒耀城に侵入するとは、大したもの──
 そこまで言って、言葉が途切れた。
 不自然に終わってしまった言葉を不審に思い、ユリウスはそっと刃を突きつけられている方向──左後方に顔を向けた。
 そこに立つ人物を見て、ユリウスは顔色を変えた。
 剣と、
 酒と、
 流れた血──
「セラフィム……!」
 オレンジ色のランプの光に照らされた自分の顔を愕然と見つめている人物を、ユリウスは確かに知っていた。
 しかも、その人物は──
「ユ……リ、ウス……? まさか──!」
 セラフィムもまた意表をつかれた形で、ややたじろいだように呆然とその場に立ち尽くしていた。
「地の御子とは、おまえなのか……?」
 夢を見ているような眼差しで、彼はユリウスの喉元に向けていた刀刃を、胸の辺りまでそろそろと下ろした。
「嘘だ、セラフィムは……」
 間近にあるセラフィムの顔を凝視したまま、しぼり出すようなユリウスの声は掠れていた。
「三年前に──死んだ……」
「三年半前だ」
 と、セラフィムはつぶやくように訂正した。
「じゃ……じゃあ、やっぱりおまえはセラフィムなのか? なぜ、僕の目の前にいる? それとも僕は彼の亡霊を見ているのか」
 長剣を下ろし、セラフィムはようやく感情をぬぐって、静かな、さりげない表情をユリウスに向けた。
「ある意味、亡霊かもしれんな」
 彼は嘲笑的に口許をゆがめた。
「おまえに会いたくて──おまえに会うためだけに、黄泉の国から舞い戻ってきた」
「セラフィム、冗談は──
「いや、本当のことだ」
 セラフィムはユリウスが開けた扉を閉め、彼を部屋の中に招き入れた。
 黒檀の椅子を手で示し、掛けるようにユリウスに合図してから、卓子の上に置かれた酒壺を手に取って掲げた。
「飲むか?」
 ユリウスはセラフィムのもう片方の手に握られた長剣を見遣った。
 剣と、
 酒と、
 流れた血。
「いや、いい」
 セラフィムは微かに苦笑を浮かべた。
「警戒しているのか」
 彼は酒壺の葡萄酒を自分のゴブレットに注いだ。
 黒い外套を揺らし、ユリウスが黒檀の椅子に座る。
「そのなり──巡礼の装束だな。傭兵は辞めて、巡礼者になったか」
「……」
「不景気ななりだが、おまえはやはり何を着ても美しい」
「セラフィム、やめてくれ」
 いたたまれなくなったように、ユリウスは卓子に拳を叩き付け、眼を伏せた。
「なぜ、そんなに穏やかな顔をしていられる? おまえは僕を恨んでいるはずだ」
「恨んでいる?」
「おまえは……僕に殺されたのだから──!」
 セラフィムはゴブレットに口をつけ、微かに微笑んだかに見えた。
「恨む……そうだな。憎んでいないと言えば、嘘になる。だが、それ以上に、おれはおまえを愛していた。今もだ」
 ゴブレットを置き、セラフィムはユリウスの座る椅子の左側に近づいた。
 左手に長剣をつかんだまま、右手でユリウスの美しい金髪に触れた。
「殺されても、おまえを忘れることはできなかった。憎みながら、愛し続けた」
 ユリウスは、何か得体の知れない恐ろしさを感じていた。
 彼は死者だ。
 確かに自分が殺した。
 彼自身がそう言っている。
 この城に死の穢れが満ちているのは、彼が死者だからだ。
 ではなぜ、彼はそこに、生きている?
 セラフィムの唇がユリウスの髪に触れた。
「あの事件がなければ、おれたちは今、何をしていただろう?」
 音楽のようにセラフィムの声が耳に心地よく聴こえ、ユリウスはけだるげに瞼を伏せた。
 ──恐怖は甘美だった。
「おれは一国の君主になどならなかったし、おまえも巡礼などしていないはずだ。おれたちは今も、ともに、同じ道を歩んでいただろう」
 夢を見ているのだろうか。
 それとも、三年半前のあの忌まわしい事件こそ、夢だったのか?
「ただひとつ、変わらないのは……ユリウス、おれがおまえを愛していることだ」
 身をかがめ、セラフィムはユリウスの白い頬にかわいた唇をそっと押し当てた。
「この三年半の間、一日たりともおまえのことを忘れた日はない」
「セラ……フィ──
「ユリウス、愛している」
 セラフィムの唇がユリウスの頬をすべり、彼の唇に触れようとした瞬間、ユリウスは顔を右に背け、セラフィムの愛撫から逃れた。
 淋しげに微笑み、セラフィムは身を起こした。
 その指がユリウスの耳元の髪をすくう。
「その耳飾り……青い石か?」
 ユリウスははっと左耳に手をやった。
「奇妙な偶然だな。四宝珠を持つ者が、やはり四宝珠を持つおれを、二人も訪れた。しかもそれは、天の御子と地の御子だという。今、この城には四宝珠が三つまでそろっていることになる」
「そのうちの二つは、おまえが持っているのだろう?」
 ユリウスは視線を上げて、自分の髪を弄ぶセラフィムの指を見た。
 右手の中指に、緑の石を象嵌した指輪が光っている。
「翠珠はおれの生命だ」
 セラフィムは右手を上げて、愛おしそうに中指の指輪を眺めた。
「まつろわぬ黄珠などどうでもよい。翠珠さえいれば、おれはいい」
「黄珠をどうした?」
「どうも? ただ、暴れられると厄介なので、石を封印してある」
 ユリウスの眼がわずかに険しさを帯びた。
 まずは黄色い石を見つけ出し、その封印を解かなければならない。
「侵入者は、てっきりユリウス王子のところへ向かうと思っていた。王子のもとへは、精霊を行かせたか」
 セラフィムはユリウスを見下ろして、にやりと笑った。
「おれに会いに、真っ先に来てくれたのか?」
 ユリウスが横目で屹とセラフィムを睨む。
「それが偶然であっても、おれは嬉しい。おまえのほうから、おれを訪ねてきてくれたのだからな」
「……王子は無事か?」
「もちろん。彼には利用価値があるからね。王子の部屋は翠珠が見張っている。珠精霊同士、今頃は鉢合わせだな」
 ユリウスははっと立ち上がった。
「青珠!」
 ユリウス王子を見つけ出しても、そこに翠珠がいては、動きが取れない。
 ここは、翠珠の結界の中なのだ。
 剣を持つセラフィムの存在も忘れて、ユリウスは身を翻した。
 ──セラフィムも、あえて止めはしなかった。
 黙って、静かに、慌しく部屋を出ていく黒衣の背を見送った。
 その菫色の瞳には、憎悪が揺らめいていた。

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2005.5.8.
加筆修正 2020.11.12.