我が罪との邂逅
3.
慌しい足音が部屋の前を通り過ぎる音が聞こえ、ユリアはびっくりして寝台から起き上がった。
この黒耀城で、黒曜公以外に慌しく歩き廻る人間などいない。
そして、この足音はユリアのよく知る黒曜公のものではなかった。
「何かあったのかしら」
おそるおそる寝台から降り、扉のほうに、ユリアは向かった。
少しだけ、扉を開けてみる。
「……」
回廊を小走りに行く黒い人影が見えた。
あれは誰?
黒い衣を着ている。──全身黒ずくめだ。
回廊には常時灯りが燈してあるが、それがどのような人物であるのかは、影になって、ユリアにはよく判らなかった。
──ユリウス王子に何かあったのでは?
とっさにそう思った。
ユリウス王子が閉じ込められている部屋が、この階より三階下の、窓のない石牢のような部屋だということは、彼女も知っていた。
彼女は急いで扉を閉めると、衣を着替えた。
翠珠が去った薄暗い石の部屋で、青珠は次の行動の選択に迷っていた。
「青珠、翠珠を追え」
「でも、王子──」
「私のことはいい。私が下手に動けば、却って君や黒いユリウスに迷惑をかけるだろう。私はここにいる。ただ、ひとつだけ……黄珠を──捜してほしい」
「解りました」
承諾の意味を込めて、青珠は王子ユリウスの手をしっかりと握り締めた。
と、青珠の手から不意に伝わってきた緊張を感じ取って、ユリウスの表情を不安がかすめた。
「どうした?」
「誰か、この部屋へ入ろうとしています」
その青珠の言葉が終わらないうちに、ひとつしかないこの部屋の出入り口が開かれ、手燭を持った男装の若い娘が入ってきた。
薄暗い部屋の中、その娘をひとめ見て、青珠は唖然とした。
「ユー……!」
顔かたちの細部やその表情は違うのに、彼女は、全体から受ける印象が驚くほどユリウスと似ていた。
その人物は青珠に気づき、無邪気な驚きの表情を浮かべて問いかけた。
「あなたは誰? なぜここにいるの……?」
「あなたこそ誰? なぜ、そんなにユーリィに似ているの?」
「ユリウスに似ている?」
怪訝な声を上げたのは王子だった。
「ユリアが──黒いユリウスに似ているのか?」
ユリアは王子を見た。
「黒い、ユリウス──? 何のことですの? あたしは、ただ王子様が心配で、様子を見に来ただけですわ」
「王子、この娘は味方ですか?」
「……敵ではない」
王子とユリアの様子から、青珠はここに危険はないと判断したようだ。
「では、王子、わたしは翠珠を追います」
「うむ。気をつけて」
微かにうなずき返し、青珠は霊体となって消えた。
驚いたのはユリアだ。
「ユリウス様、今の人は……? 確かにここにいたのに、まるで煙のように消えてしまったわ」
ユリウスはユリアの手を取り、彼女と並んで寝台の上に腰掛けた。
「大丈夫、彼女は精霊だ。私の味方だよ」
「翠珠か」
長剣の刃を宝石を散りばめた黄金造りの鞘の中に戻し、それを黒檀の卓子の上に置きながら、セラフィムはつぶやいた。
彼が振り向くと、そこに翠珠がひっそりとたたずんで控えていた。
「セラフィム様、侵入者はここへ来たのですか」
「青珠と会ったのか?」
「はい。侵入者は精霊の宿り石を持っています」
「ふん、おまえはその侵入者の姿を見たか?」
「……いえ──」
「ふふふ……驚くぞ」
翠珠は微かに戸惑ったような表情を眼に浮かべた。
セラフィムの様子がどこか尋常ではない。
「青珠はどこだ?」
「私を追ってきました」
「どこにいるか判るのか?」
「先ほど、王子の前に不用意に実体を現しました。ひとたび実体を現せば、この城の中、あとはいくら霊体に戻ろうとも私には彼女の気配が掴めます」
「ここに引きずり出せ」
セラフィムの言葉の、そのあまりにも冷酷で乱暴な響きに、翠珠は意外な思いを禁じえなかった。公は──どのようなときにも、自分の感情を抑制させることに長けた人物なのだ。
「セラフィム様、今は青珠よりも、侵入者の位置確認のほうが先決かと──」
「いいから、青珠の実体をここに現させろ!」
何が黒曜公をこんなにも激昂させているのだろう?
怪訝に思いながらも、翠珠は小さく呪文を唱えた。
ランプの炎が揺れる。
「──う……!」
豪奢な部屋の幻想的な灯りの中、微かな呻き声とともに、何もなかった空間から碧羅をまとったうら若い娘が実体となって現れ、大理石の床に落下した。
流れ落ちる結い上げた長いアイス・ブルーの髪。
鮮やかな青い瞳が屹とセラフィムを睨んだ。
「……あなたが、セラフィム?」
「ほう、おれの名を知っているのか」
青珠の瞳に映ったのは、あのケレス神殿の壁画に描かれていた貴人だ。
そして、美しい精霊を見つめるセラフィムの眼は冷たかった。
「おまえが青珠か。なるほど、実に美しい。その楚々とした美しさで、ユリウスをたぶらかしたのか?」
「……?」
床の上に倒れ込んだままの青珠に大股で近寄ったセラフィムが、その華奢な腕をぐいと掴んだ。
とっさに霊体になって逃れようとした青珠は、自分の腕を掴んだ彼の手の中から逃れ得ない事実に気づき、愕然とした。
「何を驚いている?」
そんな青珠の様子をセラフィムが嘲笑う。
「珠精霊ごときが、黒牙の血に逆らえると思うのか」
「セイリウの血を引くというのは本当なの?」
「さてな。しかし、おれに触れられただけで精霊の力を発揮できないことは、おまえ自身、認めざるを得まい」
「──!」
セラフィムは青珠の腕を強く引き、彼女を強引に立たせた。
「翠珠。おまえはこの部屋の扉を見張れ。誰であろうと中へは入れるな」
「セラフィム様、これはどういう──」
彼をよく知る翠珠でさえ、今のセラフィムが正気であるとは思えなかった。
青珠の腕を掴んだまま、セラフィムは奥の寝室へ続く扉を開けた。菫色の瞳には、狂気の翳が揺らめいている。
彼は尊大な態度で青珠の身体を軽々と両腕に抱え上げると、驚く翠珠に残忍な笑みを向け、寝室へ足を踏み入れた。
「青珠をおれのものにする。おれに征服され、おれの傀儡になり下がった使い魔を見たら、奴はどう思うだろうな」
翠珠一人を残し、寝室の扉が閉められた。
セラフィムの意図を悟り、青珠は恐怖に全身を強張らせていた。
黒曜公に犯される──
それは、黒曜公の傀儡と化すことを意味していた。
傀儡魔術は魔力の強さで返すことはできる。しかし、朱夏と紅珠がそうであったように、精霊が四魔神の血に抗えるとは思えなかった。彼が本当に黒牙の裔だとしたら、抗える力は自分にはない。
公の傀儡としてユリウスに刃を向ける自分自身を思い、青珠は戦慄した。
石に宿る精霊の誇りにかけて、石の主に刃向かうなどあってはならない。その上、その主たる青年は、彼女の最愛の人物なのだ。
傀儡になるくらいなら、消滅してしまいたいと、絶望的に思った。
何よりも、黒曜公の傀儡になった屈辱的な姿をユリウスに見られたくはないと──青珠は狂おしい想いで考えた。
<ユーリィ──!>
ありったけの思念波で青珠は主の名を呼んだ。
ユリウスの足がぴたりと止まった。
「青珠……?」
薄暗い回廊の中で、青珠の気配を追っていたユリウスは、彼女の定まらない位置にユリウス王子の居場所を見いだせずにいた。
──が、いま聴こえた声は?
それにははっきりと尋常ならざる響きが含まれていた。
助けを求める声だといってもいい。
それだけに、胸の中に、漠然とした戦慄が暗雲のようにじわじわと立ち込めてくるのを否定することができなかった。
ユリウスは、慎重に、青珠の今いる位置を探った。
「セラフィムの……部屋だ──」
王子ユリウスと一緒にいるのではなかったのか。
青珠が今いる場所は、つい先刻まで彼自身がいた、あの部屋だ。
すると、青珠は今、セラフィムと対峙しているのか……?
まさか──でも──
刹那、恐ろしいほどの不安感に支配され、混乱する思考を何とか立て直そうとユリウスは必死にあがいた。
それは慄然たる恐怖以外のなにものでもなかった。
考えをまとめることすらできないまま、彼は身を翻し、いま来たばかりの道筋を引き返し、セラフィムのいる部屋を目指して夢中で駆けた。
ただひとつのことに想いを馳せて。
青珠、無事でいてくれ──
2005.5.10.
加筆修正 2020.12.9.