我が罪との邂逅

4.

 黒大理石がふんだんに使われ、黒を基調とした黒曜公の寝室は、窓掛けが引かれていない大きな窓から月明かりが射し込み、部屋全体を仄白く染め上げていた。
「きゃ……」
 大きな寝台の上に投げ出された青珠は、黒曜公の手が離れた一瞬を狙って霊体になろうと試みたが、そんなわずかな隙さえ、黒曜公は与えてはくれなかった。
 すぐに彼女は寝台の上でセラフィムに組み敷かれ、両の手首を痛いほど彼の手に掴まれた。
「ユリウスはおれを拒んだ」
「……?」
「昔のユリウスなら、おれを拒みはしなかっただろう。おまえを──おまえのことだけが、彼の頭を占めていた」
「……」
「なぜだ? なぜ、彼の心を捕らえたのはおれではなく、おまえなのだ──?」
 狂おしいまでの嫉妬と憎悪に満ちた菫色の瞳を、青珠は呆然と見つめた。
「セラフィム、あなたはユーリィのことを……」
「だとしたら何だ」
「あなたは、ユーリィに殺されたのではなかったの?」
「……そう。おれは彼に殺された。そして、翠珠の力でよみがえったのだ」
「! ──まさか、反魂はんごんの……術を──!」
 手足の自由をセラフィムに奪われている現在の状況も忘れて、青珠は叫んだ。
「あなたは黒牙帝の裔であり、翠珠は反魂の術を使った──それはつまり、“沈黙の封印”を解いたということね……?」
 死人を蘇生させる反魂の術は、それを行う実力があるかどうかはともかく、魔道師の間にあっては最大の禁じ手である。ましてやそれを、自然の理を重んじるはずの珠精霊が行ったことが、青珠にはにわかには信じられなかった。
 翠珠が死者を──ユリウスが殺した、セラフィムをよみがえらせた。
 そのために、“沈黙の封印”が解かれた。
「翠珠……」
 セラフィムは冷然と青い石の精霊の顔を見下ろした。
「それがどうした? “沈黙の封印”を解かなければ、おれは復活できなかった。それはあるじをよみがえらせようとする翠珠にとって、唯一の方法だったのだ」
 沈黙の時代は、魔族がその力を封じられ、魔物たちが眠りに就く時代。その時代に翠珠はセラフィムを名実ともに魔神の末裔としてよみがえらせた。
 “沈黙の封印”が解かれた理由──その目的は、一度死した黒牙帝セイリウの“血”を復活させることだったのだ。
「死からよみがえったことにより、おれの体内に流れる黒牙の血が目醒めつつあるのが自分でも感じられる。少しずつではあるが……確実に。触れているだけで珠精霊であるおまえの力を封じることができるのも、黒牙の血の力だ」
「……黄色い石を奪い、今またわたしを傀儡にしようとしているのも、黒牙の血に従ってのこと? その手に四宝珠を集める気?」
 セラフィムは怪訝な表情を見せた。
「一人の人物が四宝珠全てを持つなど、所詮、夢物語だ」
 セラフィムは青珠の両手首を掴んだまま、彼女の顔に自らの顔を近づけた。
「黄珠は危険だから封じた。おまえはただおれのものにしたいから、そうするまでだ」
 青珠の唇を捕らえようとした彼の唇が、とっさに彼女が顔を背けたため、滑らかな頬に当たった。
「いや……やめなさい、セラフィム……!」
 だが、セラフィムは構わず、彼女への冷たい愛撫を続けた。
 彼の指が蒼い髪をまさぐり、白い首筋に唇が這った。
「つっ!」
 彼女の喉元をセラフィムが強く噛み、青い石の精霊が呻く。
「精霊でも、痛みを感じるんだな」
 低くささやく声は嘲りを含んでいた。
 青珠がもがく。
<いや、ユーリィ……!>

 翠珠は絶句した。
 まさか、ここに現れる人物が、彼だとは思ってもみなかった。
 黒曜公が、最も愛し、最も憎んでいる人間。
──ユリウス」
 その人物の名を、口の中でつぶやいた。
 巡礼の黒衣をまとった、神々しいほど美しい青年がそこにいる。
 セラフィムの部屋の扉の前で自分を待ち受けていた少年を、ユリウスはある種の感慨を持って見つめていた。
 これが翠珠か。
 最後の珠精霊、緑の石の精霊──
 漆黒の真っ直ぐな髪を顎の辺りの長さに、前髪は眉の下で切りそろえた、少女のような白い肌を持つ異国的な少年。
「そこをどけ、翠珠」
──なぜ?」
 射るような眼差しがユリウスを貫いた。
「セラフィムに会いたい」
「誰も部屋へ入れるなと、セラフィム様の仰せだ」
「中に青珠がいるだろう?」
「だから?」
 流れるような動作で、ユリウスは外套の下の細身の剣をすらりと抜いた。
「力ずくでも中へ入る」
 人形のような整った翠珠の顔を、憎悪がかすめた。
「一度ならず二度までも、あの方に刃を向ける気か? 私の結界内であるこの城で、おまえの好きにはさせない」
 翠珠の動きは素早かった。
 黒い陽炎を思わせる蔓のような鞭で、ユリウスに攻撃を仕掛けてきたが、ユリウスは彼以上の俊敏さで、これをかわし、剣を振るった。
「……ほむらの鞭が、切られた……?」
 人間界の物質ではないそれを、人間であるユリウスに両断されたことがにわかには信じられなかった。
 愕然とする翠珠の耳に、王子ユリウスの言葉がよみがえった。
 ──地の御子に、地の魔術は通じない。
 だが、そのとき、はっとするいとまもなく、翠珠の心臓は真っ正面からユリウスの剣に刺し貫かれた。
──っ……!」
 暗緑色のチュニカをまとった胸にユリウスの剣を突き立てたまま、翠珠は回廊の床にゆっくりと倒れていった。
「悪く思うな。おまえを殺す気はない。石本体を砕かなければ珠精霊が死なないことは知っている。だが、青珠の身にはかえられないのでね」
 眼を大きく見開いたまま仰向けに倒れている翠珠の心臓に刺さった剣の柄に触れ、ユリウスは口の中で呪文を唱えた。
「しばらく意識を失っていてもらおう。セラフィムとのやりとりを、おまえに邪魔されたくない」
 剣を突き立てて倒れたまま、仮死状態になった翠珠をそこに残し、ユリウスは観音開きの大きな扉に両手をかけた。

「ランプの火が……消えそう……」
 心配そうなユリアの声が、王子ユリウスを現実に引き戻した。
 四方を石壁に囲まれた薄暗い部屋の中で、硬い寝台の上に、二人は寄り添うように腰掛けている。
「あ……ああ、そうか。でも、私に光は必要ないからね」
「ユリウス王子様、いったい、このお城で何が起こっているのですか?」
「……」
「セラフィム様は、なぜ、ユリウス様の宝石を奪ったのです? クロロス様って、何者? それに、さっきの女の人──
「ユリア」
「はい」
「私をこの部屋から連れ出してくれないか?」
 ユリアは驚いて身を引いた。
「それは──できません。セラフィム様の命には逆らえません」
「そう……そうだったね。では、ユリア、私のことはいいから、さっきの娘の様子を見てきてくれないか」
「さっきの……女の方の?」
 ユリウスはうなずいた。
「彼女は精霊だ。名を青珠という。私を救出するために危険を冒してここまで来てくれたのだ。おそらく──今、黒曜公の部屋にいるはずだ」
「セラフィム様の……」
「彼女が危険にさらされていてはならない」
──はい」
「彼女と……もう一人、青年がいる」
「もう一人? その方も、ユリウス様を助けにきたのですか?」
 ユリウス王子は見えない眼をユリアに向けて諭すように言った。
「そう。彼の名もユリウス。黒衣をまとっているから、黒いユリウスだ。金髪の、美しい青年だから、会えばすぐに判る。彼は……そなたに似ているらしい」
「あたしに似ている?」
 驚きに眼を見張るユリアに王子はうなずいた。
「青珠がそう言った。そして、彼は私にとって大切な人間なのだ」
 千里眼を封じられた王子ユリウスは、しかし、巡礼のユリウスの鼓動だけは感じ取ることができた。
 彼の感じるもの、彼のいる空間、彼を取りまく空気──
「さあ、ユリア。様子を見てくるだけでいい。充分に気をつけて。少しでも危険を感じたら、すぐにそなたの部屋へ戻りなさい」
「はい、ユリウス様」
 ユリアは手燭を持って、立ち上がった。

 ユリウスは両手で大きく観音開きの扉を開けて部屋に入った。
 つい先刻、自分が座っていた黒檀の椅子。
 卓子の上には、酒壺と、ゴブレットと、セラフィムが手にしていた黄金造りの柄の長剣が鞘に収められて置かれている。
 ただ、そこにセラフィムの姿はなかった。
 気配は感じられる。──奥に続く扉の向こうだ。
 ユリウスはその扉に歩み寄り、様子を探りながらそっと開けた。
 灯りは燈されていないが、月明かりに満たされた黒を基調にした広い室内は、荘厳な印象の空間だった。部屋の中央から左側の壁に頭部を向けて置かれた重厚な寝台の上に、二つの影が折り重なっている。
 黒曜公セラフィムと、青い石の精霊。
 ユリウスの耳が微かな声を捉えた。
「あ……」
 青珠がいくら抵抗を試みようとも、セラフィムに触れられているだけで、まるで魔力が吸い取られていくような無力感に襲われた。どんどん力が抜けていく。
 それでも、青珠は必死に彼から逃れようともがいていた。
「青珠、自我を捨てろ。身も心もおれに委ねろ」
「いや──あ!」
 漆黒の絹地に金糸で刺繍を施した夜具が掛かった大きな寝台の上に、力なく横たわる青珠の上に伸し掛かるセラフィム。娘のむき出しの肩や白い胸元にはいくつもの噛み跡や赤い所有の印が刻まれている。
 大きな音が響き渡り、乱暴に扉が開かれた。
 その部屋の中に足を踏み入れたユリウスは、眼前の光景に愕然と凍りついた。
 自分の顔色が変わるのが解るほどだった。
 それが珠精霊に傀儡魔術を用いることを目的とした行為であることも、瞬時に気づいた。
──セラフィム……!」
 怒りを帯びた低い声に名を呼ばれ、扉のほうへ顔を向けても、セラフィムは青珠に覆いかぶさったまま悪魔的ににやりと笑っただけだった。
 ユリウスがそこにいると判っても、セラフィムに手を止める気配はない。
「早かったな、ユリウス。もうすぐ青珠はおれのものになる。そこで見ていろ」
「やめろ! セラフィム、今すぐやめるんだ!」
 碧羅の下の白い肌を這うセラフィムの指や唇を見て、ユリウスは、自分の身が激しい憤怒に侵食されていくのを感じた。
「ユー……リ──
 弱々しく喘ぐ青珠の声が、ユリウスの激情に火を付けた。
 ユリウスは、ベルトに装着している手投剣を、彼に見せつけるように青珠の唇を奪おうとしているセラフィム目掛けて投げつけた。
──っ!」
 手投剣はセラフィムの顎をかすめ、そのまま向こうの壁にぐさりと刺さった。
「……!」
 石の壁に抵抗もなく突き刺さるのは、ユリウスが放った刃だからなのか。
 はじめてセラフィムは青珠の上から身を起こし、ユリウスを睨みつけた。
「どこまでも邪魔をする気か? ユリウス」
「さっき、おまえは翠珠をおまえの生命だと言った。僕にとっては、青珠が生命だ」
「それほどまでに、青珠を愛していると──?」
「彼女は僕の心の故郷であり、僕の最愛の人であり、僕の世界の全てだ。その彼女が僕の目の前でおまえに辱められ、おまえの傀儡と化すのを黙って見ているわけにはいかない」
 セラフィムは憎悪を込めて嘲った。
「では、どうする?」
「おまえに穢される前に、青い石を砕く」
「!」
「誇り高い青珠は傀儡になるよりは死を望むだろう」
 ユリウスは二本目の手投剣を右手に構え、自らの耳飾りの青い石にその鋭い切っ先を向けた。

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2005.5.17.
加筆修正 2021.1.18.