我が罪との邂逅

6.

 剣が弾き飛ばされた。
──!」
 弾き飛ばされた剣は、天井から吊るされた多灯架の蝋燭をかすめ、勢いよく大理石の床に落ちて、甲高い音を立てた。
「……腕をあげたな、ユリウス」
 痺れる腕を押さえ、上目遣いでユリウスを睨めるようにセラフィムがつぶやいた。
「おまえは全力を出していない、セラフィム。僕を傷つけることを、どこか恐れていた」
 まだユリウスは構えを解いていない。
 セラフィムは吐き捨てるように笑った。
「それはお互い様だろう? おまえこそ、二度もおれを殺す結果になるかもしれないと恐れていたくせに」
 構えていた剣を、ユリウスは下ろした。
「セラフィム、これで納得してくれるか」
 セラフィムは菫色の瞳に、驚くほど静かな表情を浮かべていた。彼はその瞳を、ゆっくりと閉じた。
「……負けは負けだ。ユリウス王子と青珠を解放しよう」
「ありがとう」
 つぶやくように言ったユリウスは、そのときはじめて、青珠の傍らにいる自分によく似た男装の娘に目をやった。
 ──この娘が、僕の身代わりか……
「ユリア、何の用だ?」
 ユリウスの視線を受け、催眠術にかかったようになっていたユリアは、セラフィムの声にはっと我に返った。
「セラフィム様、クロロス様が──
 ユリアにみなまで言わせず、セラフィムはちらりとユリウスに視線を投げた。
「何かやったな?」
「意識を封じただけだ。すぐに解ける」
 ユリウスはセラフィムに長剣を返し、寝台の上に座る青珠のもとへ足を運んだ。
 入れ替わるようにユリアがセラフィムに駆け寄る。
「セラフィム様、あの人たちは……」
 ちらと、ユリアに淋しげな目を向け、セラフィムは床に落ちた長剣を拾い上げた。
「なんでもない。……彼らはユリウス王子を迎えに来ただけだ」
 ユリウスに支えられ、青珠はそろそろと寝台から降りた。
「大丈夫か?」
「魔力が、吸い取られたよう……でも、もう平気。あなたの衣のおかげよ」
「歩ける?」
「ええ」
 振り向くと、セラフィムが静かにユリウスを見ていた。
 菫色の、奇麗な瞳にある光は何だろう?
「……」
 ユリウスは、しばらくセラフィムを見つめ、無言のまま、踵を返した。──セラフィムも何も言わなかった。

 青珠を伴い、回廊に出たユリウスは、倒れたままの翠珠の胸に刺さった剣の柄に手を当て、呪文を唱えた。剣は呆気なくユリウスの手に抜き取られる。
「あの──ユリウス……さん」
 背後からユリアの声が二人を追ってきた。
「セラフィム様がこれを、と──
 ユリアが差し出したそれは、王子ユリウスの黄金のサークレットだった。
「黄珠……!」
 思わず小さく叫び、青珠がそれを受け取った。サークレットも中央に嵌め込まれた黄色い石も無傷だった。
 眼を凝らすと、黒い髪が一本、巻きつけられている。
 それを確認して、ユリウスは微かにユリアに微笑んでみせた。
「ありがとうと、セラフィムに伝えてくれ」

* * *

 ユリアが寝室に戻ると、安楽椅子に身を沈めたセラフィムはうなだれていた。足許には二振りの長剣が無造作に投げ捨てられている。
「セラフィム様……」
「奴は、行ったか」
「はい。セラフィム様に、ありがとうと」
 ユリアは安楽椅子の傍らに膝をつき、セラフィムが何を考えているのか推し測ろうと彼の表情を窺った。
「あの黄色い宝石は、ユリウス王子様にお返しになったのですね」
「……あれはユリウス王子のものだ」
「あの宝石には、どんな意味があるのですか? セラフィム様の緑の石にも、何か意味があるのでしょう?」
 そう言ったユリアの見つめる先に翡翠色の指輪があることにセラフィムは気づき、彼はさっと表情を強張らせた。
「ユリア、おまえ、何を知っている──?」
 ユリアは自分の言葉が黒曜公の逆鱗に触れたことを知り、はっと口をつぐんだ。
「この指輪の石が四宝珠のひとつであることを、おまえは知っているのか?」
 ユリアを睨めつける眼が冷たく、険しい。
 セラフィムの怒りの激しさにユリアは言葉を失い、そろそろと立ち上がった。
 彼女は彼がこのように激するところを見たことがなかった。
 ──いや、ある。
 ユリウス王子と、王子の黄色い石を巡って対峙したときだ。
「……冬将軍がユリウス王子の行方を捜していた。“冬”の目的は王子の石だ。おまえ、まさか“冬”の──
 セラフィムは足許の長剣を素早く拾い上げ、それをユリアに突き付けた。
 一歩ずつ、セラフィムが歩を進め、一歩ずつ、ユリアが後退さる。
「言え! おまえはこの石の何を知っている」
 後退するユリアの背後には寝台があり、彼女は足を取られて寝台の上にしりもちをついた。
「言わぬか!」
「……探せと……命じられたのです」
「何奴に?」
「冬──将軍に……」
──!」
 剣の一閃で、ユリアの金髪の先が削がれ、細かい髪が宙にきらきらと舞った。
「冬将軍に何と言われた」
「五芒星が刻まれた緑色の石を探せと──それは黒曜公のもとにあるから、公のもとに潜入しろと……」
 再び、セラフィムが剣を薙ぎ払い、ユリアの胸元を払った。
 衣が裂かれ、彼女の白い肌に赤い線が刻まれた。
「セラフィム様、お許しください! あたしに選択肢なんてありませんでした。冬将軍の命に従うしかなかったのです」
 なおも、セラフィムはユリアに向けた剣を一振りした。
 ユリアの衣がさらに裂かれ、白い肌に赤い傷が増える。
「あっ……」
 彼女はバランスを崩し、寝台の上に無様に倒れ込んだ。
 それでも、セラフィムの剣は容赦がなかった。
 寝台の上に仰向けに倒れたユリアの喉に、剣の切っ先を突き付け、セラフィムは狂気のように叫んだ。
「おまえもまた、ユリウスと同じ顔をして、おれを裏切るのか!」
「……?」
 恐怖より驚きのほうが強かった。
 ユリウス? ユリウス王子のことではない。黒い、ユリウスのことだ──
 セラフィムはユリアの上に身をかがめ、鎖骨のすぐ下に刻まれた傷から滲む赤い血を舐め取った。
「己が罪を知れ。覚悟はできているだろうな? ただ殺すだけでは飽き足らん。これはユリウスの面影を持つおまえの宿命だ」
 手にしていた長剣を床に投げ捨て、セラフィムは荒々しくユリアを組み敷いた。
 その唇を奪おうとして、あまりにも平静なユリアの様子に違和感を覚え、ふと動きを止めた。
 セラフィムの動きが止まったことで、閉じていた眼をユリアは開いた。眼を開けたユリアが微笑みを浮かべたのを見て、セラフィムはややたじろいだ。
「おまえは抱かれることと陵辱されることの違いを理解しているのか?」
「セラフィム様であれば、本望です」
 狂気を宿したセラフィムの激しい瞳には、怒りとともに、悲しみの色が強かった。
 愛する者に裏切られた怒り。
 愛する者に去られた──悲しみ。
 ユリアはようやく合点がいった。
 男装させられたことも。
 髪を切らされたことも。
 ユリアという名を与えられたことも。
 城内の他の誰よりも大切に扱われていたことも。
 ──全て、“彼”の身代わりとしてだったのだ。
「あたしは冬将軍に石のことを知らせてはいません。白い都に戻るつもりもありません。あなたを裏切ることは、決してありませんわ」
「何……?」
「信じられないとお思いなら、あたしを殺してください」
 ユリアはそっと眼を閉じた。
「ユリア、おれのものになるか?」
「はい、セラフィム様」
「永遠に、おれだけのものに──

「セラフィム……」
 王子ユリウスを連れ、黒耀城から逃れた巡礼のユリウスは、城塞都市の外に出てから、黒い都を振り返った。
 傍らには、ユリウスの外套をまとったままの青珠がいる。
 馬の背に乗った王子ユリウスがいる。
 王子ユリウスの額には黄色い石を嵌めたサークレットがあった。
 黒曜公の髪で封じられていた黄色い石は、巡礼のユリウスの手で呪縛を解かれ、あるじのもとに戻された。
「ユリウス、黒曜公をこのままにして行くのか」
 遠慮がちに、王子が口を開いた。
「黒曜公は……危険すぎる人物だ」
「彼には借りがある」
 生命を奪ったという負い目が──
「セラフィムが、このまま引き下がるとは思えないわ」
「ああ。しかし、今はいい」
 ユリウスは王子を乗せた馬の手綱を取り、東へ向かって歩き始めた。
 もうすぐ夜が明ける。
 ディディルが待っている。

 朝日が昇ろうとしている。
 黒耀城の最上階に当たる塔の上で、翠珠は、朝日を見つめていた。
「ユリウス──おまえから受けた屈辱は忘れない」
 翠珠は一人ではなかった。
 極彩色の羽を持つ、美しい、大きな鳥がそこにいた。
彩羽さいは
 と、翠珠は鳥の名を呼んだ。
「セラフィム様の許しは得ている。おまえに仕事だ」
 彩羽はふんと鼻を鳴らした。
 鳥の姿をしているにも拘らず、彩羽の持つ緑の眼と若い男の声は人間のそれだった。
「斥候だ。巡礼のユリウスを知っているな? 地の御子だ。彼の行動を追え」
「天と地の御子にはおれも恨みがある。黒曜公には世話になった。しかし、この城から放たれたら、そのままおれは行方をくらますかもしれんぞ」
 朱夏の館で、天と地の二人のユリウスに鳥として生きろと言われたことを、彩羽は最大限の侮辱と受け止めていた。
 彼の心はあくまでも人である。
 その言葉は彼のプライドをひどく傷つけたのだ。
 翠珠は美しい鳥に冷笑を浴びせた。
「私やセラフィム様が、おまえごときに出し抜かれるほど愚鈍だとでも? おまえはこの黒耀城に繋がれたまま、放たれるのだ」
「そんな長い鎖はない」
 翠珠は彩羽の尾の羽を一枚、引き抜いた。
「つっ……! 何の真似だ」
 不機嫌な彩羽の抗議に、翠珠はただ薄く笑っただけで、手にした緑の尾羽に、ふっと息を吹きかけた。
「これが鎖だ、彩羽。私の手に残るこの羽とおまえの躯は私の息で繋がれた。この羽が私の手許にある限り、どれほど距離があろうとおまえの行動は手に取るように判る」
 彩羽は小さく舌打ちをした。
「珠精霊にろくな者はいない」
「おまえを人間に戻せる力を持つ者は、朱夏が亡き今、セラフィム様以外に存在しないことを肝に銘じておけ」
「解っている」
 極彩色の鳥が、大きく羽ばたいた。
「おれの行動が筒抜けなら、いちいち報告はいらないな。──地のユリウスを追うだけでいいのか?」
「そうだ。あとはセラフィム様にお任せしろ」
 微かにうなずき、彩羽は塔の窓から城の外へ飛び立った。
 そして、しばらく旋回していたが、やがて、翠珠に目で合図すると、朝日に向かって飛び去っていった。
 朝日を浴びて、翠珠の真っ直ぐな黒髪が、深緑色に染め上げられている。
「ユリウス──地の御子。次こそは逃がしはしない」
 苛烈な光を放つ漆黒の瞳は、憎悪よりもなお激しすぎる残忍な色を湛え、昇りゆく太陽と、遠ざかる彩羽の姿をじっと見つめていた。

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2005.5.31.
加筆修正 2021.3.1.