海の露

1.

 巡礼のユリウスと王子ユリウスは、黒曜公国の領土を北上することを決めた。
 アプア街道は避け、街道より西側に針路をとり、黒曜公国の北の、タナトニア帝国に出ようというのだ。大陸最大の帝国・タナトニアに入れば、黒曜公とて迂闊に手を出してくることはできないはず──
 二人はディディルを伴い、馬で、公国内を北へ進んだ。

 新緑のまぶしい季節である。
 その日の宿を取り、宿屋の食堂で夕食を終えたユリウスたち三人は、ユリウス王子の部屋に場を移し、二人の珠精霊を呼び出した。
 ディディルが葡萄酒を人数分、ゴブレットに注ぎ、それぞれに手渡す。
 皆、思い思いの位置にいて、ディディルが配るゴブレットを受け取った。
「“沈黙の封印”を解いたのは翠珠の独断──
 椅子に座って中央の小さな卓子に向かう王子ユリウスは、黒曜公が語ったという沈黙の封印が解かれた経緯を知り、何か重いものを背負わされたように感じていた。
「黒牙帝の血を引く黒曜公を魔人としてよみがえらせるため、翠珠は“沈黙の封印”を解くことが必要だった──そういうことなんだね?」
「はい」
 と、青珠はうなずく。
「セラフィム自身がそう言いました。そして、おそらくそれが事実だろうと、わたしも思います」
 ユリウスと青珠は、部屋に二つある寝台のうちのひとつに並んで腰を下ろしていた。
「セラフィムに触れられただけで、魔力が吸い取られていくように感じたわ。それに、あの城の負の魔力は異常だった」
 やはりユーリィは地の御子なのね、と青珠はぽつりとつぶやいた。
「ユーリィの衣を借りなければ、あれほど早く回復はしなかったわ」
 ユリウスの眼差しが微かに曇り、彼は無言で青珠の片方の手を握った。
 それが“地の御子”の衣だったからこそ、強大な負の魔力から彼女を擁護することができた。しかし、ひとつ間違えれば、彼女を失う結果になっていたかもしれないのだ。
 ユリウスは唇を噛み、青珠の手をただ強く握りしめた。
 考え込むような表情を見せていた王子ユリウスもまた、手にしたゴブレットを強く握りしめていた。
「ありがとう、青珠。それだけ判れば充分だ。私が知りたかったことは明白になった。なぜ、沈黙の封印が解かれたのか。誰の意思がそうさせたのか──
 ユリウス王子の翡翠色の瞳に、憐れむような、悼むような光が揺蕩った。
「黒牙帝──セイリウの力が働いていたのだ……」
 その独語に、居合わせた者は皆、ぞっとするような戦慄を覚えた。
 千年前の一人の皇帝の執念に。


 ディディルが就寝の時間を告げると、黄珠は姿を消し、ユリウスと青珠は王子の部屋から退出した。青珠はユリウスと一緒に彼の部屋までついてきて、彼が部屋に落ちつくのを見届けた。
 明かりは灯していない。
 窓の外の月明かりだけが照らす部屋の中は深海のようだ。
 ユリウスは気配のない美しい精霊の腕を引き、彼女の身体を抱き寄せた。
「ユーリィ?」
「ねえ、青珠。ずっと考えていたんだ。セラフィムの使い魔がもし紅珠か黄珠だったら、やはり、翠珠と同じ行動を取っただろうか」
「そんな無謀なことしないわ」
「たとえば、死んだのが僕で、おまえが翠珠の立場にあったとしても?」
 ユリウスの肩に頭を預ける青珠はちょっと考え、
「しないわ」
 とはっきり否定した。
「珠精霊は石を持つ者を護るけど、あるじが命じないことはしない。まして、沈黙の封印を解くことがどれほど時代を逆行させることかを知っているもの」
「じゃあ、翠珠はなぜ独断で封印を解いたりしたんだろう」
「彼は黒牙帝の忠実なるしもべだから」
「珠精霊は石に属し、石を護る者だろう? 自分一人で勝手に何かを判断して行うなど、まず考えられないことだ」
「そうね」
 ユリウスの腕の中で、ユリウスに寄り添いながら、果たして翠珠は情で動いたのだろうかと青珠は思った。
 だが──
 青珠が主であるユリウスを愛しているのと同じ種類の感情が、セラフィムに対する翠珠の中にあるとは思えない。
 だがもし、忠誠心という形で、黒牙帝その人に対する強い感情が、翠珠の中にあるのだとしたら?
 セラフィムをセイリウの生まれ変わりとして翠珠が見ているとしたら?
 時代を逆行させることがそもそもの目的だったら──
 小さく青珠は首を振った。
 精霊は情では動かない。
 美しい黒衣の青年に導かれ、青い石の精霊は彼に寄り添うように寝台の上に腰を下ろした。
「……青珠、何を考えている?」
「四魔神と四宝珠の関係性について」
「四魔神との?」
 間近に自分を見るユリウスの碧い瞳を見返して、青珠はうなずいた。
「わたしたち珠精霊は、あまりにも大陸の歴史やそこに住む者たちのことを知らなすぎる」
 それは精霊が現世の動きに介入しない存在であるからだ。
 けれど、石の主が大陸の歴史に関わる存在──“地の御子”であるならば、世界の動静に無関心でいてはいけないと彼女が考えていることがユリウスにも解った。
「青珠、別に僕はおまえに……」
「わたしはユーリィが何者でも構わない。地の御子であるならその事実に従うだけ」
 彼女は低い声で、決然とユリウスの言葉を遮った。
「四魔神と四宝珠について、この大陸で最も詳しいのはカリア氏族よ」
「カリア氏族? カルム島に住む、魔道を生業とする氏族のことか?」
「カルム島には、およそ一三〇〇年前の魔神の記録を伝えた文書が伝わっているの。黒紙文書こくしもんじょと呼ばれる文書がそれ」
「黒紙文書?」
「そう。黒紙文書には対になる白紙文書はくしもんじょという文書があるの。黒紙には四帝時代の四つの帝国の繁栄と衰退が記され、白紙にはその後の沈黙の時代のカリア氏族の千年にも渡る年代記が記録されている」
 それは大理石の黒い板と白い板に、それぞれ文字が彫り付けられているが、カリア氏族の特別の地位にある者にしか読めない文字だという。
「カリア氏族の祖先は人間ではない。四帝時代、カルム島は魔人のみが住む島だった。その頃もカルムはどの国にも属さず、四魔神からも自治を認められていたわ。四大帝国の滅亡に繋がる三〇年戦争の戦火も島にまでは及ばなかったはず」
「現在のカリア氏族は魔人たちの末裔なのか? ……初めて聞く」
 ユリウスはささやきとともに、月明かりを浴びた青珠のアイス・ブルーの髪を撫でた。
「僕たちは、カルム島へ行ってみるべきだろうか」
「……かもしれないわね」
「カルムは賢者・ラウルスとも関わりがある」
「急ぐことはないわ。カルムへ入るのは、容易ではない」
「カルム島を訪れるのはつらい?」
 青珠は青い瞳でユリウスを見た。
 カルム島。
 ──ロズマリヌスが生まれた島。
 彼女はユリウスの頬に軽く唇をあてた。
「今夜はもう、おやすみなさい、ユーリィ」
 いつものようにユリウス一人を残し、霊体になろうと立ち上がりかけた青珠の肩を、背後からユリウスの腕がすっと抱きしめた。
 彼の左耳の紺瑠璃の耳飾りが惑うように揺れる。
「消えないで、青珠。今夜は、僕のそばにいてくれ」
 青珠が振り返ると、物憂げにひたと彼女を見つめるユリウスの眼とぶつかった。
「ユーリィ」
「おまえは僕の何?」
「あなたの使い魔」
「そして、恋人?」
「ええ」
 ユリウスの両手が青珠の頬を包む。
「だったら、人間の娘のように、朝まで僕とともにいてくれないか」
「……」
 長い睫毛が瞬いた。
 静かに瞼を閉じて、青珠はそれを答えに代えた。
 そっと顔が近づけられ、ユリウスの唇がゆっくりと青珠の唇に重なる。
 窓辺から差し込む月光が、静寂を伴って二人に陰影を刻んでいた。
「あのとき──セラフィムの腕の中にいたおまえを見て、全身の血が逆流した」
 二人は互いの瞳を視界の全てに映していた。
 薄暗い部屋の中、ただ白い月華が、それぞれの瞳に反射している。
「おまえを誰の手にも渡したくない。それに──
「わたしは青い石の主だけのものよ」
「石の持ち主としてではなく、恋人として」
 セラフィムは──翠珠は、あのまま引き下がりはしないだろう。
 彼女の頬に唇を滑らせ、彼女の耳に口づけたユリウスは、白い首筋に顔をうずめ、そこに唇を押し当てた。精霊の白い肌にセラフィムにつけられた痛々しい赤い痕はもう跡形もない。
「セラフィムには偏執狂のようなところがある。僕が彼からおまえを護る」
「じゃあ、わたしはそれ以外のものからあなたを護るわ」
 結い上げた長い髪をユリウスに解かれ、青珠は、ユリウスの淡い金髪に巻かれた巡礼の黒い布を取った。そして、彼の頬に口づける。
「……ロズ」
「え……?」
「ロズとは、どこまでの関係?」
 薄闇の中、ユリウスの美貌が真剣に、その碧い瞳が青珠の瞳を探るように見つめていた。
「彼は青い石の持ち主だった」
「彼を愛していたんだろう?」
「愛していたわ。でも、彼には恋人がいたの。そして、彼は彼女の愛情に耐えきれなかった」
「……」
「ロズは彼女から逃げ、わたしからも逃げた。孤高を選んだの」
「孤高ではなく、孤独だろう? 人がそれに耐えられるのか?」
 青い石と出逢う以前の独りでの旅路をユリウスは思う。
 青珠を得て、はじめて己が孤独だったと知った。
「あなたが会ったロズの姿がその答えよ。石を手放した彼を、珠精霊のわたしは見守ることはできない」
「もし、僕が石を手放したら、おまえの僕への愛情も消える?」
「あなたは青い石を手放したりしないわ」
 ユリウスは青珠の身をそっと寝台に横たえると、彼女を包み込むように抱き、彼女に深く口づけた。
「おまえには、常に僕のもとにいてほしい」
「あなたの意のままに。……ユーリィ」

 雲が切れた。
 いま、何時だろう?
 月光が差し込む室内は、なおも深海のように暗く、静けさに満ちている。
 浅い眠りから覚めた青珠は、静かに身を起こし、寝台から滑り降りようとして、不意に手首を掴まれた。
 解かれたアイス・ブルーの長い髪がさらさらと流れる。
「駄目だ。人間の娘のように、朝まで僕とともにいてくれと言っただろう?」
「……起きていたの?」
 暗闇の中、ユリウスは横になったままじっと眼を凝らして青珠を見つめていた。
「おまえがいつ霊体になってしまうか気になって、眠れなかった」
 青珠はくすりと笑った。
「霊体になっても、あなたのそばにいることには変わりないのに」
「朝、目覚めたとき、一番におまえの顔が見たい」
「いいわ」
 再び青珠がユリウスの隣に身を横たえると、彼は、彼女が消えてしまうのを恐れるかのように、彼女を抱き寄せた。
 しなやかな精霊の身体を実感する。
 ほっと眼を閉じたユリウスは、ようやく青珠を自分のものにできた気がした。

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2006.1.14.
加筆修正 2022.2.6.