海の露

2.

 青珠は眠れなかった。
 カリア氏族。
 それは、ロズマリヌスの属する氏族だ。
 彼と初めて出逢ったときのことが思い出される。
 あれは、西都と呼ばれるタナトニア帝国の帝都・ヘスベルの宮殿の宝物殿での出来事であった。
 大陸の西の雄・タナトニアの皇帝・パウル二世は西帝と称される。
 当時、その西帝直属の窺見うかみを務めていたロズマリヌスがパウル二世に重用され、ある任務が成功したことへの褒美を与えられることとなったのだ。
 大陸暦一〇〇七年の九月のある晴れた日のことであった。

* * *

「この宝物殿に足を踏み入れられる者は数えるほどしかおらぬ」
 弱冠十六歳の年若き窺見に、西帝は誇らしげに言った。
 西帝・パウル二世は、禿頭で恰幅のよい、五十前後の男性である。
「この中の宝物ほうもつの中から、好きなものを選ぶがよい。そちはそれだけの働きをした。何なりと望みのものを与えようぞ」
 まさに、黄金の山ともいえる光景がそこには広がっていた。
 十六歳のロズマリヌスは、長身の、それは美しい少年であった。
 絹糸のようなアイス・グレーの髪。切れ長の眼は、宝石を嵌めたようなエメラルド・グリーン。
 額に朱の紋様がある。
 浅黒い肌は滑らかで、その整った顔立ちは彫像のようだった。
「宝石がよいか、黄金の馬車がよいか? おお、そうじゃ、奴隷の中から、まだ手を付けておらぬ年若い美女を何名か選んでもよいぞ」
「恐れながら、陛下。私は任務を果たしただけ。身に余るお言葉だけで充分でございます」
 兵士の正装に身を固めた少年は、毅然と西帝を見つめ、恭しく一礼して言った。
 皇帝の御前なので、帯剣はしていない。
「そちが余のもとへ参ってから、もう一年近くになるか。以来、そちの窺見としての働きには余も満足しておる。遠慮はいらぬぞ」
 そのとき、ロズマリヌスは、ふとどこからか自分を見つめる視線のようなものを肌で感じた。
「……?」
 さりげなく周囲を見廻してみるが、今、この場にいるのは、西帝と西帝の側近三名、そして彼自身のわずか五名のみ。
「……!」
 ふと、ロズマリヌスの目がある小筐にとまった。
 この小さな筐から視線を感じる。
「陛下、これは……?」
 パウル二世は振り返って、ロズマリヌスの視線の先にあるものを見た。
「ああ、それか。もう、何十年も前から埃をかぶっている。たいして大きくもない宝石だ。宝石が所望なら、もっと大きく、高価なものがいくらでもある」
 許可を得て、ロズマリヌスはその小筐を開けた。
 そこに納められていたのは、美しい紺瑠璃の宝石であった。
「陛下、これは大切な品でしょうか」
「そのような宝石など、余るほどある。それが希望なら、ロズマリヌス、そちにその石を与えよう」
「ありがとうございます」
 深いエメラルド色の瞳に微かな微笑を揺らし、ロズマリヌスは深く頭を下げ、西帝の前から退出した。

 大陸で最大の国家であるタナトニア帝国。
 その帝国の皇帝にロズマリヌスが仕えるようになって、一年ほどが経つ。
 ロズマリヌスに身寄りはなく、大陸の首都・ヘスベルの海岸に九歳で流れ着いて以来、西帝に取り立てられるまで、奴隷を経て、軍の歩兵として生きてきた。
 並大抵の苦労ではなかったはずだ。
 兵舎に戻ろうと宮殿の中を歩いていたロズマリヌスは、ふと、人の気配に足をとめて振り向いた。
 そこには宮殿の文官らしき数人の男たちが、蔑みの眼差しで、背の高い灰色の髪の少年のほうを眺めていた。
「死神が。ちょっと陛下に気に入られているからといって、いい気になるなよ」
「陛下にも皇女殿下にも、色で媚びているという噂ではないか」
「はっ! これだから下賤の者は……!」
 男たちは苦々しげな表情で吐き捨てる。
 ロズマリヌスは眉ひとつ動かさず、男たちを無視して再び歩き出した。
「陛下の犬め」
 侮蔑の言葉が彼の背に浴びせられたが、彼は淡々と歩を進めた。
 そして、すぐ目の前の回廊を曲がったとき、軽く眼を見張って出し抜けに立ち止まった。
「皇女殿下」
「ひどい言われようね。犬だなんて、父上をも侮辱しているわ」
 そこにたたずんでいたのは、黒い髪のうら若い娘だった。
「聞いておられたのですか?」
「聞こえてしまったのよ。色で媚びるなんてひどいわ。でも、それだけあなたが眉目秀麗で優秀だから。ただの妬みよ」
 娘は名をイェソルテといった。
 ロズマリヌスと同じ十六歳。
 パウル二世の第一皇女である。
 黒い髪を優美に編み込み、繊細な意匠のディアデーマをつけている彼女は、とりたてて美人ではないが、才媛の誉れが高く、その聡明さと快活な性格が黒い瞳を美しく輝かせ、ひときわ魅力的な姫君であった。
 数多くいる皇子皇女の中でも、皇妃の第一子の彼女は家臣たちからも一目置かれている。
 それは、この国では女性でも帝位を継承できるからだ。
「挨拶がまだだったわ。無事の帰還、お疲れ様」
「ありがとうございます、皇女殿下」
「二人のときは名前で呼ぶ約束でしょう?」
 問うように下から彼を見上げる姫君に、ロズマリヌスは苦笑した。
──ただいま、イェソルテ姫」
 イェソルテはにっこりと笑う。
「おかえりなさい、ロスマリン」
「その呼び方はやめてくれ。女みたいで弱々しい」
「あら、綺麗な名前だわ」
 宮殿の裏口に向かうロズマリヌスに、イェソルテもついていった。
「もう兵舎に戻るの? 庭園の東屋に行かないこと?」
「今日はもう休むよ」
「あら、これは?」
 ロズマリヌスが手に持っているものが宝石箱だと気づいたイェソルテは、悪戯っぽく彼の腕に手を掛けた。
「もしかして、わたくしへの贈り物?」
「これは駄目だよ、姫君。陛下から賜った大切な宝石だから」
「仕事へのご褒美ね。では、わたくしからも」
 そう言って彼女は背伸びをすると、ロズマリヌスの頬に軽く口づけた。
「今回の仕事へのご褒美よ」
 ロズマリヌスは慌てて姫から身を離すと、周囲を見廻した。
「誰かに見られたらどうするんだ。ただでさえ、あなたと親しいことをよく思われていないのに」
「だから東屋へ行きましょうって言ったのよ。でも、これはわたくしの素直な気持ちだから」
 静かな声だったが、イェソルテは真摯だった。
 ロズマリヌスの瞳が翳る。
「イェソルテ姫、おれは……」
「あなたの立場がどうであろうと、わたくしはあなた自身が好きよ」
「おれは姫と対等に話せる身分ですらない。ましてや──
「あなたらしくない言葉ね。わたくしはあなたの額の紋様など気にしないわ」
「姫……」
 人目を忍び、二人は大きな柱の陰でそっと口づけを交わした。

 兵舎は、階級によって、部屋の広さや一部屋を使用する人数が決まる。
 ロズマリヌスは、それほど広くはないが、一人部屋を与えられ、下男と下女が、一人ずつ彼についていた。
 イェソルテと別れたあと、ロズマリヌスはその兵舎の自分の部屋に戻ってきた。
 室内は簡素だが、居心地よく整えられている。
 窓辺に飾られた花は、下女が活けたものだろう。
 部屋に誰もいないことを確認すると、ロズマリヌスは持っていた小筐をテーブルの上に置いた。
 その筐を開ける。
 そこには、紺瑠璃の宝石が美しく納まっていた。
「出てこい」
 ロズマリヌスは突然、言った。
「ずっとおれの様子を窺っていたな? この石に宿る精霊か?」
 それだけ言って、椅子に座り、青い石を見つめていると、不意に室内に吹くはずのない風が流れ、彼の前に美しい娘がすっと姿を現した。
「わたしの視線に気づく人間なんて、初めて」
 現れたのは無論、人間ではない。
 それは長いアイス・ブルーの髪を後頭部に結い上げ、碧羅をまとった十六、七に見える娘だった。
 ロズマリヌスはたいして驚きを見せなかった。
「何者だ」
「あなたが言ったとおり、その青い石に宿る精霊よ。名は青珠」
「青珠……?」
 そこではじめて、ロズマリヌスの顔に驚きの色が広がった。
「青珠とは、四帝時代に四魔神の一人が所有していた、水の宝珠の名だ」
「青い石の正式名称を知っているの?」
 青珠と名乗った娘の青い瞳が軽く見張られた。
 彼女は一歩、ロズマリヌスに近づく。
「今の時代、四魔神の四つの宝珠のことは伝説のようなもの。あなたはその石を四宝珠のひとつである青い石だと認めるの?」
「おれが認めるかどうかは問題じゃない。現に精霊がそこにいて、青珠と名乗った」
 浅黒い肌の美しい少年を見つめ、青珠は清楚な美貌に不敵な微笑を浮かべた。
「面白い人間ね。あなたの名前はロズマリヌス? それとも、ロスマリン?」
「本名はロスマリヌスだ」
「花の名前ね」
「“海の露”という意味だ。おれの生命には海の露ほどの価値もない」
ロスという響きが嫌い? だから、ロズマリヌスと名乗っているの?」
「……」
 ロズマリヌスはエメラルドのような瞳で青い石の精霊を睨めつけた。
「精霊というのは随分おしゃべりなんだな」
「ごめんなさい。実体になって人間と話すのは数百年ぶりだから」
 ふわりと笑った青珠は、室内を見廻した。
「椅子は一脚しかないのね」
「客をもてなすための部屋じゃないからな」
「そう」
 青珠は椅子に座るロズマリヌスの周りをひと回りすると、窓際の寝台に腰を下ろした。
「おい、ここに居座る気じゃないだろうな」
 青珠のほうを向いてロズマリヌスが眉をひそめると、屈託なく彼女は笑った。──清流のように。
「大丈夫。普段は霊体でいるから。あなたの生活の邪魔はしないわ」

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2022.4.5.