海の露

3.

 タナトニア帝国の皇帝の宮殿は広大無辺だ。
 その宮殿内にいくつもある庭園のひとつに、巨大な人工の湖を配した石の庭園がある。湖には大きな噴水が造られ、等身大の複数の神々の像がそれを取り巻いている。
 その庭園の中の、湖を臨む石造りの東屋に、ロズマリヌスはいた。
 手に青い石を持っている。
「ロスマリン」
「姫」
 細長い石のベンチに腰かけていたロズマリヌスは、イェソルテ姫の姿を見て立ち上がった。
「今日は非番ね。少しはゆっくりできるかしら」
 彼のそばまで一人でやってきた姫は、ベンチに彼を座らせ、彼の唇に口づけようとした。
 が、
「待って、姫」
 不意にとめられ、怪訝そうな顔をした。
「どうしたの?」
「見られている気がする」
「誰に? わたくしは人払いしてきたし、誰もいないわ?」
 辺りに人の気配はなく、聞こえるのは涼しげな噴水の水音だけだ。
 イェソルテがベンチに腰を下ろすと、ロズマリヌスは手にした青い石を姫に見せた。
「この石を御守りとして身に付けたい。装身具にしたいんだが、姫は何にしたらいいと思う?」
「そうね。指輪……は兵士には邪魔ね。腕輪などは?」
「腕には武器を仕込む」
「では、耳飾りではどうかしら」
 姫は彼の手から青い石を取って、彼の耳に当てた。
「耳飾りとしても、大きめの石になるかしら」
「耳飾りがいいな。多少大きくなってもいいから、この石が映えるように装飾してほしいんだ。姫にお願いできるか?」
「いいわ。わたくしの装身具をいつも細工する腕のいい細工師がいるの。その者に頼むわ。似た宝石を探して、両耳の分を作らせましょうか」
「いや、片耳でいい。これは唯一無二の石だから」
 姫の手にある青い石を見て、ふっと頬をゆるめるロズマリヌスを見遣り、イェソルテはやや拗ねたように言った。
「そんな顔もするのね。なんだか妬けるわ」
「妬く? 皇女殿下がただの宝石に?」
 ロズマリヌスはイェソルテに微笑みかけ、隣に座る彼女の肩を抱こうとしたが、ふと、見えない視線を警戒するように、その動作を止めた。
「姫は、精霊の宿り石を知っているか?」
「精霊の宿り石? それは伝説の四魔神の四つの宝珠のこと?」
「ああ、そうだ。この石が四宝珠のひとつだと言ったら、信じるか?」
 黒い瞳を大きく見張り、イェソルテは無邪気そうにロズマリヌスを見つめた。
「まあ、ロスマリン。伝説の宝珠かどうかなんて、誰にも判りはしないわ。石に宿る精霊は持ち主を選ぶもの。石の精霊は、自らが認めたあるじの前にしか姿を現さないという言い伝えよ」
「石の存在を信じる?」
「ええ、勿論。ロマンがあるわ」
 そして、彼女は掌の青い石に視線を落とした。
「この宝石を青い石だと思うのもロマンね」
「……姫、誰か来る」
「え?」
 二人のいる東屋の方角へ足早に駆けてくるのは若い娘だった。イェソルテの侍女である。
「イェソルテ殿下、またこちらでしたか」
「人払いしたでしょう?」
 侍女は息を切らせ、仄かに頬を染め、ちらとロズマリヌスへと会釈する。若い娘にとって、ロズマリヌスの美貌は無関心ではいられない。
「そろそろ音楽の時間です。師をお待たせしてはいけません」
「ロズマリヌスが非番の日くらい、気を利かせなさい」
「でも……わたしが叱られます」
 泣きそうな侍女の声に、イェソルテはため息をついて立ち上がった。
「ごめんなさい、ロスマリン。この宝石はわたくしが預かります。また連絡しますね」
「はい。皇女殿下」
 名残惜しそうなイェソルテを、ロズマリヌスは恭しく見送った。
 広大な石の庭園に風が渡る。
「身分違いの恋? ロマンティックね」
 ロズマリヌスははっとした。
 イェソルテと侍女の姿が遠ざかるや否や、透き通った声が響いたのだ。
「やっぱりいたんだな、青珠」
 石の東屋にふわりと姿を現した青い石の精霊を見て、ロズマリヌスは苦々しく言った。
「石に宿る精霊が覗きか?」
「プライバシーは尊重するわ。でも、青い石を手にした者がどんな人物か、確かめる必要があるもの」
「おれを石の主に選ぶつもりなどないくせに」
 ゆっくりと湖を見廻していた精霊は、蒼い髪をなびかせ、湖水に背を向けて、石のベンチに座るロズマリヌスの前に立ち止まった。
「石の精霊の忠誠が欲しい?」
 その微笑は清流のようだ。
「おれが勝手に水の宝珠を守り石にする。それだけだ」
「それで守り石として効き目があると思う?」
「珠精霊が持ち主に選ばなければ、誰が持とうと四宝珠もただの石と同じってことは知っている。はっきり言ったらどうだ? 気になるのはおれの額の印だと」
 険しい目付きで青珠を見遣ったロズマリヌスが額の髪をかきあげると、そこにある紋様がはっきりと見て取れた。
 浅黒いなめらかな肌に浮かぶ、ヘンナで染めたように朱い、細長い菱形を四つ合わせた十字の紋様──
 ふと青珠は真顔になる。
「では、訊くわ。ロズマリヌス」
 蒼い髪の美しい精霊は静かに問うた。
「なぜ、あなたは普通に生きていられるの?」
 精霊の声が風に乗って、不協和音のように響く。
「それは生贄の刻印。生きたまま神に捧げられた者の印だわ」
 青珠のまっすぐな視線に耐えられなかったのか、ロズマリヌスは彼女から眼を逸らした。
「わたしはその印を刻まれた人間を過去に何度も見ている。たいていは贄の祭壇の上で生命を落とす。よしんば、生命が助かったとしても、正気を保てる人間などいないわ」
 噴水の水音が涼しげに響く。
 不吉な言葉が発せられるには、すがすがしすぎる青空に白い雲が流れていた。
「自らを神の贄とする愚か者もいた。どちらにしても、精神が無事だった者を見たことがない」
 うつむく長身の少年を見つめ、青珠は少し首を傾けた。結い上げた長い髪がさらさらと流れる。
「その者たちは皆、真っ白な髪をしていたわ。あなたはカリア氏族でしょう? なら、黒髪のはず。白くも黒くもなく、髪が年寄りのように灰色なのはなぜ?」
 絹糸のようなアイス・グレーの髪。
 視線を足許に落としていたロズマリヌスは、おもむろに口を開いた。
「おれは一度死んでいる」
「それは比喩?」
「いや、確かに、一度死んでいるはずなんだ」
 エメラルドを嵌め込んだような切れ長の眼で、射るようにロズマリヌスは精霊を見た。
 噴水の水が湖面に波紋を作る。
「生贄にされたのは赤ん坊の頃だ。実の父親に海神に捧げられた。だが、神殿の神官に父は異常者と見做され、おれは──
 そこまで言って、ふとロズマリヌスは自嘲するように頭を振った。
「何でおれは、会ったばかりの女にこんなことを話しているんだろうな」
「精霊の言葉に、人は抗えないものよ」
 碧羅の裾を翻し、青珠はロズマリヌスの隣に座った。
「おれは……ネプトゥーヌス神殿の神官たちに助けられた。父親に生贄の印を刻まれ、祭壇で衰弱していく赤ん坊を、神殿の人間は見殺しにできなかったんだな」
 青珠はロズマリヌスの整った浅黒い横顔をじっと見つめた。
 彫像のように美しいその横顔。
「黒かった髪の色が徐々に白く変じていったそうだ。完全に白髪になる前におれは名前を与えられ、祭壇から降ろされ、代わりにロスマリヌスの花束が神前に捧げられたと聞く」
「赤ん坊にロスマリヌスと名付け、名前の言霊で、ロスマリヌスの花をあなたの身代わりとしたのね」
 ロズマリヌスは隣に座る青珠を見つめ返した。
「おれの容姿をどう思う?」
「美しいと思うわ。彫刻のよう」
「おれの容姿は海神の造形だ」
 宝石のような緑の瞳で、彼は庭園の神々の彫像を見遣った。
 湖に居並ぶ神々の像の中には、海豚を従え、三叉の矛を手にしたネプトゥーヌスの神像もあった。
「おれは父にも母にも似ていないらしい。髪の色を抜かれたように、肉体も少しずつ贄として死に近づいていたはず。おれの身代わりのロスマリヌスの花束はたちまち枯れたという。それでもこうしておれがここに在るのは、神の気まぐれによるものなのか?」
「神の慈悲かもしれないわ」
「髪の色のように、肉体も生贄にされる前のおれと同一ではない。この顔も身体も、おれ自身のものじゃない」
「でも、あなたは現実に存在しているわ」
「存在しているから歪なんだ! 今ここにいるおれのどこまでがおれ自身で、どこまでが紛い物か判らない」
 苛立つように吐き捨てたロズマリヌスは、両手の中に顔をうずめた。
「つまり、あなたは」
 空を仰ぐ青珠の声はあくまでも静かだ。
「今ある自分を自分自身ではないと思っている。自分の存在に、確信が持てないのね」
「おれは海神に捧げられ、神の気まぐれで死に損なった。ここに在るのは仮初めの生だ」
「それでもあなたはこの世に存在しているのよ。それが現実。信じなさい」
 精霊がふっと吐息を洩らすと、風が湧き起こり、眼前の湖水に漣が立った。
 目に見える確かなもの。
 それは彼にとって、灰色の髪と、己の額に残された鮮やかな刻印だけなのだ。
「生贄の刻印は差別や偏見を生むでしょうね。でも、あなたには理解者がいるでしょう?」
「理解者?」
「さっきの姫君よ。お似合いだわ」
「あの人は──
 ロズマリヌスは思わず眼を伏せた。
「あの人は、皇帝陛下の第一皇女だ」
「でも、姫はあなたをあなた自身として見ているように感じたわ。あなたが偽物だと思っている美貌も、忌まわしい刻印も、彼女は問題にしていないのでは?」
「……あの人は、おれを差別しない数少ない人間の一人だ。だが、おれにはまぶしすぎる」
 苦しげに彼は灰色の髪をかきあげた。
 涙を見せたくないのだろう。声が掠れた。
「姫が本物であるだけに、おれが紛い物であることが際立つ」
「ロズ──
「姫がやさしくて、境界線をすぐに越えてしまう。紛い物のおれは身の程をわきまえるべきなのに」
 精霊の青珠には解らない。
 ロズマリヌスと姫君が互いに好意を抱き合っていることは、青珠にもすぐ理解できた。
 この上ない理解者であるはずの姫に対し、なぜ、この少年は素直な感情のままに接することができないのだろう。安心して心を開くことができる相手なのに。
 このように不安定な精神を秘めて、この少年はこの先無事に生きていけるのだろうか。
 海神・ネプトゥーヌスは彼に何を望んで生かしたのだろうと青珠は思った。

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2022.5.1.