海の露

4.

 深い瑠璃色の石が、燻し銀で作られた典雅な耳飾りに象嵌されている。
 大きすぎることはないが、重々しい存在感を放つ美しいそれを、イェソルテは満足げに眺めて、絹の布で包もうとしていた。
「イェソルテ」
 不意に名を呼ばれ、彼女は振り向いた。
「ダルティウス。久しぶりね。わたくしはこれから約束があるのだけど」
 皇女の私的な居間に現れた青年はイェソルテの従兄にあたる。
 先月二十歳になったばかりの、彼は西帝の姉の次男であった。
「新しい耳飾りかい? 品のある意匠だけど、燻し銀は君には少し地味ではないか?」
「これはロスマリンのよ。父上からの褒美の品の宝石を耳飾りにしてほしいと頼まれたの」
 イェソルテはその耳飾りを従兄によく見えるよう、少し掲げてみせた。そして、布に包みなおし、小筐に入れる。
「彼の髪の色に映えるよう、燻し銀にしたの。細工師と相談して、わたくしもデザインに関わったのよ」
「でも、瑠璃石は彼の瞳の色には合わないと思うな」
 少し気分を害したように、イェソルテはダルティウスに視線を向けた。
 兄妹のように親しい幼馴染みのダルティウスとは気安い間柄だ。幼い頃の姫の初恋の相手でもある。武術より学問を好むダルティウスはやや文弱な印象であったが、イェソルテとは今も仲がよい。
「いいのよ、ロスマリンが気に入っているのだから。それより、わたくしに何かご用ですの?」
「君のそのロスマリンへの寵愛が度が過ぎているのではないかと思ってね。忠告をしに来た」
 鷹揚に言葉を紡ぐダルティウスに対し、イェソルテはわずかに眉をひそめて不快感を現した。
「従兄妹とはいえ、少し不躾ですわ」
「それでもだ。宮殿の者たちが君と彼のことを何と言っているか知っているかい?」
「第一皇女が奴隷から成り上がった下級兵士の美貌の虜になっていると言われているのでしょう? わたくしは彼の価値を知っています。余計なお世話ですわ」
 イェソルテはロズマリヌスに初めて会ったときのことを思った。
 面白い少年がいる、と、父皇帝に言われ、軽い気持ちで見に行ったのだ。
 生贄の刻印を持った珍しい人間。
 皇帝からすれば、宮廷の道化師を愛娘に披露するような、そんな程度のことだったが、少年の硬質な美貌と老人のような灰色の髪、額の忌まわしい朱の紋様がひどくちぐはぐな感じがして、イェソルテは彼に興味を持った。
「あの者は一度生贄とされながら生きている。半分は人間だが、その半身は神のものだ。ロズマリヌスは神の御意思で生かされているのだよ」
 父皇帝はその少年を気に入っているように感じられた。
 一歩兵に過ぎなかった彼に帝国の正規軍の訓練に加われるように手配し、わざわざ学問の師をつけるなどという特別扱いをしたからだ。
 イェソルテは暇を見つけては彼に会いに行くようになった。
 少しずつ会話を重ね、互いの理解を深め、学問の話をした。彼の学問の進みの速さにイェソルテは驚き、彼の聡明さに惹かれていった。特異な境遇に育った彼はミステリアスでもあった。
 そんな彼への感情が恋に至るまで、時間も理屈もいらなかった。
 ダルティウスはため息をついた。
「戯れの恋ならそれでも構わないよ。だが、君は帝位継承者として自分の立場をもっと自覚するべきだ」
「身分が違うと……そうおっしゃりたいのね?」
「すぐに結婚問題が持ち上がる」
 イェソルテはわずかに眉をひそめてみせた。
「結婚などまだ先の話よ。帝位だって、わたくしが継承しなくても、兄上が二人もいるわ」
「兄君お二人は母君の身分が低い。皇妃様の第一子は君だ」
「同母の弟もいてよ」
「弟君はまだ十歳だろう? 私のところへも、君の婚約者候補の話が来ているのだよ」
「……!」
「恋と結婚を切り離して考えられるかい? 私か、他の誰かと結婚しても、ロズマリヌスを愛人とすることは黙認されるだろうが……」
 イェソルテはかっとなって柳眉を逆立てた。
「誰か! 誰かいないのですか!」
 姫君の声を聞きつけて、すぐに控えの間から二人の侍女が小走りにやってきた。
「はい、イェソルテ殿下」
「ダルティウス卿がお帰りです。お見送りして」
 厳しい姫の声を受け、侍女たちは慌てて部屋の扉を開けた。
 それに逆らわず、扉のところまでゆっくりと歩いていったダルティウスは、一旦立ち止まり、冷たく背を向けてしまった従妹を振り向いて言った。
「ロズマリヌスのことは別に嫌いではない。額の印のせいで偏見の目を向けられていることに同情も感じている。だが、君と彼との恋は、互いに互いの立場を悪くしているとしか思えないのだ」
──
 ダルティウスにイェソルテの表情は判らなかった。
 応えのないことを応えと受け取り、ダルティウスはその部屋をあとにした。

* * *

「姫。イェソルテ姫……?」
 気遣わしげに呼びかけるロズマリヌスの声に、イェソルテははっとした。
 手に持った紺瑠璃の石を象嵌した耳飾りが目に入った。
 顔を上げると、いつも待ち合わせている石の庭園の東屋のベンチで、ロズマリヌスが姫に微笑みかけていた。
「ありがとう、姫。この耳飾りは大切にするよ」
 手の甲を持ち上げられ、そこに唇を当てられ、姫は隣に座る少年の美貌をぼんやりと見つめた。
 耳飾りを受け取ったロズマリヌスは、両耳につけている真珠のピアスの左側を外すと、そこに青い石を嵌めた燻し銀の耳飾りをつけた。
「重さも大丈夫だ。ずっとこれを身に付けて、御守りにするよ」
 ロズマリヌスの脳裏に、ふと青い石の精霊の顔が浮かんだ。
 あれから彼は青珠を拒絶している。
 石の精霊は心を暴く。
 直視したくない心の弱さを自覚させられることを厭い、精霊に心の奥底を見透かされることを恐れた。
 目の前には神像を配した大きな湖がきらきらとした水を湛え、広がっている。
 水は青い石の精霊を思わせる。
「ロスマリン……」
 我に返って傍らの姫を見遣ると、彼女は浮かない表情をして彼を見ていた。
「どうかしたのかい、姫? なんだか元気がないようだ」
 イェソルテはロズマリヌスが外した一粒の真珠のピアスを見つめて言った。
「それを、わたくしにくださらないこと?」
「ああ、いいよ。でも、姫が持つほど高価な品ではないよ」
「いいの。あなたがその瑠璃石を御守りとするように、この真珠をわたくしの御守りにするわ」
 ロズマリヌスを見上げる姫は、無理に微笑んでみせた。
「姫……?」
「ロスマリン、わたくしを好き?」
「ああ、もちろん」
「愛していて?」
 彼女がこんなに感傷的になるのは珍しい。
 ロズマリヌスは宝石のような緑の瞳でまっすぐに姫を見つめた。
「愛している……と思う。おれは愛がよく解らないけど、姫を愛おしいと思うし、人としても女性としても、姫はとても魅力的だ」
「ずっと? わたくしはずっと、何があってもあなたが好きよ」
「イェソルテ姫」
 ロズマリヌスの真摯な視線を受け、イェソルテは彼から眼をそらし、うつむいた。
「わたくしに婚約の話が持ち上がっているようなの。ダルティウスがそう言っていたわ」
「ダルティウス卿が、姫の結婚相手……」
「いえ、ただの婚約者候補よ。結婚だって、まだ先の話だわ」
──
 息がつまるように、ロズマリヌスは心臓の奥に鈍い痛みを覚えた。
 来るときが来たと思ったのだ。
 イェソルテの身分からして、自分との恋の戯れがいつまでも続くはずがないことはよく解っていた。
「では、もう姫はおれと会うべきではない」
 固い声音に、思わずイェソルテは眼を見張ってロズマリヌスを見た。
「これ以上、おれみたいな一兵卒と噂になってはいけない。姫の名に傷がつく」
「ロスマリン」
「あなたがいずれ相応しい方と結婚することは判っていた。姫のやさしさに甘えていたが、おれだってちゃんと自分の立場をわきまえているよ。ダルティウス卿なら、申し分ないお相手だと思う」
「ちょっと待って、ロスマリン」
 イェソルテの片手が並んで座るロズマリヌスの腕を掴んだ。
 激しく混乱して、彼女は必死に言葉を探した。
「ダルティウスは婚約者候補の一人にすぎなくてよ。まして、お互いに兄妹のような感情しかないわ」
「それでも、そういう時期が来たということだよ、姫」
「いいえ」
 姫はきっぱりと言った。
「いいえ、父はあなたを気に入っています。わたくしが結婚相手としてあなたの名を出したとして、きっと許してくれるわ」
「それは駄目だ」
「なぜ? 他国では騎士と結婚する王女だっていてよ」
「おれの身分は騎士ではない。それに、おれが表立つと、姫の体面が汚れる」
「なんですって?」
 イェソルテは驚いて声を上げた。
「額の刻印のため? それとも奴隷出身だから? どちらもあなたのせいではないわ」
「……それだけじゃない」
「……」
 イェソルテ姫は、別れを切り出すつもりも、ロズマリヌスを追いつめるつもりもなかった。
 結婚という現実を突き付けられたことに対し、ただ、不安な思いをかき消したくて、ロズマリヌスに変わらぬ想いを誓ってほしかっただけだ。
 大切なこの気持ちを、この恋を、こんなにも呆気なく終わらせてしまうなど、考えもしなかった。
「あなたはそれでいいの? 右のものを左へやるような、人間の感情はそんなに単純なものではないわ。わたくしは納得できません」
 ロズマリヌスはベンチから立ち上がった。
 湖水に風が吹き渡る。
 彼の左耳につけられた燻し銀の耳飾りが風に揺れる。
 イェソルテは美しい灰色の髪の少年を見上げ、手の中の真珠を強く握りしめた。
「午後の訓練があるので、これで失礼します。殿下」
「ロスマリン……!」
 彼を追おうと慌てて姫も立ち上がると、不意に振り返った彼の腕が、風のようにやわらかく姫の身体を抱きしめた。
「……っ」
 抱きしめる力はすぐに強くなった。
 何か言おうとしたが、声が出てこない。
 代わりに彼の背を強く抱き返したが、そんな姫の想いも虚しく、彼は彼女の身体から腕を放し、踵を返した。
 イェソルテは、ただ茫然と、自分を置いて去っていくロズマリヌスを見送ることしかできなかった。

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2022.6.6.