海の露
5.
一方的にイェソルテに別れを告げたロズマリヌスは、一見、冷静に見えたが、内心はかなり動揺していた。軍隊の訓練を終えたあとの彼は、夕食も取らず、自室で思いつめたような様子を見せていた。
たった一人になった気がした。
青い石の精霊が指摘したとおり、ロズマリヌスにとって、イェソルテ姫は数少ない理解者だった。その姫を、自ら遠ざけるような真似をしてしまった。
青い石の精霊は、この無様な姿を見ているだろうか。
どうしようもないことだと理解しているのに、後悔するにもできずにいるこの様を見て、憐れんでいるだろうか。
ロズマリヌスは耳飾りに嵌められた青い石に意識を向けたが、そこからは何も感じられなかった。
混乱の中で確かなことはただひとつ、恋人であり、理解者である少女を自ら切り捨てたということだ。
ノックの音がして部屋の扉が開いた。
「ロズマリヌス様?」
彼の部屋に入ってきたのは、下女のリサだった。
ロズマリヌスの身の回りの世話をしている十七歳の少女だ。
果物の盛り合わせの皿を運んできたリサは、質素な衣服をまといながらも、それなりに美しい容姿をしていた。彼女は果物の皿をテーブルの上に置き、薄暗い部屋の中に燭台の灯りを点した。
「お食事を召し上がってないのでしょう? よかったら、少しでも食べてください」
ロズマリヌスは無言で寝台の上に横たわっている。
「お加減が悪いのですか?」
リサは不安そうに首を傾げて、ロズマリヌスに近づいた。
「あの……皇女殿下と何かあったのでしょうか」
「──」
空気が一気に緊張した。
背を向ける主人のほうへ少女が伸ばそうとした手を、ロズマリヌスが素早く掴んで引いた。
「あっ……」
寝台の上へ押し倒されたリサが驚いて眼を見張る。
「あったら何だ? おまえが慰めてくれるとでもいうのか?」
「……っ」
少女は怯えた眼をしたが、彼に抗いはしなかった。
「ロ、ロズマリヌス様──」
「おれの相手をするようにとも言われているんだろう? これも仕事のうちだ」
ロズマリヌスの瞳が、声が、いつになく荒々しい。
こんなに激昂した主人を見るのは初めてだ。
揺れる瞳でロズマリヌスを見つめるリサは、両手を寝台に押し付けられたまま、一瞬、息を呑んだが、すぐに全身の力を抜いて、眼を閉じた。
「ロ、ロズマリヌス様なら、あたし……」
「おまえがおれの下女に選ばれたのは最初からそういう魂胆だろう?」
「え……」
「おれみたいな者にわざわざ年若く美しい奴隷をあてがうのは、皇女殿下からおれを引き離すという目的あってのことだろう。おれを誘惑しろと命じられたか?」
「そ、それは……」
リサは視線を泳がせ、口ごもった。
彼女の腕を掴むロズマリヌスの手に力が入る。
「そっ、それは、確かにそういうことも命じられました。でも、あたしはロズマリヌス様をお慕いしています。ロズマリヌス様のものになってもいいと、本気で……」
ふんと鼻を鳴らし、ロズマリヌスは冷たく下女から手を放して、身を起こした。
「──出ていけ」
「ロズマリヌス様……!」
「今は一人になりたい。出ていってくれ」
「……」
リサはそろそろと寝台から降り、衣の乱れを直して、恐る恐る扉に近づいた。
「ロズマリヌス様」
「早く行け」
「……はい」
部屋を出ようとしたリサは、不安げに、そっと主人のほうを顧みた。そして、寝台に腰掛け、うなだれる美しい少年の様子を、何か神秘的な絵画のようだと思った。
ロズマリヌスに新しい任務が与えられたのは、その翌朝のことだった。
* * *
宮殿の、皇帝の執務室の前で朝からじっと時が経つのを待っていた皇女・イェソルテは、やがて、時間通りに高官たちが出てくると、彼らと入れ替わるように身を執務室の中に滑り込ませた。
「おお、イェソルテ」
数名の側近たちとともに執務室の中にいた恰幅のよい中年の男性が、イェソルテを見つけ、口許に笑みを浮かべた。禿頭に月桂樹の枝葉を模した金のサークレットをはめ、豪奢な長い衣裳をまとっている。
大陸において西帝とも称される、タナトニア帝国の皇帝・パウル二世である。
「父上、お話がございます」
側近たちが皇女に礼をして、少し後ろに控えた。
「今日は忙しい。話があるなら、数日中に時間を取ろう」
「いいえ、急ぎます。お人払いを」
いつものように優美に編み込んだ長い黒髪にディアデーマをつけた姫君は、星のような黒い瞳で厳しく父を見つめて言った。
「ダルティウスから何か聞いたか」
「わたくしの知らぬところで婚約の話があるとか」
パウル二世が側近たちを見遣ると、彼らは恭しく頭を下げて、執務室をあとにした。
「家臣たちに秘密にする話でもなかろう。帝位継承者の伴侶となると、慎重に選ばねばならぬ」
「わたくしの意思を無視してですか?」
「そなたの意見を聞いたら、ロズマリヌスの名が挙がるであろう?」
図星を指されたイェソルテはかっと頬を染めた。
「それがお解りなら……」
「いや、イェソルテ」
執務用の重厚な椅子にどっかと座り、パウル二世はおもむろに言った。
「ロズマリヌスをそなたの伴侶にはできぬ」
「なぜですか」
「理由はたくさんある。そなたも解っておるのであろう?」
唇を噛み、イェソルテは視線を斜め下に落とした。
「彼は元奴隷で、生贄の刻印を持つ者だからでございましょう?」
彼の美貌と、額の鮮やかな朱の刻印が姫の瞼の裏に浮かんだ。
「けれど、それらはロズマリヌスの責任ではありません。父上は彼自身の実力を誰よりもお認めになっていると思っておりましたが」
「そなたは余がどのようにロズマリヌスを用いておるのか知らぬだろう?」
「彼の肩書きは訓練兵ですが、父上直属の窺見でしょう? 必要な情報を集める仕事と理解しております」
「そういう仕事もさせている。だが、それよりも──」
パウル二世は思わせぶりににやりと笑って、愛娘を見遣った。
「あの者は余の切り札じゃ」
「切り札?」
「そなたといえど、それ以上は言えぬ。これは余の近辺のわずかな人間しか知らぬこと。尤も、薄々察しておる者は少なくはなかろうがな」
イェソルテは眩暈を覚えて唾を飲み込んだ。
何かそら恐ろしい話をしているような気がしたのだ。
「ロズマリヌスの仕事については、そなたが政に関わるようになれば、詳しく教える。帝位を継がぬのなら、知る必要のないことじゃ」
「その──ロズマリヌスの仕事を、ダルティウスも知っているのですか?」
「勿論じゃ」
ゆったりと椅子に座るパウル二世は、少し前屈みになり、楽しそうに皇女を見た。
「どちらにせよ、そなたにはしかるべき相手を選んでもらわねばならぬ。ロズマリヌスは海神に捧げられた贄。結婚などできぬ身だ」
「でも……!」
「だいたい、ロズマリヌスが皇女との結婚など望まぬであろうよ。そなたの恋愛ごっこにあの者をつき合わせるのは酷ではないか?」
思わぬ言葉にイェソルテは愕然とした。
「そんなこと……!」
「あの者にはあの者と同等の身分の娘を相手にするほうが気が楽であろう。現に、下女とよい仲なのではないか?」
「え?」
刹那、イェソルテは気が遠くなったように感じた。
彼女はふらふらと大理石の机の上に手をついた。
「どういう意味ですの?」
「報告があった。夕べ、ロズマリヌスが下女と寝台の上で抱き合っているところを見た者がいる」
「──」
皇女の顔色が白くなった。
「嘘です、彼がそんなこと……! 父上が下女に彼を誘惑させたのですか」
「そこまで手を回さずとも、男女の仲はなるようになるものだぞ、イェソルテ」
父皇帝のロズマリヌスに関するこの余裕は何だろう。
イェソルテは口をつぐみ、強く唇を噛みしめた。
「ひとつ、教えよう」
両手の指を組み、探るように、パウル二世はじっと注意深くイェソルテの顔を見て言った。
「ロズマリヌスは九歳のときに実の父を殺している」
「……!」
「九歳の彼がヘスベルの浜に流れ着いたところを助けられたのは知っておろう? あのとき、ロズマリヌスは嵐の海に落ちたのではなく、自ら海に身を投げていたのだ」
「……」
「あの凄まじい嵐の海で生きて浜まで流れ着いたのはまさに奇跡じゃ。親殺しの罪の裁きを神に委ね、彼は海神に生かされた。彼は神のものであり、神に愛され、神の加護を受けている。ゆえに、余は彼を重宝しておる」
「……」
イェソルテはひどく混乱していた。
ロズマリヌスが自分の父親を殺していたこと。下女との関係。
何をどう考えていいのか判らない。
けれど、彼女が彼を愛している事実は変わらなかった。
「ロズマリヌスと話します」
彼女は低い声で言った。
「何もかも、よく解りません。彼と話をして、もう一度、父上にわたくしの意見を奏上いたします」
必死に絞り出したイェソルテの言葉を、皇帝はにべもなくはねつけた。
「それはできぬ」
「どうしてですか」
「ロズマリヌスには、今朝、新たな任を与え、ケサドに向かわせた。半年ばかり、そちらに滞在させる」
「ケサド? 半年……?」
商業都市のケサド市は、タナトニアの首都・ヘスベルと隣国の都市国家・レアテを結ぶ街道上にある。
この街道は銀の街道と呼ばれ、緇海に面した西の端のヘスベルから、大陸を横断し、東の端のレキアテル王国の最東の都市よりさらに東へと続いている。
「父上……それは、わたくしとロズマリヌスを引き離すために……?」
「そう取って構わぬ」
イェソルテは両手を握りしめ、激しい瞳で父を睨んだ。
言うべき言葉が見つからない。
父の顔をまともに見ていられなかった。
「……失礼いたします」
わずかに頭を下げ、低い声でそれだけを言うと、イェソルテは父皇帝の前から身を翻し、執務室を飛び出した。
確かめなければならないと思った。
何が真実であるのか。
イェソルテは美しい長衣の裾を大きく揺らし、城内の兵舎の中にあるロズマリヌスの部屋へと急いだ。
2022.7.24.